25|小さな才能
昔から、この家は窮屈で呼吸がしづらかった。
親が音楽家の家系で、先祖代々引き継がれてきたらしい。
そのせいで、例外なく僕らも音楽の英才教育を施されてきた。
双子の姉、佐原凛音は音楽の才能があった。母と同じ絶対音感を持っていた。
双子の弟の僕は、ちょっとだけ絵が上手かった。
でもこの家で絵は何の役にも立たない。
父も母も先生も、なんでもできて、ピアノが上手な姉を可愛がっていた。
一方、成績は普通、できることとできないことは人並みにあって、特別な才能も持たない僕に、大人は必要最低限しか会話をしてくれなかった。
僕らは、比較されながら育った。
小学生の頃は比較されることが辛かった。頑張っても結果がついてこなかった。
でも姉の凛音のことは周りに自慢するほど大好きだった。
いつも差別されてお菓子も買って貰えない僕に、凛音は僕にお菓子を分けてくれた。
誰にも相手にされない僕の話し相手になってくれた。誰にも褒めてもらったことがなかった絵を褒めてくれた。
大好きで、仕方なかった。
どんなに冷遇されても、凛音が味方でいてくれた。
そしてもう一人、黒いローブに身を包み、フードを目深く被った「死神」が近くにいる。
死神はたまに話しかけるとちゃんと返してくれる。
「僕の絵って、どう思う?」
前に絵を見せたことがあった。
「上手いと思う」
一言だけそう返してくれた。
ぶっきらぼうというか、淡白な返しだが、僕はそれだけでも嬉しかった。
凛音は僕が初めて絵を見せた時
「蓮の絵を見てると落ち着く」
そう言ってくれた。
凛音も親にピアノのことばかり話されて疲弊していたのだろう。
僕は何かと落ち込んだ時、凛音に絵を褒めて貰えた時のことを思い出す。
僕にとって絵は、嫌なことを忘れられるもので、凛音を喜ばせるもので、生きるために必要なものだった。
だから今日も音楽ではなく、絵を描くのだ。
描くものはいつも決まっていない。
ただ色を感覚的に、直感的に置いていく。
今の感情を、白い紙に乗せていく。
モチーフがある時はシンプルに仕上げて、ワンポイントのように紙の中におさめる。
少ないお小遣いを貯めてようやく中学の時に買った水彩絵の具が今の愛用品だ。
それ以前は、鉛筆と消しゴムだけで描いていた。
親には絵も、僕自身も否定されてきた。
水彩絵の具を捨てられそうになったこともある。
「母さん…?何してるの?」
「絵なんて描いたって時間の無駄よ。こんなものがあるからピアノに集中できなくなるんだわ」
「違う!音楽はもうやりたくない!絵は関係ない!それは僕の貰ったお金で買ったものだ!」
「そのお金も、私たちの稼いだものよ。凛音より才能がないんだから人一倍努力しなさい。音楽で一人前になってからそういうことを言うのね」
「僕はもうやりたくないって言ってるだろ!それに凛音は才能だけじゃない、努力してる。それを才能だけで片付けるなよ!」
「蓮は何も才能なんてないし、努力もできないでしょ?こんなものに没頭してもしょうがないって言ってるのよ」
「音楽の才能がなくて努力も出来ないから他の好きな物をやりたいんだよ!そんなことも自由にさせてもらえないのかよ!」
「自由ならいくらでも与えてるじゃない!」
「そんなもの与えてもらった覚えない!とにかく返せよ!」
力ずくで絵の具を奪い、親を追い出して部屋の鍵を閉めた。
それから母親の当たりが強くなった。
「どうして双子なのにこんなに頭が悪いの」
「凛音はピアノのせいで運動ができないだけで蓮には制限かけていないでしょう?体育くらい五を取ってきなさいよ」
成績、結果が全てだった。
段々と親の理不尽さが腹立たしく思った。部活もやらせて貰えなくて、帰ったらまたピアノだった。
高校生になってからはもう音楽だ絵だと気にすることも無くなった。
高校は選択科目の中に音楽と美術のどちらかを選べる学校だった。迷わず美術を選択した。入学前の説明会の時、母が隣に座りながら僕の手元を見て大きなため息をついたのを無視して。どうせ家にいればいやでも音楽の話が飛び交っているのだから、実技も知識も学校で身につける必要がないと思ったし、何より向いてないものを無理矢理やるより好きなものを学べるのだから、僕としては万々歳だ。
凛音はいつからか僕が描いた絵を全て見せてくれと言うようになった。
「凛音?」
「はーい」
凛音の部屋をノックし、完成した絵を見せた。
「ありがとう。また上手くなったね」
「そう?」
「前よりもたくさん物語が詰まってる気がする。ここの色が混ざったところにいる蝶がすごく綺麗」
そして、感想を言い終わったあとに必ず「もらってもいい?」と言うのだ。
「また飾るの?」
凛音の部屋には、元の壁の色が見えなくなるほど僕が描いた小さな絵が額縁に入れられ、パズルのように埋まっている。
「うーん…飾りたいんだけど、そろそろ飾るところがなくなってきちゃったからどこかに保管しておこうかな。」
「外せばいいのに」
「ダメ。この作品達はあの配置にあるからいいの。他の絵じゃ代えられない良さがあるの。私の部屋は蓮のもう一つの作品と言っても過言じゃない、うん」
どうやら本当にパズルとして部屋に飾っているようだ。
「そっか、部屋が僕の絵で埋もれないように気をつけてね」
「それはそれで幸せかもしれない…」
「重度のブラコンだね」
一瞬きょとん、とした顔をしたが、直ぐに呆れ顔をする。
「あんな親と一緒にいるより蓮と一緒にいた方が楽しいもん」
なんでだろう、と思った。
僕より優しくしてもらってるし、僕より褒めてもらうことも多いし、何より
「……大切にされてるのに?」
凛音は私立の音楽科のある高校に進学した。しかも親の送り迎え付き。
僕は絶対に私立なんて行くな、と言われた。音楽も他のものも突出した才能がないのに金のかかる私立になんて行かせられない、と言われたため、レベルのあった近くの県立に進学した。
送り迎えなんてしてくれるわけない。
それほど、僕よりも凛音は親に大切にされている。
「親なら、姉弟を比較したりするべきじゃない」
「贔屓されてる方も大変なのか」
「そう、弟がぞんざいに扱われているのを見るの、すっっっごいストレスなの」
やっぱりただのブラコンだったかもしれない。
「でも、逆らえないもんね」
「そうなの!そこなの!まだ高校生でバイトしかできないこの無力感ほど辛いものはないよぉ」
「凛音の学校、バイトいいんだっけ?」
「ダメだよ?」
「隠れてバイトしてるの?」
「そんな時間があったらどれだけ良かったことか…」
「してないんだ」
「だって…!レッスンの時間と勉強の時間頭おかしくなる程詰め込まれてるんだよ!?」
「……まぁ、うん。知ってるけど」
僕も幼い頃は同じルーティーンだったから、知っている。
朝は五時に起きて楽譜の暗記。
学校から帰ったら今度は覚えた楽譜の実践練習。
ご飯と風呂はトータル二時間まで。
寝る前の自由時間は自由なんてない。学校の課題を終わらせるのに必死だから。
課題に取り組める時間は二時間。
就寝は二十三時。睡眠時間は六時間。
大人の理想的な睡眠時間は八時間が目安だ。
これを、僕は小学生の頃から中学一年までやっていた。凛音は現在進行形だけど。
一体どれだけのスキルを身につけさせたいのか、と僕たちはうんざりしていた。
大体友達にこの話をするとドン引きされる。
「え、やば。俺らが部活やってたり遊んでる時間とか全部音楽なの?俺無理だわぁ」
と言われるまでがテンプレートだ。
「凛音はよく頑張ってるよ」
精一杯の励ましだ。
「蓮がいるから頑張れる。蓮は私と違って好きなものがあるでしょ。私は、自分が好きで打ち込めるものはないから、蓮を見ると元気出るの。私にできないことは、蓮がしてくれる。」
双子でよかったと思う。
僕ができないことは凛音がしてくれるし、凛音ができないことは僕がしてあげられる。
お互いに無いものを補いながらこうして生きられることが嬉しかった。
「一緒に頑張ろうね」
僕はそれしか言えないけど、凛音は頷いてくれた。
午前七時。いつものように起きて朝食をとる。
凛音はもう家を出ている。
制服に着替えて、鞄をもって外へ出る。
僕は自転車通学だ。
今日は曇り。春が終わりかけている蒸し暑い時期だ。太陽が出ていない方がありがたい。
風が冷たくて涼しい。
自転車のペダルをこぐ速度が少しだけ上がる。
三十分も走れば僕の学校の校門が見える。
高校二年生になりクラス替えが行われた。新しいクラスにも段々と慣れてきた。
学校に着いて、教室のドアを開ける。
「おはよう」
数人が振り向く。
「あ、おはよー」
「はよ」
振り向いてくれた人は挨拶を返してくれる。今日もうちのクラスは平和だ。
自分の席に着いてスマホを取り出す。
仲のいい友達はいつも遅刻ギリギリ。だからホームルームまではいつも暇を持て余している。
しばらくスマホを眺めていると、予鈴がなった。
あと一分以内に来ないと、遅刻認定され、職員室に遅刻カードを書きに行かないといけなくなる。
「おはようー。ホームルーム始めるぞー」
担任が入ってきて、教壇の前に立つ。
と、その時、勢いよくドアを開けて教室に滑り込んでくる男子が三人。やっと来た。
「先生!間に合った?!」
揃って大きく肩で呼吸しているが、それも虚しく
「うん、遅刻。職員室行ってこい」
「うわ走らなきゃよかったぁぁ」
「くそぉ、間に合うと思ってたのに」
なんでそんな自信満々に間に合うと思ったんだ。
「もっと早く来りゃいいのに」
僕がぼそっと呟いたのが聞こえたのか、担任も苦笑いだ。
気を取り直し、今日の予定と近々ある日程の変更を担任が連絡してホームルームは終わった。
「疲れたぁ」
遅刻カードを書き終えて担任に渡したさっきの男子三人。
「おはよ、今日も間に合わなかったね」
「おはよ、蓮」
「おはよー、マジで疲れた」
「いやぁ、ギリギリまで寝てたいじゃん?」
ギリギリまで寝て遅刻なら僕は欠席を選ぶけど。
「わかんないわそれは」
「蓮は真面目ちゃんだねぇ」
この遅刻魔三人組がいつも一緒にいる僕の友達。悠、晴斗、賢祐。
新しいクラスになかなか馴染めず一人でいたところにこの三人が話しかけてくれたのだ。
今じゃ一番心地いい居場所。
丁度予鈴が鳴り、みんな自分の席に着き始める。
今日もいつも通り、気だるく眠い気分のまま授業に臨み、時間の流れに身を任せてなんとなく一日を過ごすだろう。
でも今日は美術があるから、少し楽しみだ。
最近はポスター作成をしている。題材は自由だから好きなように描いている。
さっきの三人とは選択が違うせいで一緒に授業は受けられないけど、作成中のものを見られても恥ずかしいからちょうどいい。
僕が恥ずかしがらずにいつでも絵を見せられるのは、凛音と死神だけ。
「一時間目って何ー?」
「数学」
「うわぁだる」
「二時間目は?」
「芸術」
「え、移動じゃん」
クラスのあちこちから色んな声が聞こえてくる中、僕は数学の教科書を取り出す。
もうそろそろテスト期間だ。あまり低い点数は取れない。
中学の頃、期末テストで二十点とかそこら辺の点数を母親に見せたら家を追い出されたことがあった。
冬の寒い日に追い出されたせいで凍死するかと思った。低い点数をとっただけで死ぬなんてごめんだ、と思ってそこから普通に勉強した。
今でも勉強に対する嫌味は多く言われる。
「なんでこんな点数しか取れないの、凛音は百点取れているのに」
何故ここまで僕は蔑まれなければならないのか。確かに凛音のようにオール五なんて取れたことは無いけど。
凛音と僕の高校を偏差値で比較するなら凛音の方が少しだけ上だ。私立だから偏差値にばらつきはあるけど凛音は特進クラスにいる。最初から頭のレベルが違うし、寝る間も惜しんでずっと努力してるのも知ってる。高校が別なら勉強の仕方も速度も違うわけだし。僕は必要最低限しか勉強していない。課題はまあまあ多く出されるけど、凛音の高校に比べれば少ない方だろう。凛音は上位の成績をずっと維持しているのだから、凛音を褒めるのはよくわかる。でもそれは僕のことを蔑む理由にはならないと思う。第一僕は一般的にバカと言われる偏差値の高校ではないと思うのだけど。本当に普通レベルだ。
「おはようございます。授業始まるから席ついてね」
数学の先生が入ってきた。
ぼんやりと考え事をしていた頭が授業へと切り替わる。
「起立」
号令がかかり、一時間目が始まった。
「あぁぁぁ、つかれた」
ようやく昼休みに入り、三人と昼ごはんを食べる。
僕はコンビニで買ってきたご飯。悠はお弁当。晴斗と賢祐は学食のパン争奪戦に行ってきたらしい。
「どう?欲しいパン買えた?」
「バッチリ」
晴斗が高々と見せてきたのはいつも売り切れで有名なメロンパン。
「よかったね」
「俺買えなかったぁ」
賢祐はカツサンドを持っていた。
「でもそれも人気でしょ?」
「まぁ、そうだけど。俺もメロンパン食べたかったぁ…」
「また明日だね」
紙パックのジュースにストローをさしながら残念そうにしている。
一方晴斗は煽るように賢祐に見せびらかしている。
「腹立つこいつ」
そう言って軽く晴斗のことを小突いた。
「あはは、遅かったのが悪いな」
「そんなに美味しいの?」
ふと疑問に思って聞いてみる。
「これ、中に生クリーム入ってるんだよ」
「ああ、なるほど」
確かに甘党なら欲しくなる。
でも僕は甘党と言うほど甘いものが好きなわけではないし、そこまで魅力的なものでは無いのだが。
僕も今度学食を利用してみようかな。
高校を卒業したら中々食べられるものでもないし。
「学食って混んでるの?」
「うん、結構人いるぞ。でも一応買えない訳ではないな。最後の方でも残ってることは残ってる」
「人気なやつは残ってないけど、あんぱんとかサンドイッチとかなら残ってること多いな」
「そっか。今度僕も行ってみようかな」
「……蓮はあんまり早く行かない方がいいかもな」
「え?なんで?」
「運動部の奴らガタイも身長もやばいから吹っ飛ばされるぞ、お前ちっちゃいから心配」
「えぇ…僕そんなちっちゃくないでしょ」
「百六十ちょい上くらいだろ?小さいだろ」
「百六十四だよ」
精一杯の反論をするが、それも虚しく
「変わんないな」
今まで自分の弁当をつついていた悠が心にくる言葉を投げてきた。
「……気にしたことあんまりなかったな。」
しゅん、と肩を落とす。
「え?身長気にしてなかったの?今まで?」
「だって、凛音より大きいし」
凛音は百六十センチもない。だからあまり自分の身長が低いなんて思ったこと無かった。
確かに他の人たちは百七十くらい普通にありそうだ。
やはり運動をあまりしてこなかったせいなのか。
「凛音って、双子のお姉さんだっけ?)
「そう」
「へぇ、蓮より小さいってことは女子の中では普通だろうな」
「僕は普通より小さいのか……」
「まあ、身長で何か困ることなんてそんなないし、大丈夫だって」
「ちっちゃいって言ったやつにそんなこと言われても説得力ない」
「あーあ、蓮ちゃん拗ねちゃったじゃん」
「えぇ、俺のせいなの?」
「せっかくだから学食奢ってやれよ」
「代償重くない?」
「重くないだろ、パンだぞ。お前バイトしてるだろ」
「うーん、まあいっか。んじゃ明日蓮が教室で留守番中に買ってきてやるよ。何がいい?」
「え、いいの?なんでもいいよ、アレルギーも好き嫌いもないし」
「おっけ。明日適当に買ってくんね」
「本当にいいの?」
「うん、一個か二個だし」
「ありがと」
謎の流れで奢ってもらえることになってしまった。
少し気になって隠れてスマホで調べてみると、確かに平均より僕の身長は低かった。思い返してみても中学から伸びてる感じはしないな。
ぼーっとしながらコンビニのおにぎりを頬張る。
食べ終わったらみんなでスマホゲームを開始する。
毎日昼休みはこうして過ごしている。
しばらくすると予鈴がなって、のろのろ授業の準備をし始める。
古典の先生が入ってきて、いつも通りまた退屈な授業が始まる。
午後の授業なんて大抵眠気との戦いで内容は入ってこない。
大きなあくびをしながら古典の音読と解説を聞き流す。教室を見渡してみても僕と同じように頑張って起きてる人もいれば思いっきり机に伏せて寝てる人もいる。
眠過ぎて机の中に隠したスマホを見る。さっきまでゲームをしていたせいで気づかなかったが、里奈から連絡が来ていた。
広瀬里奈は昔から一緒に遊んでいる近所の幼なじみで、僕は高校に入ってからはあまり会っていなかった。凛音と同じ高校の普通科に通っているらしい。
「凛音のこと知ってる?」
里奈からの連絡には、それしか書かれていなかった。どういう意味なのかわからず、「何が?」と返事をした。
直ぐに既読がついて返事が来る。
「学校で倒れて今病院だって」
目を見張った。昨日まで何ともなかったのに。
「佐原」
突然頭上から自分の名前を呼ばれ、顔を上げる。冷めた表情をした古典の先生が立っていた。
「没収」
「……すみません」
手元のスマホを大人しく渡した。
正直、今はそれ所じゃない。凛音が倒れたということが衝撃すぎて眠気もスマホを没収されたことも全部吹っ飛んだ。
音楽と勉強の両立が難しかったのか、それとも何か事故にでもあったのか、心配で気が気じゃない。
もし重い病気だったら、もし酷い怪我を負っていたら。
どうしよう、どうしよう。それしか考えられなかった。
先生の話す声が聞こえてこなくなる。
話してるはずなのに、聞こえてこない。
その代わり、心臓の音と耳鳴りが同時に聞こえてくる。
下を向く。落ち着け、落ち着け、そう何度も頭で考えても他の良くない考えが邪魔をしてくる。
「珍しいねぇ、蓮がスマホ取られるなんて」
「……蓮?どうした?」
肩を叩かれ、ようやく気づく。
いつの間にか授業が終わっていた。
「え、あ、ごめん。何?」
「本当にどうした?体調悪い?」
「凛音が…」
声が震える。
「え?」
「凛音が倒れたって、連絡が来てて…」
「やばいじゃん」
「なんで倒れた?」
「わからない。昨日まではなんともなかった」
「先生に言って早退すれば?」
そうしたいのは山々だ。
でも、凛音のことはきっと親が一番心配するはずだ。僕より大切にされているのだから。それに、僕が行ったところで何も役には立てない。さっきまで心配で仕方なかった頭が段々と冷静さを取り戻す。
僕が行かなくても、親と病院の人が何とかしてくれる。そう信じることにする。
「……大丈夫」
「え、本当に大丈夫なの?」
「僕が行ってなにかできるわけじゃないから。倒れたなら、親が行ってくれると思う。」
「そっか。蓮がいいならいいけど」
心配そうな表情だ。僕がそれほど酷い顔をしていたのかもしれない。
「ごめん、心配しないで」
「家の事情だから、深くは突っ込まないけど。もしなんかあったらいつでも頼れよ」
「そうだぞー」
「ありがとう」
無理矢理口角を上げる。
あと一時間だ。あと一時間乗り切ればスマホも返して貰えるし家にも帰れる。
家に帰る前に、里奈の家に寄って何か知っているか聞いてみないと。
次の授業は歴史だった。
何も入ってこなかったけど、それでも早く帰らないと、という焦りのせいで眠気は来なかった。
自転車のペダルをいつもよりも力強くこぐ。
里奈の家は僕の家の斜め前だ。
学校でスマホを返され、「今からそっち行く」とだけ伝えてから返事を待たずに来てしまった。
息を切らしながらインターホンを鳴らす。
「蓮?」
インターホンから里奈の声が聞こえた。
「ごめん突然、今空いてる?」
返答が無い。その代わり、玄関が開いて里奈が顔を出した。
「凛音の事だよね、入っていいよ。」
「ありがとう」
里奈の部屋に通される。
「なにか飲みたいものある?」
「いや、大丈夫。それより、凛音のこと何か知ってるの?」
「うん。いつもお昼は一緒に食べてたから」
「いつ倒れたの?」
「五時間目の直前。号令かかる時に倒れたんだって」
「里奈は?もう居なかったの?」
「私も教室戻ってたから。私特進じゃないし…家近くていつも一緒にいるからって先生に授業中少し呼び出されて話聞いただけなんだ。昼休みに何か異常があったようには見えなかったの」
「そっか……」
「蓮は?何も聞いてなかったの?」
「僕はいつも通りに過ごしてたから何も知らないよ」
「昨日も普通だった?」
「どこも悪そうには見えなかったよ」
「そう…ということは、突発的なものなのかも」
「一番まずいのは、身体に何かあった場合だよ」
「うん…凛音は音楽科だし、親も音楽に関しては厳しいんでしょ?何も無いといいんだけど…」
「凛音が運ばれた病院どこか知ってる?」
「わからない。でも、大きい病院はここら辺は一つしかないよね」
「大学付属病院か」
「とりあえず行くだけ行ってみる?」
もしかしたら他の病院かもしれないし、凛音がそこにはいないかもしれない。いたとしても会わせて貰えないかもしれない。それでも、少しだけでもいいから凛音の状態がみたかった。
元気な姿を見て安心したかった。
「親に連絡だけ入れておく。何かわかるかもしれない」
「うん」
「凛音が今どこにいるか知ってたら教えて欲しい。」それだけ送って里奈の家を出た。
「すみません、ここに佐原凛音という高校生が救急車で運ばれませんでしたか?」
大学付属病院に着き、総合案内所に聞いて凛音がここにいるかを確認してもらった。調べてもらった所、ここに一時的に入院という形で今は病室のベッドで休んでいるらしい。まだ目は覚めていないようだ。
凛音とは姉弟であることを伝えた。お見舞いはできるが病院の先生が僕に話があるという。
病室まで里奈と二人で行き、扉を開けた。
他の患者さんもいるようで、あまり騒がしくはできない。
凛音は静かな寝息を立てていた。
いつもの寝ている姿と変わらない。唯一違うのは点滴や鼻に通された管だ。
「佐原凛音さんのご姉弟ですか?」
後ろから声をかけられ、振り向くと白衣姿の男の人が立っていた。
「はい」
「こちらで、凛音さんについてお話があります」
里奈の方を向く。里奈は行ってはいけないのだろうか。
「いいよ、凛音と待ってるから」
気をつかってくれたようで、いつもの笑顔を向けてくれた。
「ありがとう」
白衣の男の人に着いていくと、レントゲンの写真が貼られた部屋に通された。
「どうぞ掛けてください。親族の方と連絡が取れなかったのでご姉弟であるあなたにお伝えすることになってしまい、すみません。単刀直入に言うと、佐原凛音さんは急性くも膜下出血でした」
「……え?」
「コブのように膨らんだ脳の血管が破裂してしまったんです。ここですね」
レントゲンの写真を指し示す。
本当に、脳の近くだった。
「それじゃあ、後遺症が残るんじゃ…」
「はい。倒れてからすぐに処置したので、幸い死に至ることはありませんでしたが、後遺症は残ってしまうかもしれないです。」
「後遺症は、音楽をするのに影響しますか…?」
恐る恐る、聞いてみる。うちは音楽ができないと普通に育ててもらえない。
「…そうですね。後遺症が顕著に表れる可能性が高いです。」
息が止まる。凛音がこれから酷い扱いを受けるようになったら、僕はどうしたらいいんだろう。
「このことを親御さんに伝えてください。再度説明致しますので。」
「……分かりました」
凛音のいる病室まで戻ると、里奈がこちらに気づいて心配そうな表情をした。
「大丈夫?顔色悪いよ」
「凛音が……くも膜下出血だって、言われた」
「それって、脳の近くで血管が破裂する病気だよね?」
「…うん」
「もしかして、もう目を覚まさないの?」
「それはわからないけど、多分目を覚ましても、後遺症が残るって」
「……そうなんだ」
重い沈黙が流れた。
すると、今までポケットに入れていたスマホからバイブ音がした。
母親からメッセージが来ていた。
「凛音がどうかしたの?家にいないけど、レッスンはどうしたの?」
こんな時でも、親は音楽のことしか頭にないのか、と絶望と失望が僕の体の中で渦を巻く。
「蓮?」
「母親から、連絡きた」
「なんだって?」
「今日のレッスンは?って…」
スマホの画面を里奈に見せる。
それを見ると、みるみる里奈の表情が険しくなった。
「……信じられない」
里奈も僕と同じように思ったらしい。
それにつられて、僕の怒りも爆発した。
「僕もそう思う。ありえないよ。普通娘がいつも通りに帰ってこなかったら心配するもんじゃないのかよ。あれほど凛音が大切だって言ってたのに」
本音がこぼれ落ちる。いつもいつも、音楽のことばかりな親のことが、どうしても許せない。
「蓮、スマホ貸して」
「え?なんで?」
「蓮の親に電話してくる」
「ダメ。里奈はうちとは関わらない方がいいよ。」
「でも…」
「大丈夫、僕の方がこういう事に慣れてるから。里奈は凛音の近くにいてあげて。目が覚めて里奈がいたら安心すると思うから。僕、電話してくる」
「わかった」
そう言って、病室を出て外に向かった。
駐車場の空きスペース。人気はあまりない。
スマホのコール音を数回聞くと、向こう側から冷めた声が聞こえてきた。
「もしもし?蓮?あんたまで何ほっつき歩いてるの、早く帰ってきなさい」
「凛音が、学校で倒れたんだって」
「…なんですって?」
「病院で話聞いたら、くも膜下出血だったみたいで、今大学付属病院にいるよ」
「なんで蓮がそれを知ってるのよ」
「学校からの電話、あんたにもかけたらしいけど。出なかったんでしょ」
「知らないわよ、私は今日も公演の準備があったんだから」
「凛音のこと、大事じゃなかったんだね」
「はあ?!何言ってるのよ、大事に決まってるわ!あんな才能のある子を大事にしないわけないでしょ?!蓮とは違うんだから!」
突然大声をあげられ、反射的にスマホを耳元から遠ざけた。
「詳しく説明してくれるらしいから、先生が病院に明日来てって。公演明日じゃないよね?」
「……わかったわ」
それだけ言うと、向こうから電話を切ってしまった。
重い足取りで病室に戻った。
「大丈夫だった?」
「これから、大丈夫じゃなくなるかもしれない」
「え?」
「音楽の才能があるから凛音を大事にしてたって、そういう風に聞こえた。病院には明日来るって」
「……」
まだ目を覚まさない凛音の寝顔は安らかだった。
今まで、片方ができないことは片方が補ってきた。あの家では凛音がずっと僕を守ってくれてた。僕ができなかった音楽を、凛音が僕の分まで背負ってくれてた。
でも、これからは?
僕ができないことを、凛音も出来なくなって、親はどうするんだろう?
あんなに可愛いがっていたのに、僕と同じように扱うつもりなのか?
「凛音が、僕と同じように冷遇されるようになったら…僕はどうすればいい…?」
「……」
「凛音は何も悪くないのに…!あんなに頑張ってたのに…!」
「蓮、落ち着いて」
「だって…!」
げほげほ、という他の患者さんの咳払いで我に返る。
「大丈夫だから、落ち着いて」
諭すように里奈が言う。
「ごめん…」
「凛音も、蓮も、何かあったら私に言って。なにか力になれるかもしれないから」
「…迷惑はかけられない」
「迷惑なんかじゃない。お母さんだってこのこと話したらきっと協力してくれるから。」
確かに僕らの事を里奈のお母さんはよく知っている。だからうちの母親とはあまり関わりたくないと言っていたことも。
けど、僕と凛音のことはいつも温かく迎えてくれたことは本当だ。
「ありがとう、里奈。また何かあったら今みたいに凛音の近くにいてあげて。」
「うん」
「僕は近くにいてあげることも出来ないから。女子の方が話しやすいことも多いし」
「うん。わかった。蓮もなにかあったらちゃんと言ってね。凛音のこともだけど、蓮のことも心配だから。」
「わかった」
僕らはお見舞いの時間ギリギリまで凛音のそばにいた。麻酔のせいで今日は目を覚まさないとわかっていたけど、もし目を覚ましたら、と考えたらずっと近くにいたかったから。
「今日はもう帰らないとね」
「…うん」
里奈がパイプ椅子を片付け始めた。
その日は凛音を残し、病院を出た。
外は真っ暗だった。
「明日もお見舞い行こうね」
「うん」
僕は気の利いた言葉もかけられず、ただ返事を返すことしか出来ない。
里奈も無理して会話をしようとはしなかった。
沈黙が続いたまま家に着いてしまった。
「今日は色々ありがとう。里奈がいなかったら凛音のこと探し回ってたかも」
「こっちこそ、一緒に来てくれてありがとう。蓮がいなかったらお見舞い行けなかったかもしれないよ」
「うん。じゃあまた明日放課後に。おやすみ」
「おやすみ」
里奈が家の中に入ったことを確認してから、僕も自分の家の扉を開けた。
「ただいま」
相変わらず、おかえりは返ってこない。
というか、人の気配がない。
人がいてもいなくてもおかえりなんて言われないけど。
元々いつも誰かがいる家ではないから何も珍しいことでもない。
母親はきっと一回帰ってきてからまた出掛けたのだろう。
制服を脱いで、軽く夜ご飯を食べて、さっさと風呂に入って、ベッドにもぐった。
いつもの癖で絵を描きそうにもなったけど、今は見せたい相手もいない。
近くには死神が立っている。
「ねぇ、死神は凛音のこと連れていっちゃうの?」
もしかしたらこの死神は、僕ではなくて凛音の方についていたのかもしれない。そう思って質問してみた。
「連れていかない」
予想通りの回答ではないことに安心した。
「じゃあ凛音はまだ死なないんだね。よかった」
安心したからか、眠気が襲ってくる。
毛布を被って目を瞑った。
「……人の死期なんて、わからない」
何か聞こえてきたような気がしたけど、もう僕には目を開ける気力はなかった。
翌朝、いつものようにまた学校へ登校する。
今日も三人は遅刻してきたし、気だるい授業は六時間続いていく。
でも、昨日とは違う焦りと不安がずっと一日中頭の中を渦巻いていた。
学校が終わると急いで里奈の家へ向かった。
合流したら一緒に病院へ歩いていく。
凛音の寝ている病室へ入ると、昨日と違う点があった。
「凛音…!」
目を覚ましていた。
静かにベッドの上でコンビニで買ったであろう雑誌を読んでいた。
「蓮、里奈も」
突然名前を呼ばれて驚いたようだ。僕と里奈の方を見て目を見張った。
急いで凛音に駆け寄る。
「よかった、大丈夫?痛いところない?」
「今はなんともないよ、大丈夫」
「ほんとに?」
「本当に」
早口でまくし立てる僕に凛音は少し笑っていた。
「心配したよ、体大丈夫?」
「里奈も来てくれたんだ。平気だよ。なんともない」
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だってば」
さっきと全く同じ流れを繰り返されてとうとう凛音は声を上げて笑いだした。
「私、幸せ者だね。こんなに心配してもらえるなんて」
「突然倒れたら誰でも心配するでしょ」
「そうだよ、何も前兆がなかったから尚更」
「うん、そうだよね。ありがとう」
「それより、自分の病名聞いた?」
「うん、聞いたよ。指、動かせないみたいなの」
「…指」
僕は凛音の言葉を聞いた瞬間、心臓が掴まれたようにぎゅっ、と苦しくなった。
「でもね、動かせないのは指先だけなの。だから生活に支障はあんまりないみたい」
変わらず笑っている凛音とは反対に、僕は表情が強ばったままだ。
「…僕は素直に喜べない」
「どうして?」
「凛音、もう前みたいにピアノ弾けないよね」
「蓮、それは…」
里奈が止めようとする。それでも続ける。
「家で親にどんな態度とられるかわからないから、僕は怖い」
「……大丈夫だよ、そんな顔しないで」
「もう、これ以上凛音に苦しんで欲しくない」
「私は最初から苦しんでないよ。蓮がいてくれたら、辛くないから」
「蓮、凛音もこう言ってるし、大丈夫だよ」
「ありがとう里奈。うん、本当に大丈夫なの。ちょっと休むだけで、ピアノも勉強もできるから」
そう言われると、何も言えなくなってしまう。
「ごめん、こんな話して。本当に、生きててくれてよかった」
「そうだね、凛音の病気は死んでもおかしくなかったもの」
「うん、教室で倒れたのが運良かったのかな」
「これからリハビリとかもあるの?」
「…多分、あるのかな?」
「少しでも指先の動き、回復するといいね」
「うん、早く復帰してちゃんと高校卒業しなきゃ」
前向きな凛音の性格がこういう時、とても心配になる。
里奈と凛音が会話をしているのを聞いていても、僕の表情は和らぐことは無い。
「そういえば、昼間にお母さんが来たみたい」
「え…」
「会ったの?」
「ううん、まだその時は寝てたの」
あの人が来たなら、後遺症の話を聞いていることは確定した。
「蓮がお母さんに伝えてくれたんだよね?」
「……うん」
「ありがとう、入院費とかお金の問題が気になってたから」
「そんなの凛音が気にすることない」
突然、スマホからバイブ音が聞こえた。
「ごめん、ちょっと電話」
「うん、いってらっしゃい」
病室を離れ、通話ボタンを押す。
「はい」
「蓮?いま病院?」
母からだった。
「そうだよ」
「じゃあ、凛音の近くにいるのよね?」
「今はいないよ」
「そしたら伝えておいて欲しいのよ」
「何を」
「後遺症が残るなら、もうあなたは必要ないって」
何を言われたのか、よくわからなかった。
「……なに、言って」
「そのままの意味じゃない」
「そんなの、僕が許さない」
「あなた達を養ってるのは私とお父さんよ、この意味はわかるわよね?」
「もういい」
「その養ってる親が満足できるような結果を残すのが子供の役割ってもの……」
「もういいって!」
母の言葉を遮って、通話終了ボタンを押した。
やっぱり、予想してた通りだ。
あの家で普通の結果を出すだけじゃ、生きていけない。
コンクールで優勝すること、成績が満点であること、そうなるために倒れても努力しないといけない。
そんな家、他にあるのか?友達の家も、クラスメイトの話を聞いてても、そんなの聞いたことない。
うちの親はまともじゃない。そんなこと、小さい頃からよく知ってる。抜け出せるのなら、今すぐにでも抜け出したい。
必死に涙を堪えながら凛音達の待つ病室へ戻る。
「おかえり」
僕に向けられた二つの笑顔。
その笑顔が僕を苦しめる。
「…凛音」
「ん?」
「母さんが、もう弾けないなら、いらないって…」
「なにそれ?!」
里奈が突然立ち上がった。
「……そっか」
凛音は特に驚きもせず、悲しみもせず、ただ受け入れるような返事だ。
「知ってた、大丈夫だよ」
「凛音…」
「いいよ、私の指が上手く動かないのも、倒れたのも、あの家に生まれたことも、仕方の無いこと。蓮が私の事で辛くなる必要ないよ」
違う。そうじゃない。僕は辛くなんかない。
辛いのは、凛音の方だ。
その言葉すら、僕は口に出せない。
しばらくの沈黙の後、凛音は静かに布団を被った。
「ごめん、今日はもう休みたいからまた明日来てくれる?」
「…うん、長居しちゃってごめんね。また明日」
里奈はそれだけ言ってすぐに病室を出た。
「凛音、僕は、凛音の味方だから。何があっても、ずっとそばにいるから。」
返事は返してくれなかった。僕も病室を離れた。
返してくれない理由は知ってる。きっと、泣いてたから。
凛音は人に涙を見せたくないから、いつも何かしらで隠れて密かに泣いてる。それを、僕は知ってる。本人も、僕がこのことを知ってるとは思わないだろう。僕にでさえ隠しているのだから。
前は何が原因で泣いてるのかわからないことが多かった。声を押し殺して嗚咽さえ漏らさず。色々な感情を押し潰して。
今日は、原因がわかっている。でも、何もできない自分が心底腹立たしく思う。
里奈と二人で帰る道はやけに寂しかった。
いつも通っているのに、ぽつりぽつりと立つ街灯の青白いライトが寂しさを増幅させているような気がした。
家に着いて、扉を開ける。
「ただいま」
「おかえり、蓮」
家に帰ると、母親の機嫌が良かった。
というか、凛音と同じように接してくる。
「あ、うん…」
「晩御飯、用意してあるから」
いつもは自分でおかずを作って残った白米を茶碗に盛り付けて食べているだけだった。
今日は、違った。
「いつもは用意してないよね」
「これからは蓮があと継ぎなのよ。凛音はだめになったから」
だめになった。その言葉が酷く気持ち悪い何かになって頭にこびりつく。
嫌な夢を見ている気分だった。
その日の母親のご飯は味がしなかった。
僕らの立場が、逆転してしまったのだと知った。
凛音が入院してから半月くらい経ち、リハビリを経て家に帰ってきた。
病院から帰ってきた日は平日だったから、一緒に帰ってくることはできなかったけど、家にちゃんといる事に安心した。
しばらく家でも休まないといけないらしく、最近はベッドにいるのをよく見かける。
相変わらず部屋は僕の絵で埋まっている。
「新しいの描いてないの?」
「凛音が病院にいたから、描いてないよ」
「待ってなくても良かったのに」
僕が家で絵を描いていると思っていたらしく、しょんぼりと肩を落とした。
「また今度描くよ、待ってて」
そう言うと表情が一気に明るくなった。本当は凛音が帰ってくるまでピアノのレッスンに追われていたせいで描けていなかったことは秘密だ。
部屋で絵を描き始めようと思った時、扉をノックされた。
「蓮、今日のレッスンは?サボるつもり?」
母が、部屋にきてそんなことを言う。
「……凛音帰ってきたけど」
「言ったでしょ?これからは凛音じゃなくて蓮がピアノをやらないとって」
「なんで…?」
「だって、凛音はもう前みたいに弾けないもの」
凛音が、弾けない?リハビリを頑張ってたのも、楽譜を覚えるのも、勉強についていけるように頑張ってたのも僕は見てた。
母は、見てない。
「早く行きなさい」
そう言って扉を閉めた。
どうしようもない怒りが込み上げてきた。
でも、凛音が一番辛いはずだ。
今では、僕が優遇されるようになってしまったから。
僕が、頑張らないといけない。
「お母さん」
ふと、部屋の外から凛音の声が聞こえた。
「私、リハビリ頑張ったの。だから、前みたいに弾けるよ。蓮に無理矢理やらせることないんじゃない?」
「入院費もろくに稼げない金食い虫は余計なこと言わないでちょうだい」
「……ごめんなさい」
せっかく飲み込んだ怒りが、またふつふつと湧いてくる。
凛音が部屋に入った音を聞いてから、僕は台所へ戻る母の元へいった。
「母さん」
「何?」
「凛音のこと差別するようになったよね」
「そんなことないわ、前よりも健康管理に努めてもらおうと思っただけよ」
「じゃあなんであんな言い方したの」
「あぁ、金食い虫って言ったこと?あとで謝るわよ」
こちらを一度も見ることなく、夜ご飯を作り続ける。
いつも、凛音はこんな風に思ってたのか。
最近になってようやくわかった。
聞き入れたフリをして、僕は貼り付けたような笑顔を向けた。
僕は親や先生のために僕を作り替える。
僕が守ってもらったみたいに、凛音を守るために。
「レッスン行ってくるね」
「気をつけてね」
昔いつも歩いていた道を辿る。
一時間みっちりピアノを弾くためにまたあの場所へ向かう。
ピアノ教室に着いて、久しぶりに先生に挨拶をする。先生は別に悪い人じゃない。でも、良い人でもない。口だけ上手くて、凛音を天才だと持ち上げるだけ持ち上げて大した指導はしなかった。今まで凛音がコンクールで金賞や最優秀賞をとれたのは努力以外の何物でもない。
僕は教えてもらったことをそのままやることしか出来ないから凛音みたいになれなかったのかな。
「やあ、こんにちは」
「こんにちは」
「早速だけど、今日は蓮くんのレベルを知るために弾ける曲を弾いてもらおうかな」
「分かりました」
昔使っていた楽譜をバッグから取り出す。暗記なんてしてないし、指だって中学からまともに動かしてない。僕はどれくらい先生を失望させるのか。
ピアノを辞める前の一番最後に弾いた楽譜を弾き始めた。
でも、すぐにわかった。ブランクがある。いつも凛音の部屋から聞こえてきたあの音色には程遠い。昔弾けていた譜面は弾けなくなっていた。
弾き終わって、今まで凛音の音を聞いていた先生は引きつった笑みを浮かべていた。こんな反応されることなんて予想通りだ。今まで凛音の演奏を聴いていたのだから仕方ない。先生に対して下手で申し訳ないなんて微塵も思わないけど、それでも下手だな、と自分でも思う。
「なるほど、ありがとう」
そう言うと先生は奥に引っ込み、楽譜を数枚印刷してきて僕に渡した。
「今日からこれをやろうか。基本はできてるから、あとは指をスムーズにまた動かせるように頑張ろう」
さっきまでの引きつった笑顔はどこへやら、慰めるような笑顔を向けられた。
「はい」
そこからひたすら一人で自主練習。教室には他の子もいるから先生は始めしか見てくれない。お気に入りの子にはちょこちょこ声をかけるのに、そうじゃない子には一回指導したら終わり。だから好きじゃないんだ。
でも、無理にでも頑張らないといけない。
僕も凛音のように努力しないといけない。
あの家で二人とも音楽ができなかったら、何されるかわからないから。
それから数ヶ月間、レッスンに明け暮れた。学校からはいち早く帰って、ピアノ教室に行って、帰ってまた練習して、学校の課題を少しだけ進めて寝る。
夏が終わりかける頃には、昔と同じ生活ルーティンになっていた。
凛音は逆にレッスンに行かなくてよくなったせいか、勉強に力を入れているようだった。
前より会話は減った。
絵を描くより、話す時間より、睡眠を取りたかった。
でも見たところ凛音が僕よりも酷い扱いを受けていないことは安心した。
僕のピアノが大分上達したのを、母も喜んでいるようだった。
「次のコンクール、もちろん金賞よね?」
懐かしいな。この期待しか詰まっていない瞳を見る度に、凛音を羨ましいと思っていたのが。
その眼差しを貰えたのはいつも凛音だったから。
僕は初めて自分に向けられたそれにようやく凛音のことを理解した。嬉しくなんてないのだと。
むしろ、重りが増えたように心臓が苦しくなる。
僕は凛音の抱える負担がこんなに重いものだなんて想像すらしたことなかった。
「うん、母さんのために頑張るね」
嘘をつく。頑張っているのは凛音のため。
嘘をつくと何かが抜け落ちるような感覚を覚える。
それも気付かないふりをした。
コンクール当日。
「どうだった?」
スマホに凛音からメッセージが届いていた。
久しぶりのコンクールの結果は母さんの望んだ金賞だった。
「無事金賞獲れたよ」
「おめでとう!すごいね」
「ありがとう、凛音がいたから頑張れたよ」
「今日はお祝いだね!早く帰ってきてね!」
了解、と一言送ってスマホをしまった。
「蓮くん、おめでとう。すごいね、あんなにブランクがあったのに」
先生が駆けつけて僕を褒めてくれる。
「先生のおかげですよ、ありがとうございます」
お世辞なんてもう慣れた。
先生はこれからも僕をお気に入りにすることは無い。今だってきっと見ているのは僕じゃない。
あまり長くは話さずに先生と別れた。
母さんだって相変わらず期待はするのにコンクール会場には来てくれない。でも報告の連絡だけ入れた。どうせ返事はすぐに返ってこない。
今日はレッスンも休みだ。気ままに過ごせる時間は久しぶりな気がする。
電車を乗り継いで、バスに乗って、家へ続く道を歩く。秋に入る前の昼下がり。少し暑い晴れた日だった。
「ただいま」
「おかえり」
凛音が出迎えてくれる。
「改めておめでとう」
「あ、うん。ありがとう」
凛音の表情はすごく明るかった。
僕もそうだったのかな。
凛音が金賞をとったら嬉しくて仕方なかった。
おめでとう、やっぱりすごいね、さすが凛音だ、そんな言葉を何度繰り返したことか。
「蓮、嬉しそうじゃないね」
「嬉しいよ、凛音に祝って貰えたら」
「私限定なの?」
「僕が一番聞きたいのは凛音のおめでとうだから」
「蓮もシスコンじゃん、人のこと言えないね」
「はは、そうだね」
「あ!蓮、里奈とお祝いのアイス奢ってあげる!準備して!」
「え、突然だね」
「今思いついた」
「里奈は大丈夫なの?」
「フッ軽だから大丈夫」
ちょっと強引だな、なんて思いながらありがたくその提案には乗らせてもらう。
「もしもし?里奈?今からコンビニ行くから一緒に行こ。蓮のお祝い」
凛音が里奈に電話をしている間に僕は部屋で着替えてリュックからスマホと財布を取り出した。あとの荷物はコンクールで使った楽譜と賞状だから家に置いていく。
「蓮ー、里奈今から行くって。私達も行こ」
「うん」
凛音と一緒に家を出てから里奈と合流して近くのコンビニへ向かった。
「突然呼び出してごめんね」
「いいよいいよ。蓮、金賞とったんでしょ?すごいじゃん!なんのアイス食べたい?奢るよ」
「え、僕二人からアイス奢られるの?」
「確かに二つはやばいね」
「じゃあ私お菓子奢ってあげるよ」
里奈はアイスからおやつに変更するようだ。
「はは、二人とも僕に絶対奢りたいみたいじゃん」
「それぐらい蓮が頑張ったんだから、当たり前だよ。私はいつも隣の部屋で聞いてたからよくわかる」
「僕だって凛音が頑張ってたのは部屋で聞いてたよ」
「ちょっと、私蓮のピアノ聞いてないよ、二人で話さないで」
拗ねたように里奈が頬を膨らませる。
「じゃあ里奈も今度コンクールとか発表会、見に来たらいいじゃん」
僕がそう言うと、里奈は目を輝かせた。
「いいの?!行きたい!」
「私も行きたい」
「二人で来なよ。そしたら僕もっと練習頑張れるから」
「じゃあ里奈、今度は一緒に行こう」
「もちろん!楽しみだなぁ」
里奈は音楽に関してはそんなに詳しいわけじゃない。でも僕らのピアノはすごく好きらしく、昔はよくストリートピアノを見かける度弾いてよ、と言っていた。僕らも聴いてもらえることが好きだったからよく連番していた。
里奈だけだった観客はどんどん増えて、いつの間にかピアノを中心に円ができるほど人が増えてるなんてこともよくあった。
コンビニに到着して、商品を選び出す。
買ったものを食べようと公園に向かう頃にはもう夕日が空を赤く染め始めていた。
「はい、これ。私たちからおめでとうのプレゼント」
そう言って手渡されたレジ袋にはバニラアイスが一つとお菓子が四袋。
「なんか多くない?」
「そう?」
「いいのいいの、貰っときなって」
二人はそう言って僕に無理矢理押し付けた。
近くのベンチに座って、揃ってさっき買った各々のアイスを食べ始めた。僕は買ってもらったバニラアイスを取り出す。
昔もよくこうやって三人で並んでアイスやらお菓子やら食べたなぁなんて思い出す。
「わ、もう溶けてきてる、早く食べないとやばいかも」
「ほんとだ、カップでよかった」
僕より先に食べ始めた二人のアイスは溶け始めているらしい。となると、僕のも溶けてる可能性があるな。カップの蓋を開けると周りが液体になり始めていた。秋に入り始めたばかりだからまだ暑さが残っている。あと少ししたらアイスを外で食べるのも厳しい季節だ。
早いな、もう高校二年生も終わりに近づいてるなんて。
凛音と里奈とこうやって話せるのも、あと何回だろう。
もうあと一年で進路もバラバラになって、直接会うのも難しくなるんだろうな。
どこからか風で運ばれてきた甘い匂いを嗅ぎながらそんなことを考えていた。
家に帰ると、母が夕飯を作っていた。
久しぶりに自由な時間があったせいで話し込んでしまい、夕方なんてとっくにすぎて夜になっていた。
「あら、おかえり。遅くまでどこに行ってたの?」
「…公園」
「そう、次からはもう少し早く帰ってきなさいね」
「うん」
素っ気ない返事だけ返して、凛音と僕は部屋にこもった。
いつものように僕はピアノの練習をし始めた。
夕飯を食べられるほどお腹は空いていなかった。凛音はきっと勉強している。
お互いに必要最低限しか部屋の外に出ない。
しばらく練習を続けて、お腹が減り始めた頃、時計を見るともう二十二時を回っていた。
さすがに風呂にも入らないと行けなかったから階段を下りて台所へ向かった。
てっきり誰もいないと思っていたけど、声が聞こえてきた。怒鳴っているように聞こえる。
近づいていくとその声ははっきりと聞こえてきた。
「なんであんたのためにあんなにお金かけたのかしら!絶対音感もなくなって、ピアノだってろくに弾けないのに!」
「…ごめんなさい」
血の気が引いて、二人の顔を見る前に足が止まってしまう。
その時初めて知った。凛音は、あの倒れた後遺症で絶対音感を無くしていたことに。
僕には一度もそんなことを言わなかった。そんな素振りすら見せなかった。
突然凛音に対応を変えたのも、音楽にしか興味のない母とっては十分な理由だったのだ。
「ごめんなさいしか言えないのね。家に置いてるだけ感謝しなさいよ、もうあんたなんか用無しなんだから」
「…出ていけば、気が済むの?」
「え?」
「私が施設にでも入ればお母さんは楽になるの?」
「そんなことしたら、許さないわよ」
「どうして?双子じゃない方が良かったんでしょ?」
凛音が母に言い返しているのは初めて見た。
いつも褒められている印象が強くて、怒鳴られてるのも、それに対して反論しているのも見たことが無かった。
それより、双子じゃない方が良かったって、どういう意味だ?
「…ええそうよ。子供は一人いれば良かった!双子なんて産みたくなかったわよ!でも施設になんか入れたら世間が許さないわ、だからこうして育てているじゃない!」
「育ててるのは、子供じゃなくて音楽のできる都合のいい子。そうでしょ」
凛音は反抗的だった。
僕は幼少期から冷遇されていたから黙っていることが最適としか思ってなかった。でも、凛音は違う。今までずっと愛されてきた。僕を横目に見ながら。
でも、凛音の言葉はやはり火に油を注いでいた。ぱちん、というなにか破裂したような音が聞こえた。
驚いて凛音と母の前に飛び出す。
倒れ込んだ凛音と、荒い呼吸をして顔が赤くなった母がいた。
「凛音!」
駆け寄ると、凛音は頬に手を当てて母を睨んでいた。
僕は凛音を庇うように抱き込んだ。
「うるさいわよ!この家では音楽が出来なかったら後を継げないんだから当たり前でしょ?!黙って言うこと聞いてなさいよ!」
母はそう言うと、近くにあった食器を投げつけてきた。
目の前にいるのは僕だから、当たるのは僕だ。
痛いけど、凛音に当たるよりマシだ。
「蓮!退きなさい!」
そんなこと言われても退けるわけない。
僕の大切な片割れだ。
親なんかよりももっと大切な人。
親の言葉なんて、凛音は聞かなくていい。
「こんな子達なら一人殺しておけばよかった!」
……え?
耳を疑う。ヒステリックなのはいつもの事だけど、ここまで言動が狂ったのは見たことがない。
殺しておけばって、どちらを?
冷えた心臓が、もっと冷えていく。
手足が冷えていく。
凛音から離れて立ち上がる。
まな板に置いてある包丁が目に入った。
母の横を通り抜ける。母は怪訝な顔をして僕のことを目で追う。
「え…?蓮?」
「そんなこと言うなら……母さんの方が死ねばいい!」
包丁を手にして母に向かって大きく振りかぶった。母の顔が恐怖に染まる。
「蓮!だめ!」
凛音が僕を止めようとしているけど、僕は耳を貸さない。
母の目には涙が浮かんでいる。泣きたいのは僕だ。目頭が熱くなって視界がぼやける前に、刺そうと思った。
でも、僕が母を刺すことはできなかった。
「だめだ」
母を刺す直前、僕の耳元でどこかで聞いた声がした。
誰だっけ、と一瞬思ったけどすぐに思い出す。いつも近くにいる、死神の声だった。
どうして、と思う前に僕の意識はなくなった。
・・・ ・・・
だめだ。そんなことさせるために生まれ変わらせたわけじゃない。
そう思った瞬間には、無意識に大鎌を手にしていた。生まれ変わりが母親に刃を突き立てる前に、魂を刈り取ってしまった。
時間の停止した灰色の世界で、秒針の音が響いているはずだ。
なのに、自分の心臓が鼓動する音で聞こえない。頬を液体が伝っていることに気がつく。呼吸が落ち着かない。
もう、過ぎたことだ。
前を向かなければ。
次を、「佐原蓮」という存在を、繋がなければ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます