2.一回でいいから
「女バレのマネージャーに? 俺が?」
驚きで表情が固まった
外でずっと待っていたからか、彼女の小さな手はひんやりと冷たかった。
「うん! 快龍くんならピッタリだと思うよ。背も高いし、目つきはちょっと怖いけど、うちの部員たちも喜びそう!」
「いや、待ってくれ」
「え? なんで?」
「俺はもう満足にバレーができないんだよ」
快龍はその小さな手を振り払った。
怪我をして勝利に貢献できなくなって以来、快龍はバレーを遠ざけるようになった。
快龍のいとこで、怪我のことを知っている紗良なら、その悔しさを分かってくれると思ったが、彼女は快龍がバレーを拒絶していることなどお構いなしであるようだった。
「できなくてもいいよ! マネージャーやから」
「だけど」
「お願い! 力を貸して!」
紗良がまた一歩快龍に近づいて、微笑んだ。
まるで魔女の微笑み、みたいだった。
「あ」
急に彼女が空を見上げる。
灰色の雲が寒々しくたちこめる、曇天だった。
その時、彼女の願いが空に通じたのか。
あるいは、本当に彼女が魔法でも使ったのか。
頭上からパラパラと大粒の雨が降ってきた。
紗良はハッと快龍を見つめ、しめたとばかりに太い腕を掴んで引っ張る。
「ほら、ちょっと雨宿りするくらいの気持ちで! 体育館行こ!」
無情な雨が紗良と快龍を濡らしていく。
紗良の引っ張る力は快龍にしてみれば弱く、抗おうと思えば簡単に抗うことができた。
しかし、快龍には彼女を置き去りにすることができなかった。
――ほら、大丈夫だよ!
幼かった頃の紗良も、こうやって快龍を引っ張ってくれていたことを思い出していた。
冷たく、それでいて柔らかな手に引かれるまま、体育館まで走った。
「なぁこれ、客引きだったら違法だからな」
「え? 聞こえへん!」
どこまでも明るい人間だ。
ザーザーと雨が地面を叩く中で、紗良は「キャー!」と楽しそうな悲鳴をあげていた。
***
学校と連結している方の出入り口ではなく、体育館の横側にある、直接外から出入りできる扉の前に二人で駆け込んだ。
体育館の屋根がせり出ていて、軒下に畳二枚分ほどのスペースがあるここには、もう雨は届かない。
1分も走っていないので、幸いなことにびしょ濡れというほどにはならなかった。
「いやぁ、急に凄まじい雨だったなぁ」
紗良は自分のリュックから紺色のタオルを取り出し、髪の先端を軽く拭いていた。そのまま「使う?」と言ってそのタオルを差し出したが、快龍は遠慮した。
「中に他の部員たちはいるのか?」快龍は扉を指さして言った。
「うん。私が帰ってくるまで適当に練習しといてって、副キャプテンのトーカに言ってあるから」
タオルをリュックに戻した紗良が、重そうな扉に手をかけた。
バレー部の練習。
快龍にとって、複雑に響く言葉だ。
指先に触れるボールの感触や、キュッとシューズが床を鳴らす音は、今でも目を閉じれば容易に思い出せる。
懐かしい気持ちと、もう見たくない気持ちが混じりあう。
ガガガガと錆びた金属が擦れる音がして、紗良が扉を開いた。
俺は、再びバレーに青春を投じてもいいのだろうか。
そんな迷いは、一瞬で打ち消されてしまった。
その先に広がっていた光景に、快龍は思わず息を呑んだ。
「これのどこが練習なんだよ」
ただっぴろい体育館に、ネットは立てられていなかった。
代わりに視界に飛び込んできたのは、扉付近に座ってぼりぼりとお菓子をむさぼっている、制服姿の三人の女子生徒だった。
紗良が慌てて靴を脱ぎ、三人の元へ駆け寄っていく。
快龍も一応彼女の後に続いて、体育館に入った。
「トーカ! 練習しててって言ったじゃん」
三人に向かって、紗良が焦った様子で言った。
「いやぁ、それがさ! どうしてかはわかんないけど、気づいたらお菓子パーティが始まってたんよ!」
トーカと呼ばれた女子生徒は、緊張感のない返事をした。
彼女は胸元まで伸びた金色の髪の上に黒いニット帽をかぶっていた。
カッターシャツのボタンも二つ外して、絶妙に着崩している。
清楚な紗良とは正反対で、ちょっとしたギャルのような風貌だった。
「気づいたら始まってたって、そんなわけないでしょ!」
正論を口にする紗良の前で、トーカはお菓子の大袋の中をゴソゴソと探っている。
「あ、センチュリーマアムあるけど、紗良も食べる?」
「いらないから」
「ええぇ、塩バニラ砂糖しょうゆ味もあるのにぃ?」
そう呟きながら、ニット帽のトーカはまたお菓子の小袋を破って開けた。
――塩バニラ砂糖しょうゆ味?
丸いクッキーのようなお菓子を、真っ赤に塗られた唇の隙間に運んで齧る。
よく見ると爪には黄色のネイルをあしらっていて、練習する気は元々なさそうだった。
「
紗良は残り二人の方に視線を移した。
彼女の視線の先にいる二人は、片方が清潔感のあるポニーテール、もう片方はアッシュグレイの髪をした、まるで人形のような顔の女生徒だった。
――チヒロ?
快龍はその名前をどこかで聞いたことがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。
「すみません! 私もお菓子の誘惑に負けてしまいまして……」
ポニーテールの方が、立ち上がって頭を深々と下げた。
真面目すぎる彼女の対応に、紗良も面くらったみたいだ。
「いや! 千尋、そこまでしなくてもいいよ」
紗良が穏やかな声を出す。
顔を上げたポニーテールの女は、バカがつくほど真面目なのか、ほっと胸を撫で下ろした。
すっと通った鼻筋に、綺麗な歯並び。四人の中では一番大人っぽい印象だった。
こっちの女子が千尋か。
顔がわかっても、その名前をどこで聞いたのか、やはり思い出せない。
立ち上がって分かったが、千尋は女子にしてはかなりの長身だった。
「紗良、後ろにいるでっかい男は誰なん?」
トーカが千尋の横から口を挟んだ。残った一人、人形みたいに長いまつげをした女子は必然的に雪という名前になるが、雪は体育座りの膝の間に顔を
「説明もせずに連れてきたのかよ」快龍は紗良に向かってぼやいた。
「だって、本当に来てくれるかわからんかったし」
紗良が振り返って小さな声で
いや、半分無理矢理だっただろ。
見知らぬ部員たちの手前、さらなる
「みんな聞いて!」紗良が三人に向かって言う。
「聞いてるよ」あぐらをかいているトーカは、膝の上で頬杖をついていた。
「この人は、快龍くん。今日からうちの部活のマネージャーになってもらうことになりました! はい、拍手!!」
パチパチパチパチ。
紗良ひとりの大きな拍手が、虚しく響いた。
一方のトーカは眉をひそめ、
千尋はポカンと小さく口を開き、
雪は快龍の方を見向きもせずに遠くを眺めていた。
「「「……」」」
気まずい沈黙を最初に破ったのは、トーカだった。
「紗良。どういうつもりなん?」低く鋭い声だ。
「え、だから、快龍くんをマネージャーにーー」
「なんで?」
「快龍くんはほんとにバレーが上手で、でも今は怪我してて部活には入れないから……」
「違う。ウチが聞きたいのは、なんで勝手に決めたんってこと」
トーカが立ち上がり、紗良の目の前で腕組みをした。
どうしていいかわからずオロオロしている千尋ほどではないが、トーカも167cmはありそうなくらいに身長が高い。ギリギリ160cmあるかどうかの紗良と並ぶと、迫力があった。
「勝手に決めたのは、悪かったと思うよ。でも、新歓しても全然一年生入ってくれなさそうだし、私なりに何ができるのかなって考えて、お願いしようと思ったの」
劣勢に立たされている紗良は、負けじと声を張った。
これは、喧嘩が始まるのではないか。
一抹の不安が脳裏をよぎる。
しかし、トーカはふっと眉の力を緩め、紗良の両肩を優しく抱いた。
「ねぇ、紗良。ウチらはもう、バラバラになりたくないんだよ」
「それはそうだけど……」
トーカに抱きしめられ、紗良の表情からも緊張が抜ける。
鮮やかなネイルが施された手で、トーカは紗良の背中をさすった。
「ウチは紗良のことも好きだし、この部活だって大好きだからさ。いいじゃん、このままでも」
「でも、でも、私はもっと練習して」
「そうやってまた突っ走ってチームが壊れるくらいなら、負けてもいい。試合に出れなくてもいい。このままのんびり部活を楽しめたら、それでいい。ウチはそう思う」
優しい声でそう告げると、トーカは黄色いネイルの先端が当たらないように指先で紗良の頬をそっと撫でた。
彼女の指先からは敵対心とかそういったものではなく、純粋な愛のようなものが感じられた。
そんな二人の間に、快龍は口を挟むことができなかった。
トーカはくるりと身を翻して、残った二人に向けて微笑んだ。
「じゃあ、ウチら駅前にドーナツ食べにいくから。紗良も頭冷やして、合流できそうだったら連絡してな」
トーカは「千尋、雪、行こ」と言って、二人を連れて校舎側の出口へと消えていった。千尋は何度かチラチラと後ろを振り返っていたが、他の二人はまるで快龍の存在などなかったかのように去っていった。
***
体育館に残された快龍は、紗良になんと声をかけていいのかわからなかった。
前途多難というより、一寸先は闇。
あの三人にとって、自分が求められていないということは火を見るより明らかだった。
紗良は無言で、体育館の端の方へヒタヒタと歩いていった。
そのまま帰ってしまうのではないか。
そう思った時、彼女の背中が倉庫の中に消えた。
30秒ほど経っただろうか。
彼女は白地に赤と緑の模様が入ったバレーボールを持って倉庫から戻ってきた。
最初は歩いていたが、途中から焦ったくなったのか駆け出した。
まっすぐ、快龍の元へ。
「快龍くん、ブレザー脱いで!」
努めて明るい声を出そうとしているみたいだった。
いたたまれなくて、言われた通りにブレザーを脱ぐ。
紗良も上着を脱ぎ、カッターシャツを腕まくりした。
「いくよ」
紗良が言った。
それだけで、何をするのかわかった。
頭の上で三角形を作るイメージで、彼女が投げたボールを捉える。
必要な力だけを球に伝えて、オーバーハンドトスをした。
ボールはふわりと、彼女の真上に返った。
紗良が同じようにボールを浮かせ、
返ってきたボールをさらに快龍は返した。
時々、両手を腰の前あたりで組んだアンダーハンドパスを交えながら、二人で球のやり取りをした。
ボールが手に触れる音だけが響いていた。
「やっぱり、うますぎるよ」
100回はパスを交わしただろうか。
紗良がふと呟いた。
快龍は黙っていた。
「怪我した後も、ずっとボールに触ってたんでしょ?」
「……」
確かに、部屋の中でボールには触れていた。
だが、それが何になるというのだろう。
ハムスターが回転装置の中でぐるぐると走っているのと同じだ。
どこにもいけないし、何にもならない。
「ねぇ、小さい時にした約束、覚えてる?」
「……」
「二人でプロになろうって、指切りしたよね」
「……」
紗良は指切りをするのが好きだった。
その約束は、快龍も覚えていた。
忘れてしまいたいと願っても、消えてくれなかった。
「残酷だよね。子どもの夢って」
「……、それは、その通りだな」
「今の私たちを見たら、あの頃の私たちはなんて言うんやろうね」
紗良がいきなり、右手を大きく後ろに引いた。
スパイクの構えだ。
無意識のうちに、身体が反応してしまう。
快龍がレシーブしたボールは理想的な半円を描いて、紗良の胸の中にぴったりと戻っていった。
紗良はそのボールを返さずに、抱き抱えるようにキャッチした。
「まだまだ、現役じゃん」
紗良はボールを床の上に置いて、快龍に背を向けて歩き出した。
冷ややかな体育館の床の上を、一歩ずつ確かめるように。
「トーカも言ってたけど、みんな、負けてもいいって思ってるの」
彼女の声には涙が混じっているみたいだった。
「部活だから、楽しい方がいい。そう思ってるんじゃないか?」
「うん、そうだね。確かにそれも一理あると、私は思ってる」
彼女は床に引かれた白線の上を歩いているようだ。
両手を平行に伸ばして、綱渡りをするみたいに。
「快龍くん、私もね、負けてもいいと思ってるの」
彼女が立ち止まった。
華奢な肩が小さく持ち上がって、力が抜けたように下に落ちた。
「何回負けてもいいの」
彼女が急に振り返る。
柔らかに巻かれたボブヘアが、ふわりと靡く。
誰もいない体育館に、彼女の凛とした声が響いた。
「でもね、一回でいいから、私は勝ちたい」
紗良は、今まで見せたことがないような表情で、泣きながら笑っていた。
しかし快龍には、その笑顔に心当たりがあった。
――ああ、悔しいんだよな。
勝ちたいのに、何もできないから、負けを受け入れて笑う顔。
胸の奥に閉じ込めていたぐちゃぐちゃの感情が、揺さぶられる音がした。
「……目指せ公式戦1勝、か。あの頃の俺たちが聞いたら笑うかな」
快龍の決意が固まっていく。
元々、心のどこかで未練が残っていたのだろう。
紗良が、理想的なトスを上げてくれたんだ。
すぅっと息を吸い、胸の内のそれを形にする。
「マネージャー、俺でよければ引き受けさせてくれ」
紗良の表情がぱあっと晴れていく瞬間を、快龍はじっと見つめていた。
フィギュアスケートの選手が演目を終えた時のように。
彼女は体育館の真ん中で、全ての照明を浴びて輝いているみたいだった。
「ありがとう!! 本当に、ありがとう!」
駆け寄った紗良が手のひらを差し出して、快龍はそれを力強く握った。
自分はもう、主役にはなれない。
でも、こうやって頑張っている人間の力にならなれるのではないか。
彼女なりの勝利に、貢献できるのではないか。
「じゃあ、明日から練習開始だな!」
「快龍くん、笑顔ぎこちないな!」
ハハハって笑う紗良の声が体育館に響く。
つられて快龍もふっと噴き出す。
この時はまだ、翌日から練習を開始できると思っていた。
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