1|温かく、冷える
トーストの匂いが鼻腔をくすぐる。目を開けると、いつもの見慣れた僕の部屋だ。
上半身を起こして、窓の外を見た。よく晴れた朝だ。暖かく眩しい陽光が差し込んでいる。
「おはよう」
振り向いて挨拶をした。
「……」
特に反応は無い。振り向いた先には真っ黒なローブをまとった「死神さん」がいる。
僕にしか見えないし、僕しか触れない特別な存在らしい。
「蓮!起きなさい!」
「今起きた」
階段の下から母の声。そろそろ準備しないと学校に遅刻してしまう。
寝巻きのスウェットから学ランに着替えて、先程の予想通りトーストが置いてあるダイニングで朝食をとる。
歯を磨いて、軽く髪の毛も整えて、荷物を適当にカバンに詰め込んだら玄関へ向かう。
「おにいちゃん、いってらっしゃい」
まだ小学一年生の妹が見送りに来てくれた。
「おう、いってきます」
健気で可愛い妹に笑顔を向けてから、僕は外へ一歩足を踏み出す。
さっきまで作っていた笑顔が、するりと落ちる。本当は表情ひとつ作るのさえ、最近では疲れる。春先の暖かな風とは裏腹に、教室で僕に向けられる視線は冷たい。
通学路をできるだけゆっくりと歩く。
死神さんも後ろからゆっくりと着いてくる。
特に何をするでもなく、ただいつも見守ってくれる。
僕が学校でいじめられてても、見守るだけ。
少しでもいいから何かしらで助けて欲しいが、存在自体認識されていないのだから、仕方ない。
嫌だなぁ、辛いなぁ、なんて思いながら僕はその場を乗り過ごすしか手段が残されていないらしい。
「着いてしまった」
何も考えずただ歩き続けているうちに昇降口に辿り着いた。
小声で呟いたが、死神さんには聞こえたらしい。肩を少しすくめたのが見えた。
なんとも言えない笑顔を向けてから、僕は靴を履き替えた。
扉を開けて二年二組の教室にようやく足を踏み入れた、その直後
「さーはーらーくんっ」
いじめっ子の主犯格である遠藤と、その取り巻きにつかまった。
「おっはよー、遅かったじゃん。待ちくたびれたよー」
「はは…ごめん」
「せっかく準備したんだから、これ、受け取れよ」
ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら何かを渡される。
「えっ」
押し付けられたのは、この前無くなったと騒がれていた、美人で名高い柚原さんのポーチだった。ポーチの特徴はクラス全員の前で教えてもらったので僕も知っている。
今教室に入ったばかりなのになんてもの押し付けるんだ。
これは隠すのが最善なのか、それとも本人に直接言った方がいいのか。でもそんなことしたら僕は遠藤になにかされる。
遠藤たちは僕の傍から離れ、遠巻きに僕の様子を観察した。どうしたものかと突っ立っていた時、邪魔、という声で我に返った。
が、見つかった相手が悪かったとその時気づいた。
「ちょっと、それ……」
「あっ、こ、これは…」
「ゆずのポーチ、あんたが盗んでたの?」
「ち、違う!」
よりによって彼女の親友に見つかるなんて。
「じゃあなんで持ってるの?」
「いや、これには訳が…」
「へぇ?聞かせてよ、その訳ってやつ」
本当に、ついてないなぁ。
これが狙いで遠藤は渡してきたんだろうけど、よりによって涼宮さんとは。
運動も勉強もトップで文武両道だが、性格は正義感が強く少しキツめな女の子だ。
教室はざわめいて、こちらの様子を伺いながらヒソヒソと何か話しているようだ。
「なに?話せない?」
「……ごめんなさい、これは柚原さんに返してください」
「は?なんで?自分で返しなよ、謝る相手間違ってるし」
「でも、まだ柚原さん来てないし、ずっと僕が持ってるわけにもいかない」
「盗んでおいて何その言い方、自分は盗んでませんみたいな」
「あれ?どうしたの?扉の前で」
ここでポーチの持ち主が登場。もう言葉すら出てこない。
「ゆず、ちょっと聞いてよ」
「ん?」
「ゆずのポーチ盗んだの、佐原だった」
「え?」
「あ、いやあの…」
「なに?なんかあるの?いいからさっさと謝りなよ」
「……す、すみませんでした。柚原さんのポーチを勝手に持ち出して」
「あー…中見てない?」
「見てません」
「そっか…まぁいいよ。もしかしたら落としたのを拾ってくれただけかもしれないし!ね?」
「……本当にごめんなさい」
「そんなことあるわけないでしょ、ゆずは優しすぎ」
「でも返してくれたから、この話はおしまい!」
「ありがとう」
「…覚えときな」
ぼそっと耳元で囁く涼宮さんの声と視線は僕の恐怖を掻き立てるには充分だった。
「佐原くんだめじゃーん、人の物盗むなんて」
「しかも美人のあの柚原のな!」
再度お出ましの遠藤ほか取り巻き達は僕を見事に悪役に仕立ててこの通り面白がっている。
この後の授業も、ずっと冷やかされ、ゴミを投げつけられ、私物を隠され、散々だった。
あと、どれくらい耐えればいいんだろう。
僕の居場所はないのだろうか。
「おかえり」
母はいつものように帰ってきた僕に話しかける。
「うん」
素っ気ないかもしれないけど、こんな返事しか最近はできない。もっと前なら母に言われる前に元気よくただいま、と言えていたはずなのだけど。
「おにいちゃん、遊ぼ」
妹がぬいぐるみを抱えて僕を誘ってくれる。
「ごめんな、兄ちゃん疲れてるからまた今度な」
そういうと妹はしょげた顔をしたが、わかった、と言ってリビングに引っ込んっでいった。
あいつは友達と遊んできたりしないのだろうか。いつも家にいる気がする。
いじめられてないといいんだけど、なんて考えてから、自分のことを思い出す。
そういえば僕はいつからいじめられてたっけな。ふと頭に浮かんだことがいじめに関することで気分が悪くなるから考えることはやめた。
部屋のベッドでひとしきりスマホをいじって、母の夕飯ができたという声を聞いた後、重い体を起こして食卓についた。正直、最近は食欲がなくてあまり多く食べれない。そんなことお構い無しに母は僕のお茶碗山盛りに白米を盛り付けてくる。
「育ち盛りなんだから、ちゃんと食べないと大きくならないわよ」
最近の口癖だ。
「これ、お兄ちゃんにあげる」
妹は好きなはずの唐揚げを分けてくれようとするがそこは母にも止められていた。
「凛音も育ち盛りなんだからいっぱい食べなきゃダメよ、ほら、お母さんのあげるから」
温かいな、と思う。
父はさっき帰ってきたようで、風呂に入っているらしい。あまり口数が多い訳では無いが、昔は休日によく遊びに連れていってくれたし、今でも家族の誕生日では全員で外食に行く。
家族の予定は絶対に疎かにしない優しい父だ。
こんな家に生まれたのは僕の一生の幸せなのだろう。恵まれた環境なのに、どうしてこんなにも重苦しく、辛い日々に負われているのだろうか。
「お兄ちゃん、元気ないよ。りんねとお絵描きする?」
「ん?お絵描き?」
突然言われたワードがあまりにファンシーで思わず聞き返した。
「ああ、今日学校で家族の絵を描いたみたいで、その絵を褒めてもらったらしいのよ。よっぽど嬉しかったのね」
母が説明してくれた。そうか、そんなことがあったのか。
当の本人は心配そうにこちらを見てくるものだから、また気を遣わせてしまったな、と反省してしまう。
「そうなのか、よかったなぁ。大丈夫だよ、兄ちゃんちょっと疲れただけだから、また今度一緒に遊ぶ時お絵描きしようか」
「うん!」
ぱっ、と表情が明るくなる。我が妹ながらとてもかわいいと思った。今度遊べるの、いつになるかなぁ。そんな元気残せないくらい疲れてるから、次の休みはしっかり休まないとな。唐揚げを頬張りながらそんなことを考えていた。
「もし生まれ変わるなら、どんな人生がいい?」
少し曇り気味の空の下。
初めて死神さんと会話をしたのは、学校の屋上での事だった。
「僕が、生まれ変わるなら?」
こくりと頷く死神さん。僕は少し考える素振りを見せてから
「お金持ちになりたいよ。凄い財閥の家に生まれて、欲しいものはなんでも手に入るような人生を送ってみたい。親の重圧もなくて、学校に行けばみんなにちやほやされちゃう、そんな存在になりたい」
そんな願望を言った。
「なぜ?」
「うーん、特に理由は無いけど、いじめられたくないんだよね。権力あれば何とかなるかなぁって。僕はお金で何とかできるならそうしたい」
「そうか」
死神さんが声をかけてくれたとき、僕は命を刈り取られるのだと思っていたけど、その時はそうではなかったみたいだ。
昼休みはいつも人気のない別棟の階段で遠藤達に見つからないように本を読んだりして過ごしている。
「佐原くん、ちょっといいかな」
昼休みに突然、クラスの女子から声をかけられた。
確か名前は広瀬里奈…だった。
「いつもここにいるよね、なんで?」
「なんでって言われても……広瀬さんも知ってるでしょ、遠藤に見つかったら何されるかわからない」
「ごめん、そうだよね」
「いや、いいよ」
沈黙が流れる。
「あの、さ」
先に口を開いたのは広瀬さんだった。
「余計なお世話かもしれないけど、これから
昼休みに私と話さない?佐原くんのこと知りたいの。あわよくば、佐原くんの逃げ場みたいなものになりたいな…なんて」
自分の言葉に照れて、それを隠すように微笑みを浮かべる彼女は、酷く眩しく見えた。
「……どうしてそれを広瀬さんがするの?」
「そ、れは…」
「先生とか、他の人にでも頼まれた?」
意地悪な質問だった。
ごめん、そう言いかけた時
「私が、佐原くんのこと好きだから」
彼女は真剣な表情でそう言い放った。
「え…?」
「私が佐原くんと話したいだけ。好きな人が傷つけられてるのって、見ててすごく辛い。何もしないでいるのは嫌だから、少しでも力になりたい」
「……僕に好きになる要素なんてある?」
「ある。たくさん」
「そっか」
どうしようもなく、嬉しかった。
話し相手になりたいと言ってくれただけでも嬉しかった。
でもそれ以上に、僕を好きだと言ってくれる人がいたことに、今までの辛い出来事が消し飛ぶくらい嬉しかった。
「ありがとう、広瀬さん。それじゃ、頼もうかな、その話し相手ってやつ」
嬉しさに、僕は負けた。
本当はここで彼女を突き放した方がお互いのためなのはよくわかっていた。それでも、縋ってしまった。
「うん、まかせて」
それから、僕達はほぼ毎日、短い昼休みの間お互いのことや世間話をして過ごした。
なんてことない時間が、とても心地よかった。
次第に広瀬さんは僕のことを「蓮」と呼び、僕は広瀬さんを「広瀬」と呼び合うまでに仲が深まった。
話してみてわかったことはたくさんある。
広瀬は小学校までダンスを習っていたから運動が得意だとか、本を読むのが趣味でファンタジー要素がある物語が好きだとか、嫌いな食べ物は案外子供っぽくて、ピーマンとかゴーヤみたいな苦いもの、魚料理があんまり好きじゃないとか、とにかくお互いにくだらない話も悩み相談もした。
憂鬱だった春とは少しだけ違って、学校に行く足取りが軽くなったような気がする。
梅雨の時期に入った頃だった。
広瀬に突然、告白の返事はどうなのかと聞かれた。
「あぁ…そういえばそうだよね」
「二ヶ月くらいしか経ってないけど、少しは意識してもらえたかなって」
その感じだと好きって感じではなさそうなの分かるけどね。そう言った彼女は少し寂しそうな顔をした。
「うん、確かに、広瀬と過ごす時間はすごく心地いいし学校に来るのも前よりずっと楽になった。広瀬には感謝してるけど、恋愛面ではまだよく分からない…ごめん」
「いいよ、気にしないで。それに、私と話してて蓮が心地いいって、学校に来るのが憂鬱じゃないって思って貰えたなら、私はそれで充分」
その時の広瀬は、頑張って作った笑顔と準備していた言葉をそのまま言ったように感じた。
「でも、諦めないからね。絶対蓮を好きにさせる。気まずいとかいう理由でここに来るのやめたりしないでね」
彼女は強かった。いつも笑顔で、明るくて、優しい。
自分が傷つくことよりも、相手のことを理解した上で最適な言葉をかけられる、見極める力を持っている。
………だから、今でも後悔してる。
なんで早く気づかなかったんだろうと、僕は初めて自分を恨んだ。
季節は巡って、木の枝から枯葉が舞い落ちる頃。
また昼休みに、いつも通り階段の踊り場で待ち合わせ。
そのはずだったのに、広瀬の呼びかけに今日は返事が返せなかった。
今は、死神さんといつか話した屋上にいる。
厚い雲が空を覆って夜のように暗い。
今日の遠藤は、酷く機嫌が悪かった。
「広瀬のこと、お前知ってたろ」
その言葉が何を意味しているのか、僕には理解できなかった。
取り巻きたちが小声で話していたのを聞いてようやく理解した。
「知らなかったとしても可哀想だよなぁ。遠藤が広瀬のこと好きだったの」
バレていたのだ。僕がいつも広瀬と昼休みを過ごしていることが。
今日の昼休みも広瀬と時間をずらして階段の踊り場に向かうはずだった。遠藤達に突然連れ出され、人気の少ない別棟のトイレに連れ込まれた。昼休みが終わっても解放して貰えず授業もサボらされた。殴られ、蹴られ続けた。口にガムテープを貼られて声は出せないし、扉には清掃中の貼り紙をご丁寧に貼り付けて、誰も入って来れないようにしてあった。だから誰かに助けてもらうなんてことできないし、誰もその状況を知っていた人はいない。
ただ終わるのを待っていたが、体より先に、心が折れた。きっとこれが拷問と言うやつなのだろうなと、その時初めて思った。
取り巻きたちに拘束されて、遠藤のサンドバック状態だった。無抵抗な人間に何度も掃除用具で叩き、洗うという理由で水をかけられ、その後はまた蹴飛ばされたりして。ずっと怯えていた。だからひたすらに謝っていた。多分ただの悲鳴だったと思う。許す許さないの問題じゃないし、やめてくれと言ってやめてくれる相手じゃないのもわかっていた。
それでもやめてくれ、痛い、苦しい、許してくれ、どうしてこんなことをするんだと叫び続けた。でも誰も答えてくれない。そもそも聞き取れない。ニヤニヤと不気味に笑う取り巻きと、暴行を続ける遠藤は、異様な程怖かった。
殺されると、本気で思った。
どうしたらこんな道徳心も良心も欠けたやつが育つのかわからないと心底思った。
いつの間にか気を失っていて、周りには誰もいなかった。どこかしら骨折している気がする。目を覚ました時にはもう夕方をすぎて夜になっていた。体を引きづりながら屋上に登って今に至る。
死神さんに殺してもらえなかった時の保険として、自分から飛び降りられるように、屋上を選んだ。
「死神さんも、見てたよね」
「……」
「死神さん、僕のこと殺せたりする?」
「…この先に報われることがあるんじゃないか?」
「もうこんな箱の中で生活するなんて、無理だよ」
「今だけの痛みかもしれない」
「乗り越える力なんてない。もっと楽しい人生を送りたい。こんな生活の中で、来年は受験だろ。勉強に集中できる環境じゃない」
本当は先生にも親にも伝えるべきだって知ってた。
でも、大人にいじめのことを伝えて、ただの同級生のお遊びだろとか、みんな経験するとか、我慢を知らない貧弱者とか、見てもいないのに決定されることが怖かった。
守って貰えないかもしれないという可能性が頭から離れなかった。
本当は話して楽になりたかった。
いじめられてる所を偶然見かけて、助けてくれるのを待ってた。
辛かったんだな、もう安心してもいいよ、大丈夫だからね、そう言って貰える日を、ずっとずっと待って、耐えた。
でも、気づいてすらもらえなかった。
「助けてくれないんだったら、僕のことを殺して解放してよ」
自嘲気味な笑顔を浮かべながら、この世のものではないなにかに話しかける。
死神さんは、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「本当に、殺していいのか?」
「うん」
「金持ちの家だったね」
「……そんなこと言った日もあったね」
もう話す体力だって残っていない。疲れた。何もかも。
「やり残したことは無いの?」
「…ないよ」
言い切ってはみたが、後悔はあった。
妹ともっと遊んでいたら。
父と母にいつもありがとうと言えていたら。
広瀬に、好きだと伝えられていたら。
やりたいこと、伝えたいことなんて山のように溜まったままで。
温かい普通の家庭に生まれたのに、天寿をまっとうせずに死ぬのは申し訳ないなと感じた。それでも、僕の限界は僕がよく理解している。
だから、死神さんがどこからか出した大鎌に、自らの首を差し出した。
・・・ ・・・
「……」
大鎌を振るった。
血はでない。
その代わりに、白く、淡く光る物体が体から引き抜かれる。
家族に愛されるのが不満だったわけではないだろう。
かといって、それだけではいじめには耐えられなかった。
良かれと思って用意した環境は無意味だった。
「幸せ、ね」
亡骸を一瞥した後、その場を去った。
五体満足の綺麗な死体は霧のように消え、欠片も佐原蓮という存在を残さなかった。
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