90|裏側の切り傷
「…誰?」
「死神だ」
「俺に、何か用があるの?」
「…それは」
俺は、可愛いと言われながら育った。
親の趣味で、男なのにいつも髪は首の半分が隠れるくらい長めに切られた。それが尚更女の子のように見えたのかもしれない。
物心着いた時から、親戚、近所の人、保育園の先生、見知らぬ大人、もちろん親も、みんなみんな俺を一目見ては口を揃えて可愛いね、と言った。
だから、俺は可愛いのだと自分でも思っていた。
昔はそんなに気にする事はなかった。
歳を重ねて小学校に上がる頃から、知らないおじさんに声をかけられることが多くなった。
連れていかれそうになる直前で、いつも母が助けてくれた。
だんだん親も過保護になって、学校の送り迎えは当たり前になった。担任の先生には常に蓮をよろしくお願いします、何かあったら連絡してください、そう言って頭を下げていたのが印象深い。
でも、そんなことしても意味無いと身をもって実感する。
事件が起こった。小学校二年生の秋。
当時の担任の先生に体育が終わったあと更衣室に残るように言われた。他の生徒には話があるから自習しているように、と伝えて、俺は担任と二人きりになった。
当時の担任は男で、親も信頼している人だった。
「蓮くん、今からすることは絶対に秘密だよ。約束できる?」
「…?はい!」
先生との秘密、それだけで子供は嬉しくなる生き物だ。
「いい返事だ。じゃあまず服脱ごうか」
体操服を脱ぎ、下着姿になった。
「それも脱いで」
「え…?」
「いいから」
疑問に思いながら、全裸になった。同性だったから、そこまで恥ずかしいという感情はなかった。
でも、先生はスマートフォンを取りだし、壁に立てかけて俺をビデオ撮影し始めた。
何をされるのだろう、そう思うのも束の間だった。
俺の体を押さえつけて唇を重ねた。舌をねじ込まれて、呼吸がしづらい。
俺は何が起きているのかわからず、必死に抵抗した。キスしたら何か起きてしまうと思ったから。
小さな抵抗は意味をなさなかった。
暴れる手足も、大声を出そうする口も、大きな手で全て抑え込まれてしまった。
大人の体に犯されるというのは、死ぬほど痛い。
小学生の体なんて小さすぎて大人の指すら大きいと感じる。
通常知ることのなかったものはこの目で、体で、知ってしまった。
事が終わると、先生は俺の動画を親に送り付けるぞ、ネットに投稿するぞ、そんなことされたくなければ今起きたことは絶対に他の人に言うな、と脅してきた。俺は必死に頷き、教室に戻った。
体液でぐちゃぐちゃの体と涙で腫れた目を隠して。
何も無かった風を装い、友達と何気ない会話をした。
先生と何話してたの?
当然、みんな気になるから俺に質問してきた。
「えっとね、最近嫌なことあったから聞いてもらってた」
「嫌なこと?また変な人に声掛けられたの?」
「あ…うん、そうそう」
本当は、声をかけられるよりも嫌なことをされた。おじさんじゃなくて、信頼していた先生に。そんなこと、言えるわけなかった。
友達、親に自分のあんな姿見られたくない。子供の俺は必死に隠した。
自分の心が傷ついていることにも気づかず。
それから時は流れて冬が過ぎ、春が来た。
小学三年生になると担任は別の人になった。
それから進級しても担任は被ったり、被らなかったりしたけれど二年生の担任とはそれきり一度も当たることはなかった。
小学五年生、六年生になると同級生の女の子から沢山告白されるようになった。でも、何も感じなかった。優しく断ると、みんな悲しそうな、泣きそうな表情で俺の前から去っていった。
付き合うって、何すればいいの?
ドラマみたいな、少女漫画みたいな、手を繋いだり、デートしたり、プレゼントを送りあったり?
それとも、先生としたようなこと?
あの時の事は誰にも話せないままだった。
バレンタインのチョコも俺のロッカーや机に大量に詰め込まれていた。どれも可愛らしい手紙やラッピングだった。
ひとつずつ、ちゃんと食べた。でも、誰にもお返しはあげなかった。感謝はしてる。俺の事を好きになってくれたんだ、ありがとうって。
でも、それだけ。
友達はちゃんと居たし、妬まれることもなかった。みんな、良い奴だった。
いつの間にか中学校にあがって、小学校からの友達と、他の小学校の人たちとでバラバラに混ざったクラスになった。
最初は慣れなくてしばらく仲のいいグループで話していた。
それに加えて中学校は部活に入らなきゃいけない。消去法で陸上部に入った。球技は昔から苦手だったから。
仲のいい友達はみんな球技系の部活で離れてしまった。他の小学校の人たちと同じ部活になって、少しずつ仲良くなっていった。
顧問の先生も先輩たちも、優しくてすごく居心地のいい部活だった。
部活の友達からクラスの友達へと交友関係も広がっていって、夏休み前にはいいクラスだな、と思えるほど馴染んでいた。
小学校のトラウマも、少しずつ薄れ始めていた。
なんやかんや過ごしているうちに、中学二年生になった。クラス替えがあったりで環境が変わっても特に困ることはなかった。一年生の時と同じで、夏が始まる頃にはだんだん打ち解けて数人と遊んだりすることもあった。
部活の友達とプライベートで遊んだりして、部活と遊びで楽しい日を過ごした。
夏休み中の部活の日、ふと練習が終わって荷物をまとめている時、信頼している友達に小学校の時のトラウマを打ち明けた。
周りは誰も居なくて、これからスマホで親に迎えを頼もうという時、何となく、本当になんとなく話のネタで。
「俺、昔担任の先生にレイプされたんだよね」
「え?!」
「小学校低学年の頃だけど」
「やば!お前それ誰かに言った?」
「あー、今まで話したことなくて。その先生に口止めされてたんだよね。今初めて言った」
「マジ?それ俺に言っていいの?」
「…うん。お前は、信頼してるから」
「へぇ、そうなんだ…びっくりした」
「他の人には言わないで欲しい、まだ思い出す時あるから」
「わかった」
笑顔でそう言ってくれた。
深くは話さなかったものの、軽蔑されたり、馬鹿にされたりしなくて安心した。
話せたことで、俺の中にある突っかかりが少し無くなったような気がした。
次の部活の日はお盆が明けた一週間後。
「んじゃ、また今度部活で」
「おう、じゃーな!」
なんて事ない、いつも通りの帰り道だった。
母親に車で迎えに来てもらって、家までいつも通り帰った。
一週間後、部活の日。
友達とまた話せることを楽しみに学校に登校した。
暑い日だった。
みんな大きな水筒を持ってきて、流した汗と暑さを凌ぐためにがぶがぶ飲んで後半には無くなって近くの水道水を飲んでいた。
女子は日焼け止めを休憩に入る度に塗り直している。
今日もいつも通り終わると思っていた。
「ありがとうございました!」
顧問に最後の挨拶をした後、荷物をまとめていた時、先輩たちから声をかけられた。
「蓮、この後こいつらと遊び行こうって話してたんだけど、来る?」
「いいっすね!行きます!」
先輩たちの中には同級生もいた。全員男子。陸上部の仲のいい人達で遊ぶのかな、と思ってもちろん二つ返事で了承した。
スマホで親にメッセージを送って、先輩たちに着いて行った。
学校から少し歩いたところにあるカラオケに入った。友達とよくここで遊ぶことがあるから特に疑問を持つことなく案内された大きめの部屋に入った。
部屋に入った途端、みんなの空気が変わった。
俺以外の人達が扉のガラス面を覆うようにカバンを積み上げる。電気は少し暗めにつけられた。
一人の先輩がマイクやリモコンになんて目もくれず、俺の方へ近づいてきた。
何気なく座っていた俺は先輩に押し倒され上に乗られた。何が起きているのか状況を把握するのに時間がかかった。
「お前さ、昔男からレイプされたんだろ?」
先輩の口から出た言葉に全身の血がざっ、と引いた。
冷や汗が吹き出し、手足が冷えていく。
心臓がどくどくと早鐘を打ち、自分の呼吸と心臓の音がうるさいくらいだ。
「え?マジなの?!ウケるんだけど!」
面白半分なのか、本当なのか、まだ疑っていた。
でも、本当は本能的に理解していた。
これは、遊びなんかじゃない。本当に、襲われる。
信じたくない。だって、いつもあんなに丁寧に教えてくれて、困っている時は手伝ってくれる優しい先輩だったから。
だから、疑ってしまう。
「せ、先輩?あの、何でそんなこと聞くんですか?」
「え?この前部活内のチャットでそういう情報が回ってきてさぁ。本当ならやばくね?ってなってみんなで確かめようってなってさ。でもその反応本当だろ?」
不気味に口角が上がっている。
俺がトラウマを話したのは一人しかいない。なのに何でそのことを先輩が知ってるんだ。
あの時、他には誰もいなかった。これだけは間違いない。
でも、当の話した友達は今ここに居ない。
逃げたのか、とすぐに理解してしまう。
「……ちがい、ます」
精一杯の否定をする。
「ま、どっちでもいいや。今ここにいる奴らお前目的で来てるから」
「…え……」
上に乗っかられて、逃げられない。
他のみんなもニヤニヤとこちらを見ている。
「蓮ってそこらの女子より顔可愛いよな。汗かいた時服で拭いてる仕草とか、我慢してるこっちの身にもなれっての」
そう言いながら先輩は服を脱ぎ始め、周りの人達はスマホを取り出してこちらに向けてくる。
嫌だ。やめて欲しい。
ここから今すぐ逃げ出したい。
また、始まるのか。
あの時の悪夢が、また。
それだけで俺の目からは涙がぼろぼろと溢れてくる。
「や、やめて…ください」
手で顔を覆い、涙を隠した。
「あーあ、泣いちゃった。そんな怖がんないでよ、優しくするからさ。なぁ、お前らで慰めてやれよ」
「いいね」
「え、いいんすか!」
カラオケという場所が、助けを求めるには最悪すぎる場所で、一人と複数人という状況に、何もする気力が湧かなかった。
ただただ、ひたすら泣くしかできなかった。
痛くて、辛くて、苦しくて、何も考えたくなかった。
気持ち悪い。
今まで尊敬していた先輩、信頼していた友達。
みんな気持ち悪くて仕方ない。
誰か、助けて欲しい。一瞬でもそう思ってしまえば、あの時のトラウマがまた蘇る。誰も来るわけないとわかっているから。
叫ぶことすら諦めて、俺は時間が過ぎるのを待っていた。
フリータイムを存分に有効活用した先輩たちは、俺をその場において会計すら押し付けて出ていった。
直後は放心状態だった。
しばらく泣いて、ある程度落ち着いてきた頃、吐き気を覚え、急いで服を着てトイレに駆け込んだ。
小学校の時のトラウマと、さっきの先輩たちとの行為がごちゃごちゃに混ざって過呼吸になる。吐いたせいで呼吸をする度に喉が痛い。
友達に話したことが悪いと、そう思いたくなくても事実そうであることに悲しくなる。
今日だけで、通常できることのなかったアザや噛み跡が何個できたのか。
体の至る所にまだ感触が残っていて気持ち悪い。
髪の毛も汗以外の液体でベタベタと体に張り付いて毛先はぐちゃぐちゃに絡まっている。
動画も取られてしまった。
本当に、昔と同じ。いや、それ以上かもしれない。
明日から、どうやって過ごせばいいのかな。
トイレから戻り、自分の荷物からタオルを取り出した。ぼーっとする頭である程度の身なりを整える。
会計金額はかろうじて十円のお釣りが返ってくるくらいギリギリだった。
店を出るともう夕日が沈んだ後で、薄暗かった。
親に迎えは大丈夫と言ってしまったせいで歩いて帰るしかない。正直、体が痛くて足が震えるくらいには辛い。
それでも頑なに迎えを呼ぼうとしなかった。母親に今の姿を見せたくなかったのか、先輩たちのことを話してしまいそうになったからか、理由は分からない。
とぼとぼ歩いている時、声を掛けられた。
「ねぇ、君」
「……はい」
俯いていた顔を上げると、一人の男の人がいた。爽やかな顔の整っているお兄さん。
今までは太り気味で清潔感がないおじさんばかりに声を掛けられていたせいで、こういう人に話しかけられるのは初めてだった。
「ここら辺にカフェはない?」
「…チェーンのカフェなら、すぐそこにありますよ」
後ろを指さす。
「そうなのか、すまないが、案内して貰えないかい?ここら辺は来たことがなくて」
「…いいですよ」
正直、もう早く帰りたい一心で断ることが真っ先に浮かんだ。
でも、親切にすればなにか返ってくるかもしれない。そう思って了承した。
ぼろぼろの体を隠し、お兄さんをカフェの近くまで送った。
「ありがとう。お礼に何か奢ってあげるよ」
「いいんですか?」
「ああ、これくらいお安い御用だ」
やっぱり、いいことがあった。
さっきまでの暗い気持ちが少しだけ明るくなった。
「何がいい?」
「……じゃあアイスの抹茶ラテでお願いします」
「わかった、席に座っていてくれるかい?」
「はい」
平日のカフェはがら空きだった。
五分くらい待っていると、お兄さんが注文したものを持って戻ってきた。
「おまたせ」
「ありがとうございます」
喉が渇いていたせいで一気にグラスの半分まで飲んだ。
「はは、ゆっくり飲みな」
「さっきまで何も飲んでなくて、めっちゃうまいです。ありがとうございます」
「いいっていいって」
「お兄さん、観光ですか?」
「いや、彼女と久しぶりに会うから、その待ち合わせ場所を探していたんだよ」
「へぇ、いいんですか、こんなチェーンで」
「あぁ、気にしないでくれ」
「彼女さんどんな感じなんですか?」
「うーん、難しいね。…服の系統は綺麗めかな。性格は明るくて活発な子だよ」
少しお兄さんと喋って、抹茶ラテも飲み終わったから帰ろうとした頃、違和感を覚える。
なんだかとても眠い。さっきまで眠気は感じなかったのに。疲れたのかな、なんて思いながら立ち上がった。
「すみません、俺そろそろ疲れたんで帰りますね。ありがとうございました」
「ちょっと待って」
「え?」
お兄さんは突然俺の手を掴んだ。
「さっき、彼女から一時間くらい遅れるって連絡が来てたから、家まで送るよ」
「え、悪いんでいいですよ」
「そんなこと言わず、ね」
「…じゃあ、お願いしようかな」
眠気と疲れで俺は面倒くさくなっていた。それに、お兄さんもなんだか強引だった。
お兄さんの車に通され、俺は後部座席に乗った。
「疲れてるなら寝てもいいからね」
その言葉に甘えて眠らせてもらうことにした。
でも、疑問が浮かぶ。
お兄さんって、さっき歩いてたよな?
それに、俺、家教えてないのに何で寝てていいなんて言えるんだ?
でも、目を閉じた瞬間、俺は睡魔に呑まれてしまった。
次に目を開けた時、俺はまた絶望する。
荒い息遣いが二つ。
ひとつは俺。じゃあ、もうひとつって?
「あ、起きた?」
俺はガムテープで口を塞がれ、手は縛られていた。
後部座席に寝転がされ、またレイプされていた。
「君、ちょろいね。あんな嘘引っかかっちゃうなんて。まあ、僕が睡眠薬入れたから眠いのもあったのかな?それにしても、顔可愛いね。これから君は僕のものだよ」
お兄さんの手や腰使いはさっきの先輩たちとも、昔の先生のものとも違った。丁寧で、感じたことがない感覚。痛くはない。でも、襲われているという気持ち悪さは残る。
「僕、上手いでしょ?男の人とするの慣れてるんだ」
だから誘うのも上手かったのか。
でも、どんな性行為だとしても、俺は早く家に帰りたい。
もう、こんなことされたくない。
早く帰って、母の夕飯が食べたい。
また涙が流れる。
「気持ちいい?」
俺の頬に手を伸ばし撫でてくる。
その手すら気持ち悪くて、ただひたすら顔を背けて体を捩って抵抗した。思うように体が動かなくても、必死に抵抗した。
「暴れちゃダメだよ。痛いこと、嫌でしょ?」
痛いこと。その言葉で体がピタリと止まる。
優しい言葉とは裏腹に、声と表情は氷のように冷たかった。
「君、同じような目に遭った?それとも、彼氏といたの?体液ついてるけど」
口に貼られたガムテープを剥がされ、会話を求められた。
「さっ、き……先輩たちに、カラオケで…」
「あぁ、そうなの。災難だね、一日でこんなにレイプされちゃって」
「帰してください…もう、家に…帰りたいです」
「はは、帰してって言われて帰してたら僕もう捕まってるなぁ」
「え………」
「帰れないよ、君は。ずっと僕と一緒だ」
絶望した。俺は、もう二度と帰れないのか。
今どこにいるのかもわからない状態で、俺はお兄さんにされるがままだった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。コンコン、と突然ノック音が響いた。
「ちっ、なんだよ」
お兄さんは舌打ちをしながら窓を上だけ開けた。
「警察です。お時間いいですか?」
「は?別に何もしてないですよ」
「いや、ここに何時間も停められて近隣の人が迷惑してるんですよ。通報入ってるんです」
「どかせばいいんでしょ?今出ますよ」
「いや、君なんで一人なのに後部座席にいるの?」
「はあ?なんだっていいだろ」
「ちょっと中調べさせてもらえる?」
助かるかもしれない。
瞬時にそれを理解すると、俺は大声で叫んだ。
「助けて!誰か助けて!」
「おいっ!」
お兄さんが振り向いて俺の顔面を殴る。でも警察の人がすぐにこちらに反応してくれた。
「そこに誰かいるのか!」
ドアを開けようとするも、ロックが掛けられて開かない。
お兄さんが運転席に移動して急いで車を発進させた。
間もなく後ろからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
これで、助けてもらえるかもしれない。
俺はそう思った瞬間に安心して眠ってしまった。
目を覚ました時、俺は病院のベッドにいた。
警察の人にあのお兄さんのことを話した。
親にはやはり泣かれてしまった。心配させてしまったこと、犯罪に巻き込まれてしまったこと、色んなことを含めてごめんなさい、と伝えた。母は生きていてくれてありがとう、と何度も僕に言った。
でも、先輩達のこと、昔の担任のことは警察にも親にも言えなかった。
言ったら、また悪いことが起こると思ったから。
しばらく部活には行けない、と親に伝えると「いいよ、しっかり休んでね」と言ってくれた。
夏休み中の部活には、それきり顔を出さなかった。
始業式、ようやく学校に行くと、クラスのみんなから避けられるようになっていた。
原因は変な噂だった。「男が好きでタイプの人を見つけると襲ってくるヤバいやつ」という話。
噂というのは尾ひれがつくものだ。特に中学生なんて噂話が大好きだろう。
でも、それによって誰かが傷つくとか、誰かが得をするとか損するとか、そういう区別はつけられない人が多い。顔も名前も知らない人がすれ違いざま俺に向かって「ゲイじゃん、キモ!」とか「死ね!」とか言ってくるのは、さすがにこたえた。
部活も行きづらくなった。
陸上は個人競技だから練習に影響は無いけど、話し相手が居なくなったことは悲しかった。
後から知ったことがある。
あの時トラウマを話した友達は、俺のことが嫌いだったようだ。
部活の大会、勉強、友達の数も俺に勝てなくて嫉妬していたらしい。
だから、ありもしない事実を本当のことのように誰彼構わず言いふらしていた、と。
それに加え、母が担任の女教師に事件のことを話していた。
先生は個別で話を聞いてくれた。でも、俺にとっては聞かれたくないことだった。
思い出したくもない過去を無理やり聞き出されている感覚だったから。
どこから流れたのか、個別で話していることが周りにバレて、今度はいじめられていることをチクった、と言われるようになった。
いじめているという自覚があったなら、なんでやめてくれなかったのだろう。
そんな疑問を毎日抱えながら、孤立した教室の中で過ごしていた。
だんだん、学校に行くのすら億劫になった。
でも、唯一部長の広瀬里奈先輩は俺を心配して声をかけてくれた。
「大丈夫?いじめられてない?」
「いじめは…無いです。大丈夫です」
「みんな根も葉もない噂ばっかりに気を取られて人のこと考えないよね。こんなに傷ついてる人がいるのに」
「……先輩は、俺の事噂で決めつけて孤立させようとか思わないんですか?」
「だって、私佐原くんが一年の時から真面目に部活やってるの見てるし。いい人だし。仮に佐原くんが男子好きだとして、そもそも私男子じゃないもん。避ける理由ないでしょ?それに孤立させるって、いじめてるのと同じだよ」
先輩は、他の人とは違った。自分の立場も、俺の立場も、何も気にせずに話しかけてくれる、いい人だった。
「俺、男好きじゃないですよ。今は、怖いくらいです。恋愛なんてまともにしたことないですし…」
「そうなんだ…部活内の噂で聞いちゃったんだけど、先生に襲われたっていうのは、やっぱり本当?」
先輩も知ってるなら、もうみんな知ってるんだろうな。
「……はい。前に、友達にその話したら部活内で広められて」
「え?!なにそれ!」
「今は違う噂が学年で流れて、みんなから避けられるようになりました」
少し強引に上げた口角は、上手く笑えていたのかよく分からない。
「ねぇ、他にも何か嫌なことあったら私に相談して。もちろん無理にとは言わない。話すこと自体嫌なことだと思うから。でも、話せなくて苦しんでるなら、私力になるよ」
「ありがとうございます。今は、ちょっと話すの辛いので、また今度お願いします」
「うん、いつでも待ってるから」
先輩、ごめんなさい。
心の中で小さく呟いた。
本当は、誰にも俺の人生を話すつもりなんてない。
時間は流れて、冬になった。
あれから友達は減り続けて、今近くにいる人は同級生じゃ一人もいない。
終業式の日。俺は立ち入り禁止の屋上に入った。
屋上の鍵はピッキング経験がなくても適当にヘアピンでガチャガチャしてると開く。
扉を開けると、冷たい風が体にひしひしと当たる。学ランではやっぱり寒い。
大きなフェンスを乗り越えて、校庭を見下ろした。
もう、いいかな。全部、めんどくさい。疲れた。
そう思って、靴を脱ごうとした。
後ろを振り向くと、見覚えのないフードを深く被ったローブ姿の人が立っていた。
「…誰?」
「死神だ」
「俺に、何か用があるの?」
「…それは」
しばらくの沈黙が流れる。
「俺のことを殺してくれるの?」
「……違う」
「そっか。ごめんね、死神さん。俺死ぬから」
俺は、この世界を生きるつもりはもうない。
「やめてほしい」
「どうして?」
「……見るのが、辛い」
「見なきゃいいんじゃない?」
「そうじゃない」
「ふーん。でも、ごめんね。俺は死ぬよ」
靴を脱ぎ終わると、死神と名乗る男に笑顔を向けてから、屋上から飛び降りた。
・・・ ・・・
飛び降りた少年を急いで追いかけ、地面に衝突する前に抱き込んだ。
少年は抱えられ、傍から見たら空中に浮いているように見えるだろう。
「ごめん…」
どうしても、死んで欲しくなかった。
「……そんなに、嫌だった?」
「………」
「何とか言いなよ、人のこと勝手に生かしておいて理由無しで助けましたはないよ」
安全な屋上のフェンス内まで運んで、少年を離した。
ずっと、姿を消して見てきたんだ。
どれだけ辛いのかも知ってる。
お前は似てるから、放っておけなかった。
「知ってるんだ。お前がどれだけ苦しんでるのか」
「……知ってる?死神さんとは今まで会ったことないけど」
座り込んだ少年は怪訝そうな表情をする。
「そんなこと、今はいい。お願いだから、死なないでくれ」
「じゃあ、聞いて欲しいことがあるんだけど。俺の事知ってる死神さんにしか頼めないこと。」
「……わかった、聞く」
「ありがとう」
少年はぽつりぽつりと語り出した。
人生を、隠してきた心の傷を。
「俺はね、あの先生に襲われた瞬間から汚れてるんだ。ずっと隠してきた。誰にも言ったことなかった。辛かったよ。どうしていいのかわからない、怒られるかもしれない、否定されるかもしれない、攻撃されるかもしれない。ずっとそう思ってたから。
最近になってようやく一番信用してる友達に話せるくらい、傷が薄れた。でも、それも裏切られて昔より汚れは濃くなった。誰も俺を見てくれなくなった。被害者のはずなのに、誰も味方じゃない。むしろ、敵だった。俺がどんなに弁明しようとしても、近寄ることすら許されなかった。
汚れた人間に近寄る人はいない。本当のことを知ろうとしてくれる人もいない。大人に助けを求めようにも、同情されるだけで、最後までは助けてくれない。同級生からは敵視される。結局、話しても話さなくても、辛いことに変わりなかった」
涙すら流さず語り続ける少年に、昔の自分が重なって喉が痛み始める。
「本当は、ずっと前から誰かに真実を話したかったよ。今考えればあの先生は俺のことなんてお構い無しにネットに動画ばらまいてるだろうし。先輩たちも同じ。何も考えず金目的で動画を売ったり、承認欲求とか自分の劣情を満たすために俺を犠牲にする。
警察に行けば、俺は助けてもらえるかもね。たくさん証拠もあるだろうし。先生も、先輩たちも捕まるかもしれない。でも、話したところで意味なんてない。だって、俺のこの傷はそんなことじゃ消えない。加害者達だって変わらない。更生してくれるのが保証されてるならもうとっくに色んな人に話してる。現実にそんな保証はないし、俺の記憶を消せる道具もない。だから今まで誰にも話してこなかったんだ。家族にも、あの事件以外話してない。誰にも言わなければ、普通の、どこにでもいるただの中学生になれたから。」
「そうか…」
小さく呟くのが精一杯だった。
少年から出る言葉は全て諦めだった。そんな言葉が出ても、仕方ないのかもしれない。
「広瀬先輩も、話を聞いてくれるって言ってたけど、それしかできない。俺の傷は話すだけで薄れるほど、浅くない。そんな軽いものじゃない。俺にとっては、何年かかっても付きまとう傷だよ。」
胸に手を当てて俯いた少年の姿は、今まで見た誰よりも憐れだった。
「時間が解決してくれるって、理解はしてる。でも、どれくらいでこの傷が消えるかなんて誰も分からない。傷が消えるまでの長い時間、いつまでも苦しむなんて、俺には耐えられない。誰も信じられないまま、一人で、この傷と向き合い続ける強さなんて、まだ持ち合わせてない。俺は、ただの中学生なんだよ。」
「うん…」
「それでも、俺に生きろって言うの?」
「……生きていれば良いことがある。こういう綺麗事は誰でも言える。
でも、そんなの当たり前なんだ。人生はその倍以上に辛いことがある。人は平等なんかじゃない。お前みたいに、辛いことが連続して起こる人間だっている。
でも、だからといって死を救済にしないでほしい。もっと、違う道があるはずなんだ。皆と同じように普通に生活するだけが正しいわけじゃない。今のまま生きて欲しいんじゃなくて、この状況から逃げて欲しいんだ。逃げたその先に居場所があるかもしれない。こんな小さな学校という箱に、傷つきながら、心を擦り減らしながら通う必要なんてない。」
「傷が消えるまで家に引きこもって、一生親のスネかじりで生きろって?」
「それも一つの手だ。否定はしない。」
「俺はそんな生活したくない。」
少年は力なく笑う。
「でも…」
「いい、もういいよ。」
少年は立ち上がり、ポケットに手を伸ばし何かを取り出した。後ずさりをして距離を取られる。
「もう充分だ。よくわかった。聞いてくれて、ありがとう。死神さん。」
カチカチ、と音がなり、手から何か光るものが見えた。
「待て、やめろ!」
手を伸ばす。でも、届かない。間に合わない。
少年はカッターの刃を自らの首に突き刺した。
崩れ落ちるように地面に倒れる。
地面に血溜まりが広がっていき、しばらくすると時間が停止し、世界は灰色に染まった。
結局、何も出来なかった。
今度こそ生きてくれると、信じてたのに。
一滴の涙が、亡骸に落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます