5.黄昏時と、カレー時。(時々、渋沢栄一)

「ただいま」

 紗良さらと別れた快龍かいたつが家に帰る頃には、すっかり暗くなっていた。

 玄関には母のパンプスと、父の革靴が並んでいる。

 父のものよりも一回り大きな黒いスニーカーを、一応揃えて置いた。

 玄関を開けた時にすでに、カレーライスの匂いが充満していた。


「あ、ちょっと待ってね、今快龍が帰ってきたから」


 リビングの扉を開けると、母の真由美まゆみが耳にスマホを当てたまま話しかけてきた。

 父の裕二ゆうじは、四人がけテーブルに座ってネットニュースを眺めている。


「お帰りなさい。今、ちょうど快斗かいとから電話がかかってきたところだったの。替わるわね」


 真由美がスマホを快龍に差し出す。

 快斗とは、イタリアにバレー留学中の快龍の兄だった。

 彼には才能があり、今後はプロとして活躍することが期待されていた。


「いや、俺は話さない」


 快龍は、真由美が伸ばした手を避けて、裕二の隣の席に座った。

 父は何も言わなかった。元々寡黙かもくな人間だ。


「そう言わずに、イタリアの話聞いたら良いじゃない。どのパスタが美味しいの、とか」


「パスタは栄養素にとぼしいから嫌いなんだよ」


「あんた、人生の半分損してるわよ」


「人生の半分がパスタな日本人なんていないからな」


「……、そう。仕方ないわね。あー快斗、ごめん、快龍ちょっと疲れてるみたいだから、また今度ね。それより、最近はどう?」


 真由美は観念したのか、いつもより数段明るい声で電話口に戻った。

 優秀な息子との久々の会話に、気分が高まっているのだろう。

 母親として当然の姿だが、快龍にとっては目の毒だ。

 食卓の上に置かれているお皿とスプーンに視線を移した。

 銀色のスプーンに映る自分が、歪んで見えた。


 幼い頃は、快龍も兄のことが好きだった。

 彼がバレーをしていたから、快龍もバレーを始めたのだ。


 しかし、兄は人間として完璧すぎた。

 バレーもうまく、社交的で、きっと留学先でもうまくやっているのだろうと思う。

 彼は、大きな怪我をすることもなかった。

 淡々と努力して、着々と才能を開花させていった。


「今日はカレーだ。うまいぞ」


 隣に座る裕二がポツリと言った。

快龍の葛藤を理解しているのか、父がそれ以上深く触れてこないのがありがたかった。


 電話を終えた母と、三人で食卓に着く。

 牛肉が贅沢に入ったカレーは、確かに美味かった。

 半分は言い過ぎだが、カレーは人生の1/20くらいを占めているかもしれない。

 いつの間にか、綺麗に完食していた。


***

(まずい。紗良を怒らせるかもしれない。)


 今日は部活の日なのに、担任の話がなかなか終わらず、終礼が長引いていた。

 坊主頭のイカつい担任は、既に20分も説法を続けている。


「ああ、それでだな。黄昏時たそがれどきというのは、日が暮れて暗くなって、相手の顔が見分けられなくなった時に『あなたは誰ですか?』と問いかけることが、名前の由来なんだよな」


 何がどう転んでその話題になったのか、快龍には全く思い出せない。

 途中までところてんの話で盛り上がっていたはずだったのに。

 とにかく、早く終わってくれ。


「それじゃあ、最近はまだ暗くなるのも早いから、皆も気をつけるように」


 快龍の貧乏ゆすりが届いたのか、担任は黄昏時の話題で切り上げることにしたようだった。

 学級委員の号令で立ち上がって、軽いお辞儀をした。


 さぁ、ここからはタイムアタックだ。

 既に二十分も遅れている。

 紗良のことだ。きっと既にネットを立て終えて、ぷっくらと頬を膨らませていることだろう。

 急いでリュックに教科書を詰める。


「快龍〜、また渋沢栄一になってんぞ!」

 

 だがしかし、こういう時に限って綾世あやせは話しかけてくる。

 手早くリュックを整理する快龍の手首を、ぐっと掴んだ。

 一瞬理解が遅れたが、渋沢栄一になるとは渋い顔をしているという意味だ。多分。


「綾世すまん、今急いでるんだ」


「あ、そうなん? 悪い悪い。でも聞いてくれよ。昨日も塾だったんだけどさ、なんと、水城みずしろさんと同じ塾だったんだよな!」


 水城、という単語が耳に入り、快龍の手がぴたりと止まる。


「ミズシロって、あの、水城千尋?」


「それしかないだろ!」


 綾世が八重歯をのぞかせてニィっと笑った。

 彼は今日もセンターパートの長髪を、ワックスで艶々つやつやにしていた。


「やっぱり、有名人なんだな」


「そりゃそうだろ。成績優秀、運動もできるし、お前と違って物腰も柔らかい。まるで朝ドラのヒロインだよ。みんなから好かれてる」


「実際、お嬢様らしいしな」


「でも、流石に俺はクラスが違ったわ。水城さん、特進クラスだったぜ。東大とか狙ってる系の」


「そうなのか」


 表向きは冷静を装ったが、胸中は穏やかではなかった。

 快龍も、一年の終わり際にあった全国模試では東大理三を第一志望としたのだ。

 なかなか手応えはあった。

 しかし、結果はD判定だった。

 頂点を目指しているものの、そこまでの距離の遠さに愕然がくぜんとした。


「水城さん狙う時は、ちゃんと宣言してからにしてくれよな。俺も楽しみたいし」


 綾世はそう言って髪をかき上げた。銀色の輪っかが、いくつも耳についていた。


「狙わねえよ」


「ま、確かに快龍が恋愛してるのなんか想像つかねぇな」


 それはそれで失礼だろ。

 そう言おうとして、ハッとする。

 いつの間にか、綾世のペースに乗せられている。

 時計を確認すると、さらに3分をロスしていた。

 これはよくない。紗良の頬がますます膨らんで、パァンと破裂してしまうかもしれない。


「すまん! じゃあ俺、もう行くわ!」


 無理やり話題を切り上げて、ガタガタ机にぶつかりながら教室を後にした。


 階段を駆け降り、急いで靴を履き替え、走りながら昇降口を後にした。

 校庭では既にサッカー部が練習を始めている。

 急がねば。その一心で、膝を労わりながら最大限のスピードを出した。


 部室棟に向かう角を反対方向に折れて、体育館の裏側へ。

 ひっそりと雑草に覆われた、旧倉庫が視界に入る。

 教室からここまで2分。悪くないペースだ。

 錆びたドアに手をかける。


 その時、扉の向こうから低い音が聞こえた。


〈うううううう。ああ。ああああ〉


――っ!?


 使われていないはずの倉庫から、ゾンビのようなうめき声が響いた。

 霊が出るという噂のある、旧倉庫。

 その音はすぐに止んだが、鼓膜の中に嫌な響きが残っている。

 ドアノブを握る自分の手が、小刻みに震えていた。

 

(でも、早く着替えないと紗良に怒られる)


 お化けが怖くて着替えられなかったなんて、紗良には言えないしな。

 幼い頃からお互いを知っているので、こんなところでイメージを崩したくない。

 

 快龍は再び扉のノブに手をかけた。

 ギギィと不穏な音がして、扉が開いていく。

 煉獄れんごくの炎のような西陽が、倉庫の暗闇の中に差し込んでいる。


 ガタッ!!

 ハードルがあるあたりから、急に物音がした。


 確実に、ナニカが、いる。


「誰か、いるのか?」


 あなたは誰ですか? が転じて生まれた黄昏時。

 倉庫内の空気はひんやりと冷えており、背筋をすっと冷たい汗が流れる。

 電灯は使えないため、スマホのライトを点灯する。

 物音がした方に、ライトを向けた。


――っ!!!


 ギョロリとした目が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。


 なんだこれは!?

 スマホを落としそうになって、慌てて体勢を整える。

 体幹を鍛えていたおかげで、腰を抜かしたりはしなかった。

 もう一度、その大きな目を快龍は見つめる。


 大きく開かれたその目には生気が宿っていなかった。


 アッシュグレーの髪をした、フランス人形だ。

 人間くらいの大きさをしていて、藍色のドレスに身を包んでいる。


 崩れたハードルの間から、不気味なほどに精巧な人形がこちらを見ていた。


「なんでこんなところに人形があるんだ」


 一瞬安心しそうになったが、また別の疑問が浮かんでくる。

 もしこれが人形なら、先ほどの呻き声は何だったんだろう。

 心臓はまだ乱暴に脈打っていた。

 

「……いや、あれは俺の心の弱さが生み出した幻聴だ」


 まるで主人公みたいなセリフで、おのれを鼓舞こぶする。

 こんなことで怖気付いているわけにはいかない。

 今、この瞬間も紗良が待っている。

 急いで着替えなくては。


 快龍は自分にそう言い聞かせてベルトを外し、一気にズボンを下ろした。

 その時、また、ガタンッとハードルが倒れた。

 全身の毛が、ゾワァっと逆立つ。


「ねぇ、いきなり変なもの見せないでくれる?」


――え?


 女の声がした。

 女の声。

 機械のように、感情のない声。

 明らかに、その声は、人形の方から、聞こえて。

 小刻みに震えながら、快龍はゆっくりと振り返る。

 

 先ほどは真っ直ぐに経っていた人形が、腰に手を当てて首をかくんと曲げていた。


「え、な、どうして」


「どうして、はこっちのセリフよ。北 条 く ん」


 フランス人形が、ゆっくりと瞬きをした。

 蝶の羽のようなまつ毛が、羽ばたくみたいに動いた。


「お、お前は――」


 何故だかはわからない。

 ひらひらとレースのついたドレス姿で、ひとりで旧倉庫にいるなんて、意味がわからない。


「……、雪、か?」


 まるで人形のように表情のない雪は、イエスともノーとも言わなかった。

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