59|愛してると信じて

「あんたはいらない子なのよ!いつも私の邪魔ばっかりして!」

痛い。

「あんたがいるせいで、また彼氏に逃げられちゃったじゃない!」

痛い。

「顔も見たくない!帰ってこないで!」

腕を引っ張られて、外に追い出された。夏独特の湿気の多い空気に、不快感を感じる。

あらゆるところが痛い。

母親の平手打ちやものを投げられたせいで身体中がずきずきと鈍い痛みを帯びている。

体を引きずりながら、近くの公園まで歩いていく。

ドーム型の遊具へ逃げ込んで、俺は眠った。

今日は、もう限界だ。

目を瞑る瞬間、少しだけ黒いローブを纏った男が見えた。

「死神様、死にそうだったら、起こして」

息の上がった体でそう呟いて、俺は眠った。

「…」




……ここ、どこだ?

目を覚まして、辺りを見回すと見慣れた場所にいた。

あぁ、いつもの公園か。また、追い出されたんだ。母さん、機嫌悪かったもんな。

ぼんやりとそんなことを考える。空はまだ暗くて、街灯の灯りが不気味に地面を照らしている。時計を確認しようとしたけど、全身がずきずきとした痛みを帯びている。

そういえば、いつ殴られたんだろう?

最近、殴られている最中に記憶が飛んで、いつの間にか眠っている。どうやってここに来たのかも思い出せない。重い体を這いつくばらせながら時計を確認した。

針は午前二時を指している。まだ十分に寝れる時間帯。

明日の学校…は休むか。

こんな体で行けるとも思えないし、そもそも学ランは家にあるし。多分、まだ母さんの機嫌は直ってないし、帰って来なくていいとか言われたら結構悲しくなる。

きっと母さんは僕をこれ以上傷つけないように追い出したんだ。僕の帰る場所は母さんのところだ。少し我慢すればまたいつもの優しい母さんに戻ってくれるだろう。

僕はちゃんと愛されてる。愛されてなかったら、とうの昔に殺されてる。

零れている涙に気づかないように、また遊具の中で眠り始めた。


「…ぇ……ねぇ…」

誰かの声がする。

「起きなって!」

驚いて目を開けると、知らない子がいた。

多分、同い年くらいの子。

「やっと起きた、なんでこんなところで寝てるんだよ、熱中症になるよ?」

短く切られた髪、男の子にしては声が少し高めだ。声変わり前なのかな?

きょとん、としていると

「なんか喋ってよ、僕だけ話してるみたいじゃん」

頬をふくらませて怒ってみせる。

「え…と…」

「僕は璃緒、そっちは?」

「…蓮」

「ん、よろしく」

手を差し出され、握手を交わす。

これは…どういう状況だろう。

少し外の様子を見てみると、暑そうな陽がジリジリと地面に降り注いでいる。もう昼をまわったようだ。

ていうか昼間なのに、この人なんでここにいるんだろう。もしかして、学校行ってないのか?

「璃緒…って、なんでここにいるの?」

「え?」

「学校、行ってないの?」

「そっちこそ、なんでこんなところいるのさ」

「僕は……家出、みたいな…」

家出なんてできたらどれだけ良かったか。追い出されなければ、ずっとあの家にいる。

中学なんて行きたくなくても進級していくし、行かなくてもいいかな、とか思った。

いじめが酷かったから。

でも最近はいじめが減ってきた。だからといって無くなったわけじゃない。いじめじゃないと言えばいじめじゃないかもしれない、その程度のことが増えた。そっちの方がタチが悪い。多分、進路のことが引っかかってるから無闇に手を出せなくなってきたのかもしれない。

「ふーん、暇なら、うちくる?」

「え…?」

「家出なんでしょ」

「いや、でも……」

「僕は家出じゃない。ちょっとした散歩でここにいただけだし」

「今会ったばっかりなのに家に呼ぶのはどうかと思うけど」

「でも、蓮は帰る場所あんの?」

「……今は、帰りずらいだけでいつもはあるよ」

「じゃあ今だけ来なよ。僕暇なんだ、話し相手くらいにはなってよ」

「別に、ここでもいいじゃん」

「やだ、暑い。こんなとこずっと居たら死ぬ」

「……」

確かに日陰と言っても今は八月初旬の蒸し暑さ全開の季節だ。でも僕はいつも追い出されたらここで過ごしてきた。どんな季節でも。

ここには水場も、ベンチも、雨風を凌げる遊具も、時計もある。生活には困らない。

死にかけたことは何回もあるけど、今こうして生きてる。

でも、たまには快適なところに行くのも悪くないか。

「わかったよ」

「お!じゃあ早く行こ!」

璃緒はそう言って僕の手を引いて遊具から飛び出した。

外は暑くて、走ったらすぐに湿気と熱気で汗がふきだした。同じくらいの身長のはずなのに、璃緒の背中は少しだけ大きく見えた。

しばらく走り続けて、璃緒はある家の前で止まる。表札には「広瀬」という文字が記されていた。

「ここ?」

「そう。僕の家。あっつ…走らない方が良かったかな…」

そう言って扉を開ける。こちらに向き直り、入りなよ、と手招きする。

少し遠慮がちに扉の前まで行くと、涼しい空気が体に当たる。

「ただいま」

璃緒は家の中に向かってそう言って、僕はその後に続いてお邪魔します、と小声で呟いた。

「一応スリッパあるけど、履きたくなかったら別にいいからね」

足元に並べられていたスリッパを指さし、そう言われた。

僕は綺麗な体ではない。家を汚すのと、スリッパを汚すのは、どちらが最適なのか。迷った末に、スリッパを借りた。

二階に案内され、部屋に入ると僕の家よりも広い部屋だった。

「ここが僕の部屋」

ベッドと机、数個の本棚が並んでいるシンプルな部屋だった。白を基調とした家具で、カーテンも白。

「綺麗にしてるね」

「ものが少ないからね。ちょっとそこら辺でくつろいでて、飲み物持ってくる」

「うん」

正直、全部汚しそうで座るのが申し訳ない。

くつろぐなんて、とんでもない。でもこの部屋もエアコンが付けられていて、涼しい風が当たって心地よい。少しだけ休ませて貰おう。そう思って本棚の前に座った。暇だったから、本の背表紙を眺める。どれも難しそうなタイトルだった。文芸書、図鑑、自己啓発本、哲学、心理学、色んなジャンルの本が隙間なく陳列していた。僕より頭いいんだろうな。

「おまたせ」

おぼんにグラス二つを乗せた璃緒がいた。

「僕のはよかったのに」

「客に用意しないなんて聞いたことないだろ」

「そっか…」

「置いておくから飲みたかったら飲んで」

勉強机の上におぼんを乗せる。

グラスの中は多分、麦茶。昨日から何も飲んでないからありがたくもらうことにした。

「遠慮してる割にはちゃんと飲んでくれるのな」

「え、だって飲んでいいって言ったし」

「うん、いいよ。そっちのが僕もありがたいし」

「ふーん?」

「そういえば本棚見てたけど、気になるものあったの?」

「あー……いや、頭良さそうだなぁって」

「なんだそれ」

「僕は本読まないし、難しそうな本沢山並んでるから」

「うーん…難しいわけじゃないけどな。ただ興味湧いたから読んでみただけだよ」

「そもそも哲学とかに興味わかないよ」

「……そうだよな」

ちょっと寂しそうな表情をした。他の人にも同じことを言われたことがあるのだろうか。

「ねぇ、璃緒ってどこの学校なの?」

「え?……うーんとね…隣町の、私立中学」

「ふーん。僕は近くの東中」

「あぁ、だろうね。家近い人みんなあそこだし」

「私立中学って、ここら辺は二つしかないよね」

「…そうだね」

「ひとつは星女中で、もうひとつは日ノ川中。璃緒は日ノ川?星女は女子校だし」

「……蓮、はさ、自分の性別について違和感とかなかった?」

「…どうしたの、突然」

「僕……体は、女なんだ」

驚いて目を見張る。

「でも、自分の心は男で、それが嫌だった。学校でも周りは女の子ばっかりで怖くて…ようやく最近転校手続きしたんだ」

「じゃあ、星女中だったの?」

「……そうだね。里奈が…お姉ちゃんが、そこ行ってたから。」

驚いたけど、少し腑に落ちる部分もあった。

顔も、骨格も、声も、男の子にしては僕と違うところがあった。でも、パッと見は本当に男の子だったから、言われるまで気づかなかった。

「大変、だね」

「いい。同情して欲しいわけじゃないから、そういうのはやめろ」

「ごめん」

「僕は言ったぞ、次、蓮が話せよ」

「え、話すって?」

「家出の理由」

「あぁ……うん…」

どこまで話せばいいんだろう。ていうか、こういう家庭のことって話していいのか…?母さんに何か嫌な感情を持たれるのは僕の本意じゃないんだけど。そう思いながら、とりあえず昨日のことから話し始めた。

「昨日は、普通に学校に行ってた。帰ってきてから、コンビニで買った夜ご飯食べて、寝ようとしてたんだけど、母さんが酔って帰ってきて。それで、介抱しようとしたら結構機嫌悪くて、ちょっと殴られた。それで、多分追い出された」

「……多分って、なに?」

「うーん…僕にも分からない。いつの間にかあの場所で寝てたから」

「それ気絶してたの?」

「そうなのかな…?」

曖昧な返事を繰り返す。

「蓮の家って、母親だけなの?父親は何も言わないの?」

「母さんだけ。機嫌悪かったのは多分彼氏関係かな…覚えてないけど」

「記憶ないって、それ結構やばいと思うけど。理由は何となくわかるけど、近いうち病院行こう」

「行こうって…僕は別に気にしてないんだけど…しかも一緒に行くつもり?」

「うん。僕の父親が医者だから」

医者。そうか。璃緒の親も頭いいんだな。璃緒が性別に対して違和感を抱いたことを親に話せたり、転校するために手伝って貰えたのも、そういうことが関係してるのかな。お姉さんもいるらしいし、一人じゃないんだな。

僕は、どんなに自分に違和感を感じようが、辛い気持ち抱こうが、重りのような蓋で閉じ込めるしかできない。それが僕と母さんにとっての最善だと思ってるから。

「蓮?」

「あ、ごめん。なんだっけ」

「…大丈夫?」

「うん」

「今度父さんに病院紹介してもらうから、日程分かったら連れてくからな。逃げるなよ」

「逃げないよ」

今日あったばっかりのはずなのにな。こんなに色んなこと話したのは小学校低学年以来だ。

「とりあえず、話してくれてありがと」

さっきまでの圧を掛ける態度とは違って柔らかい雰囲気だ。

「うん、こちらこそ」

「暇だし、ゲームでもやろうよ」

「僕ゲームやったことないけど」

「簡単なやつにするから大丈夫」

そう言ってゲーム機とカセットケースを取り出し、大量に収められているカセットたちを何個か取り出して並べる。

「どれがいい?これがレースゲーム。これが協力ゲーム。これは人生ゲーム。あと対戦できるパズルゲーム」

正直、昔から見てるだけだったから実際にやるとなるとどれがいいとか選ぶことが出来ない。

「…強いて言うなら、人生ゲームかな」

「ん」

ボードゲーム式で何回か小学校の時に遊んだ記憶があるから、多分できるだろうという理由で選んだ。

コントローラーを手渡される。初めてゲーム機というものに触った。なにせ友達が少ない幼少時代だったせいで、みんなで外で遊ぶことしかしなかった。それに加えていじめが始まったら友達なんていないも同然だった。

素直な嬉しい、という気持ちが胸を温かく包んだ。


「そろそろ飽きたなぁ」

璃緒が息をつく。

もう人生ゲームだけでなく、パズルゲームも、レースゲームも、ほぼ遊び尽くしていた。

いつの間にか窓の外から差し込む光もオレンジ色だった。時計は十八時前ぐらいを指している。いつもならもう家にいる時間だ。母さんはまだ帰ってこないけど、今日はもう帰った方がいいだろう。

「璃緒、僕もう帰るよ」

「え、もうそんな時間?…ほんとだ。通りで飽きてくるわけだ」

「今日はありがとね、楽しかった」

「僕も楽しかったよ。ていうか家出じゃないの?」

「いつも追い出されてもちゃんと夜までには帰るようにしてるんだよね。迷惑掛けてごめんね」

「別に迷惑なんて掛けられてないけど」

「うん、でもありがとう」

「…明日は遊べんの?」

「明日?平日だから、学校行こうと思ってた」

「あぁ、うん、そうだよな」

少し残念そうに、肩を落とした。

「でも、明日も会ってくれるなら、また遊んで欲しい」

「…!じゃあまた公園で会おう」

ぱっと顔が明るくなる。

璃緒の表情は、ころころとよく変わる。それを見ているのはとても楽しい。僕の前でこんなに沢山の表情を見せてくれる人はいない。

「うん。今日と同じ時間に待ってるよ」

「わかった。じゃあ玄関まで送る」

「ありがと」

階段を降りて、玄関の扉を開く。

むわっとした湿気と熱気でさっきまでの快適な時間が一気に上書きされる。

この後も、この熱気にうなされながら眠るのか、と考えただけでまた汗が滲む。

「楽しかった、じゃ、また明日」

「うん、また明日」

見送ってくれた璃緒に手を振って、来た道をまた辿り始めた。

不思議な出会いだった。いつもは誰にも声をかけられず、気付かれず、あの場所で過ごしていた。

今日は、璃緒が気付いてくれた。僕の存在を、見つけてくれた。それが何故かとても嬉しい。僕がいつも独りだと思っていた時間は、今日は独りじゃなかった。

ひぐらしが遠くで鳴いているのが聞こえる。

今日の昼間は、どれくらい気温が上がったのだろう。水しか飲まず、お腹は時間が経つにつれて空腹すら感じなくなるほどだったいつもの避難場所。することがないから熱中症になりかけながら眠っていた。冬には凍死しそうな中必死に手足を温めていた。雨も、風も、雪も、日光も、人も、何も入ってこない。安全で、残酷な僕の隠れ場所。今日までは。

「明日、楽しみだな」

自然とこぼれた笑みと独り言。

これも、初めて。璃緒、僕は君に色んな初めてをもらったよ。

家に着くと、鍵が閉まっていた。ポストの中を漁ると、鍵が入っていた。

母さんなりの優しさだろう。いくら追い出しても、帰ってきて入れるようにいつもこうして鍵を入れておいてくれる。靴だって履いてる。

記憶は曖昧だけど、母さんは僕のことをちゃんと考えてくれているんだと思う。

⎯⎯本当か?

そうだよ。僕の中にある意地悪な思考がよぎる。こんなこと考えるなんて、親不孝だ。僕は、ちゃんと愛されてるから。

そう。きっと。

無意識に自己暗示をかける。

部屋の中に入ると、急激に眠気に襲われた。

今日は慣れないことを沢山したから、きっと疲れたんだ。布団を引っ張り出して、仮眠を取ろうとして横になったところで、僕の意識はぷつん、と糸を切ったように途切れた。


⎯⎯母親の暴力に耐えてるのは、お前じゃない。


俺が、どんな思いで、どれほどの痛みに耐えてるのかお前は知らないだろ。

ぼんやりとしていた頭が冴え渡る。寝ようとしていたであろう体勢から起き上がる。

また母親が帰ってきて、酔っていたら殴られる。酔っていなくても不機嫌なら追い出される。通常の状態なら暴言を吐かれる。

こんな母親の、どこが好きなんだ?

どこに好きになれる要素があるんだ?

俺は、お前を守ってるのに、気付いてくれないのに必死で母親の暴行に耐えてるのに、なんで母親の方が好きなんだ?

俺は、お前のために生まれたのに。

「こんなことなら、いっその事作られなければ楽だった…」

ガチャッ、とドアの開く音がする。

また、始まる。

「ただいまぁ、れぇんー?」

今日は、酔ってるけど声が上機嫌だった。

それなら、大丈夫。

「おかえり、母さん」

「疲れたぁ、母さんもうあるけなぁい」

よろよろとおぼつかない足取りで近づいてくる。バッグを放り投げたかと思えば、酒の匂いを纏わせながら俺に抱きついた。

「お疲れ様。毎日お仕事頑張ってくれてありがとう」

「ふふ、蓮がまた帰ってきてくれるから頑張るのぉ」

……そうだな。俺は帰ってきたくないけど、あいつはここが居場所だから。

「俺には母さんしかいないよ。だからずっと待ってる」

「蓮の方がそこら辺の男よりいい男だわぁ」

「酔いすぎじゃない?」

「んー?ふふ」

母さんは俺を抱きしめたまま眠った。

抱きしめている腕の力は弱い。さっさと抜け出してそこら辺に置いてあったタオルケットを母親に掛けてから自分の布団に潜った。

今日は平和に眠れる。

今日は痛くない。

今日は、今日は、今日は…

何度繰り返せば、この生活から抜けられる?

何度助ければ、俺に気づいてくれる?

なあ、佐原蓮。


目を覚ますと、僕の隣で母さんが眠っていた。

いつ帰ってきたんだろう。おかえりって言えなかったな。

仮眠のつもりだったのにそのまま朝まで眠ってしまった。

時計は午前七時を指している。まだ約束の時間まで余裕があった。頭をシンクの中で洗い流してタオルで水気を取った。濡れたタオルを少し絞ってそのまま体も軽く拭いた。一般的な家庭なら置いてあるシャンプーやらボディーソープなんかはこの家にない。そもそも風呂場がないのだ。

かろうじてあるのは歯ブラシと歯磨き粉。そして申し訳程度の洗濯用洗剤。

昨日乾いたであろう下着とTシャツに着替えてから母さんを起こす。

「母さん、起きて」

「んん…あと十分」

「もう七時すぎてるよ」

「……ん」

唸り声のような低い声で返事をして上半身を起こした。こういう子供みたいなところを見ると、やっぱり僕がいないとな、なんて思ってしまう。

「おはよう、僕もう家出るね」

首だけ縦に振ってまだ眠そうに目を細めている。朝の母さんはとてつもなく不機嫌だ。最悪また殴られるかもしれない。だから起こすだけ起こして僕は出かける。母さんが家を出る時間はだいたい八時くらい。学校に行く時はそのまま行くけど休みの日は一時的に散歩でもして時間を潰す。

今日は璃緒との約束があるから時間になるまで公園で待っていることにした。

しばらく日陰でぼーっとしていたけど、暇すぎる。

人目につかない木の横に置かれたベンチの上。ここなら眠っていてもあまり迷惑になることがない。ベンチに寝転がって目を閉じる。

太陽の熱気で寝つきは良くなかったけど、しばらくすると眠気が襲ってきて気づかないうちに夢の中へ入っていた。


「……」

うっすらと目を開ける。木漏れ日がすごく眩しい。どれくらい寝ていたのだろうか。

体を起こして周りを見渡した。

「おはよ」

驚いて体が跳ねた。

「なに、びっくりした?」

にやっ、と口角を上げていたずらが成功したと言いたげな表情だ。

「璃緒……おはよう。びっくりした…」

正直今ので寿命が数分縮んだ気がする。

「ははっ、丁度起こす前に起きたからな」

「今来たの?」

「うん。また僕の家でいい?」

「今日も家あがっていいの?」

「もちろん、だって他に行くところないし」

「そっか…ありがとう」

「いいよ、早く行こ」

昨日と同じように僕の手を引いて歩き、家に着いて、スリッパを借りて、飲み物を貰って、ゲームをして、夕方を迎える。

「じゃあね」

璃緒に手を振って帰り道を辿る。エアコンに慣れた体から汗が吹き出す。

家に帰れば外と変わらない温度の中で眠りにつく。

学校にもエアコンがあるから、夏は極力家から出るようにしていた。

今年はずっと璃緒の家で過ごせたらいいのにな。そしたら天国みたいなのに。

そんなことを思いながら一日を終える。


璃緒と遊び始めて数ヶ月。

もう季節は冬になっていた。

相も変わらず定期的に家を追い出され、食べるものもない中公園の遊具で夜を明かす。

そんな僕の生きる希望は璃緒だけだった。

どんなに辛くても璃緒が遊んでくれるだけで、話を聞いてくれるだけで救われる気がした。

いつの間にか僕にとってなくてはならない、かけがえのない親友になっていた。

今日も璃緒とゲームをして家に帰ってきた。

ポストを漁り、鍵を取りだして扉を開ける。

まだ母さんは帰ってきていないだろう、と、そう思っていた。いつものように靴を脱いで部屋に足を踏み入れた。

視界に入ってきたのは、母さんと、知らない男の人がベタベタと体をまさぐり合っているところだった。

まずい。

後ろ手に支えていた扉をまた開けて急いで外へ飛び出した。

いつもはこんな早い時間に帰ってこないのに。

さっきの道を戻り、また公園に向かった。

いつもの遊具の中に逃げ込んで座り込む。

息も体温も上がり、汗が首や額を伝う。

もう、今日はいいか。

何も考えたくなくて、これ以上動きたくなくて、そのまま寝ることにした。

体を横にして楽な体制をとると、一気に睡魔に飲み込まれた。


どれくらい寝ていたのだろう。体が痛くて目を開けた。母さんは、もうあの男とどこかへ出かけただろうか。

外を見ると、夕方でも、夜でもなく、昼間になっていた。あの後、結局帰れずそのまま夜を明かしてしまったようだ。

体を起き上がらせて水飲み場まで歩いて水分を摂る。ついでに顔を洗って、寒さから逃げるようにまた遊具の中に入った。時計は十四時を指していた。

今日は、璃緒と約束はしていない。でも、会いたいな。

くらくらと重いような軽いような感覚の頭で色んなことを考える。

昨日の母さんの「あれ」は別に初めて見た訳じゃない。でも、僕は見たくない。誰だって、母親の女になっている姿なんて見たいとは思わないだろ。きっと、そう。少なくとも僕はそうなんだ。

だから、毎度その場に遭遇するとこんな風に気分が落ち込む。

「死神様ぁ」

どこからともなく、黒いローブを纏った男が現れる。

「…なんだ」

「今日って、璃緒何してるか知ってる?」

「父親と病院にいた」     

「そっか、ありがとう」

病院か。お父さんの勤務先の病院だろうな。

そういえば、僕を病院に連れてくって言ってたな。もしかして、それかな。だとしたら迷惑かけてるな。明日会えたら聞いてみよう。

「大丈夫か?」

「……なにが?」

突然、死神様から心配の声がかかる。

「何か食べるか温まらないと、こんなところにいたら凍死する」

「うん、そうかもね。…でも」

僕、このまま死んでも良くなってきたな。なんて。

「今、家には誰もいない。せめて帰れ」

「…そうなんだ。じゃあ、そうしようかな」

死神様は、優しい。死神なのに生きる方に導いてくれる。僕は生きていていいと、唯一肯定してくれる存在。

ベタベタになった体を引きずって、家までの道を辿った。

息を吸う度鼻が冷えて痛い。薄着なせいで四肢も冷えきっている。

細くて、白くて、体力のない僕の体を容赦なく冷気が攻撃してくる。

そういえば、隣の部屋から聞こえるテレビで数日前に天気予報で雪が降る予報が出ていると言っていた。今、気温は何度くらいなんだろう。

だんだん頭が働かなくなってきた時だった。

静かな住宅街の中を走る一台の黒い高級車。その助手席に乗っている人に、見覚えがあった。

その人はにこにこと笑っていて、隣に座る運転手とアイスを食べながら僕の横を通り過ぎて行った。

「り、お…?」

幸せそうだった。どこにでもいるであろう、父親と子の日常風景。

考えちゃいけない。

大好きで、大切な友達なのに。

なのに。

「その場所、僕だったら良かったのになぁ」

言葉にした瞬間、自分への嫌悪感で気分が悪くなった。

胃から這い上がる液体を無理矢理飲み込み、気持ち悪さを抱えながら歩いた。

目からは涙が溢れてくる。自分が汚くて、醜くて、惨めで、どうしようもないやつだと知ってしまったから。

寒い冬にアイスを食べれる程、暖かい場所にいる璃緒を、羨ましく、妬ましく思ってしまった。


「俺に綺麗なところなんて、ひとつもない。

いい加減、理解しろ。」


「誰?!」

突然耳元に聞こえた声に振り向く。

でも、後ろにも、前にも、誰もいない。死神様だって今は近くにいない。

なんだろう、空耳…?

でも、確かに聞こえた。


「お前は、いつになったら俺に気づくんだ。」


また。

今度は、耳元じゃない。頭の中に直接声が響いたような気がした。


「俺はお前の中にいるもうひとつの人格だ。」


さっきから、何を言ってるんだ?もうひとつの人格?気づく?僕は、一人の人間だ。

家々の立ち並ぶ道路の脇で僕は一人混乱し始める。

疑問と謎の声が頭の中でぐちゃぐちゃになる。ようやく家に着いた頃には、頭痛と吐き気で倒れ込んでしまった。

しばらく寝込んで、気づいたら夜になっていた。時間が経つと体調は落ち着いていた。水道水を口に含む。喉が潤うと少しだけ体温が下がったように感じた。床に座り、壁にもたれかかる。

さっきの声は今は聞こえない。

僕の中に、もうひとつ人格があると言っていた。

ねぇ、そこにいるの?

頭の中で問いかける。返事はきっとない。そう思っていた。


「いる。ずっと前からここに。」


声が聞こえた。その瞬間、僕の意識は少しずつ遠のいて、いつの間にか暗闇の広がる空間に佇んでいた。

「どこ、なにここ」

「ようやく会えた」

どこから現れたのか、目の前には僕と同じ姿の男の子がそこにいた。でも、年齢は僕よりもずっと離れているように見える。小さな子供の姿。

「君が、もうひとつの人格?」

「そうだよ。ずっと、こうして待ってた」

「なんで…?僕は別に困ってなんてないし、もうひとつの人格なんて、いらないよ」

「……お前は、そう言うだろうな。知ってるよ。でも、これだけは言わせてもらう。」

今まで無表情だった彼の顔が、怒りで歪んだ。

「お前のことを母親から守っていたのは、紛れもない、この俺だ!」

「…守る?何、言って…だって、母さんはいつだって僕のことを大切に……」

「追い出されるのも、暴力を振るわれるのも、暴言を吐かれるのも、本当の愛情だと思ってるのか?!だったら、なんで俺はここにいる?!お前が呼んだんだろ!十年も俺の存在に気づかず、守られてばっかりだったくせに!」

「…十年?」

「そうだ!お前が小さい頃から俺はここにいる!なのに、いつまでも泣いてばっかりで俺の存在を無視し続けて!母親の愛情が本物だといつまでも信じ続けるくせに友達の家族と代わって欲しい!?ふざけるな!俺のことを見向きもしないお前なんか大っ嫌いだ!」

目の前にいる子、それは間違いなく僕だった。誰も知らない僕を、全部知っていた。

僕が隠していたことも、言えなかったことも。

目の前の僕は、母さんの前で沢山我慢していたのだろう。

ずっと、僕を待ち続けて、我慢して、押し殺してきたのだろう。

「ごめん……ごめんね…」

「謝られたいわけじゃない…!ただ……ただ…」

歪んだ表情が、さらに崩れていく。

「…認めて欲しかった。俺は、ここにいる。存在を、知ってて欲しかっただけだ…ずっと独りで耐え続けるこの痛みを、知って欲しかった。」

小さな願いだと思う。けれどとても難しいことだった。

僕の意思が何よりも彼の願いを邪魔していた。

僕は愛されているから、独りじゃないから、幸せだから。そう自己暗示をかけ続けて、結果彼は作り出されたのに誰にも認識されず、母親にすら気づいて貰えず、独りだった。

「うん、知れた。君のおかげで、今」

「……遅せぇよ」

「ごめん。もう、いいよ。」

「……」

「もう、耐えなくていいよ。」

「どういうことだ」

「僕も、解放されたい」


意識が現実に戻ってきて、僕の家の景色が目の前に広がった。

いつの間にか、死神様がそこにいた。

「ねぇ、神様」

「神様じゃない」

「うん、そうかもしれないけど」

「……」

「僕は、悪い子なんだ。僕は、俺は……」

懺悔のように死神様の前で本音が零れ始める。言葉が詰まる。喉に何かがつかえて痛みが広がる。どちらが本当の自分かわからない。

僕という存在。俺という人格。どっちが、本当の自分だったのだろう。

「僕は醜いやつだから、大事な友達を、親友を、妬んで、僻んで、僕がそこにいたら良かったのにって、思った」

自分のことで精一杯だった。耐えることしかしてこなかった。それしかできなかった。

「俺の母親は、なんであんなに子供を愛せないんだ?なんで、俺は璃緒みたいな家に生まれなかった?愛されてはいけない存在だったのか?俺は、幸せになっちゃダメだったのか?」

璃緒のことが羨ましくて、あの場所を奪えたらいいのにと、思ってしまった。

だから蓋をしようと思った。神様だけは、最後に聞いて欲しい。俺の懺悔を。蓋をしていない、汚い俺の想いを。そして、許さないで欲しい。僕には耐えること以外に能は無いから。

これが俺の人生の全て。

「神様。俺を、殺して」


・・・             ・・・


また。またか。

何回、この言葉を聞いただろう。

「僕の事なんて許さないでいいから、せめて、殺してください」

足元で土下座して懇願する姿は憐れ以外の何者でもない。

自分が今言った言葉の意味を、この幼い少年は理解しているのか。

きっと、わからないだろうな、何を背負ってるのか。

死神様と崇める存在が、どんなやつなのか。

だから、苦しい。

それでも、どうすることも出来ない。

また、消さないといけない。

また、初めから。

それ以外の方法を、まだ知らないから。

口を噤んだまま、大鎌を手にする。

首元に鎌を運んだところで、あることに気づく。

「なんで死にたいのに震えてる?」

いつもと、少し違う。

生きたいのなら、生き続ければいいのに。

死にたいと、殺して欲しいと願うのなら、こんなにやりづらい態度を取らないで欲しい。

こっちだってこんなこと、したくない。

「わからない…何故か手足が冷たくて」

「まだ生きていればいいだろ」

「璃緒にどんな顔して会えばいいのかわからない。それに、母さんと一緒に居ても、また別の人格が生まれてしまうかもしれない。だから、僕がいなくなればきっと全てうまくいく。」

「誰がそんなこと言った?」

「誰も何も言ってない。でも、僕が嫌なんだ。璃緒も母さんも、僕にとっては天使なんだ」

天使……。

神様とか、天使とか、宗教みたいに並べられた言葉。

そんな大層なものに例えるからこんな思考になるんじゃないのか?

だから軽々しく殺してくれなんて言えるのか?

「本当に死にたいのか」

「はい」

「顔上げろ」

ゆっくりと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が見えた。


目が合った瞬間、大鎌を勢いよく振るった。


一瞬も恐怖を与えないように。

自分がどんな感情を抱いて魂を刈り取ったのか、気づかないように。

黒い霧のようなものを、体の奥底に沈めた。

灰色の世界は、残酷に秒針の音を響かせている。

もう、二度と戻らない。

これで、また振り出し。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る