あと少しだけ

のぞむ

第1話

 瞳だけで捉えれば、ただ落ちてくるだけの結晶を、心に映せば、それはいつまでも落ちることなく舞う。


「落ちてくるだけの雪を、どうして舞っているなんて言ってしまうのかしらね」


 私の両手で彼の右手を包んで、言葉を待つ。どんなことでもいいの。声が聞きたかった。


「いつまでも少女なんだね、君は」

「わたしが本当に少女の時には、そんなこと言ってくれなかったのにね、『大人っぽくて好きだ』って、おばさんって言われてるみたいで全然嬉しくなかった。覚えてる?わたし達まだ高校生だったんだよ?」


 その頃から何度も何度も繰り返した四季の巡りの外に、さらに大きな何か概念的な四季があって、今はとうとう冬になってしまったんだと思った。彼が冬を連れてきた。彼だけが枯れ木になった。


「忘れた。こうやって口に出せば、まだ覚えてるみたいだろ?」


 そう言って彼は笑った。ご丁寧に乾いた声までつけて。もう明るい表情を作るのだって辛いだろうに。優しいな、本当に。


「病人の笑顔なんて見たくないよ、わたし。悲しくなるだけだもん……ねぇ、声だけ聞かせて」

「そっか……でも、本当に覚えてるよ。最近は昨日のことよりも、ずっと昔のことの方が……なんだか鮮明に心に浮かんでくるよ。僕はいつの間にじじいになったらしい。ずるいな、君は。いつまでも少女だ。きっとこの先もしばらくはそうなんだろう?」


 窓の外に目を向けて、彼は午後の光に舞う雪を眺め始めた。本当に優しい。でも、結局それも悲しかった。一人で起き上がることさえ出来なくなった病人が、ただ何かを眺めていることも、降る雪があまりに綺麗なことも、今はとても耐えられない。


「いつまでも子供だって言われてるみたいで、嫌だなぁ」


 声が涙に濡れている。枯れ木の手が少し動いて、それを包む私の手を少し握った。視界まで濡れて、目の前が滲んで行く。だめ、泣かないで……、彼は笑ってくれたのよ。


「不思議だなぁ……」

「何が?」

「僕、もう死にそうだろ?でも、なんだか幸せなんだ。窓の外がきらきら光っててさ、とても綺麗なんだ。走馬灯なのかなぁ。こんな綺麗な雪の日が、前にもあった気がするんだ。君も一緒だった。泣いてたなぁ……。なんでだっけ?覚えてる?」

「……忘れたわよ、そんなこと」


 この病室から出たら、明日にはもう会えないんだろうな。そんな予感がした。きっと冬だけを残して消えてしまう。この冬に私だけを残して、たった一人でどこかへ行ってしまう。どっちの方が可哀想なんだろうね?


「ねぇ、そこはどんな景色なの?」

「前も後ろも、上も下も真っ暗で壁も天井もなくて、窓だけが浮いていて、その向こうできらきら雪が舞ってる。でも窓のこっち側でも同じように雪が舞ってるんだ」

「まるで夢の中みたいね」

「うん……。暗闇が嘘みたいに透明で、落ちてくる結晶が七色に光って、僕たちの足元を過ぎてどこまでも下に落ちていく。本当に夢みたいだよ」


 小さな白い病室で、彼が少しずつ離れていく、そんな錯覚が、彼が幸せだなんて言うから、ただ死んで行く人間と残される人間の、悲しいだけの一場面が、なぜかとても美しく見えた。

 

「雪、積もりそうだしもう行くわね」

「積もらないよ?ずっと下に落ちてくんだ」

「あなたのいる所ではね、でもこっちは違うの」

「そうなんだ……。見えてるものが違うんだね。きっともう最後なんだなぁ」

「そうね、でも明日も来るわ。せめてもう少しだけ、長生きしてね」

「うん、待ってるよ」


 彼はきっと待っていられない。今夜のうちに手の届かない所へ行ってしまうだろう。


 だからせめて、もう少しだけ、走馬灯の中、暗闇に舞う雪を眺めて、私の隣にいてね。

 祈るように手を離した。

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