¥1 STYLISHな男の朝

 真面目に生きる人間の頭上にも、不真面目に生きる人間の頭上にも、太陽は変わらず昇ります。

 そして狂った世界に魅了されたアンダーグラウンドの住人達にさえ、太陽は変わらぬ恵を与える……


 地上8階の窓から見える町並みは変化を忘れたみたいにいつもと同じ朝の喧噪に包まれていた。


 街角を歩くサラリーマン。

 流れる信号機のMELODY。

 交差点でスマホをいじりながら友人と語らう学生達。

 目をつり上げ会社へと急ぎ走り去る車。

 このJAPANという土地に魅了され旅行に来た外国人旅行者達……

 不協和音にも近い、だけど、それらが渾然一体となったクラシックミュージックにも似た都市の息吹。


 時刻は7時55分。

 一般社会人には遅く起きた朝ですが私には少し早い朝。

 いつもは布団の中で微睡まどろみを愉しんでいる時間ですが、今日の朝日はとても気持ちが良い。

 こんな日はベランダでモーニングコーヒーを嗜みながら緩やかに脳の覚醒を促すのが最良でしょう。


 ITALY製 エスプレッソマシン $653-

 ETHIOPIA産 珈琲豆(MOCHA) $17-(100g)

 共に1AMERICA$=151.2135円時-

 JAPAN・HOKKAIDO製 石臼コーヒーミル(黒御影石) ¥55,000-(税込み消費税10%)


 石臼から漂うMOCHAの芳醇な香りが私の脳を覚醒へと導く。

 エスプレッソマシンに入れる粉は3杯。

 少し濃い目が私の好みです。

 淹れ立てのエスプレッソは美しい黄金のクレマ(泡)で私に微笑みかけた。

 砂糖は山盛りで1杯。

 きめの細かいクレマに乗り、白にじんわりと黄金が染みこんでいく美しさは、どれほど見続けても飽きることはないでしょう……

 ふふ、いけませんね。

 エスプレッソの寿命は儚くも10秒と言われています。

 思わずこの至福の時に浸りたくはなりますが、まずはエスプレッソこの娘を頂きましょう。

 スプーンで混ぜるのは一度だけ。

 たった二口の情熱。

 狂おしいほどにまろやかな舌触りの中に眠る砂糖のざわめき。

 チェロとドラムの組み合わせにも似た不協和音のようでありながら、高次の彼方で熱い抱擁を重ねる天使と悪魔の背徳にも似たハーモニー。

 ……いけませんね、饒舌に重ねる言葉はこのエスプレッソ作品の素晴らしさを迷走させる。

 そう、私にとってこの至福の一時とはこれから始まる戦いへの前奏曲に過ぎないのですから。


 時刻は9時20分。

 頃合いでしょうか。

 ラジオから流れる地元のニュースを聞きながらスーツに袖を通す。


 SHOP AOYAMA販売 2着目無料スーツ


 あ、言い忘れてました。

 私の身長は181cm。日本人としては高い部類に入るでしょう。

 この仕事をする上で注意しなければいけないのは、


 目立つこと。

 記憶に残ること。


 この二点に尽きると言っても過言じゃ有りません。

 ですから、町中に溶け込むことこそ重要といえます。

 ちなみに、このメガネ――


 RAKUTEN SHOP販売 伊達メガネ ¥2,900-(税込み消費税10%)


 もまた、今時の街に溢れたデザインの物を選びました。

 そう、これは街に溶け込み悪目立ちをしないためのスタイル。

 言うなれば逆アイドルとでも言うべき、目立たないためのスタイルなんです。

 空気になることただ目指すことはこの一点。


 賃貸マンションのエレベーターホールを抜け――

 喧噪に溢れた街角を横切り――

 雑多に車が止まるコンビニの防犯カメラをさり気なく死角から通り過ぎ――

 公園で少し早めのランチパックにかぶりつくオフィスレディと目を合わせることもなく――


 乗り込んだ地下鉄でスマホをいじりながら三度乗り換える。


 私の視線はスマホの画面。

 しかし、張り巡らせた神経は周囲の気配と息づかいをつかみ取る。

 平均2駅。長くとも6駅程度で入れ替わる乗降客。

 ええ、そうです……私がすでに、同じ路線を三度乗り継いでいる事を知る者はもはやどこにも居ないのです。


 そして、時刻は11時15分。

 目的の駅に到着すると共に人の流れに身を任せただ溶け込む。

 平日、歩道の混雑状況は中程度、TARGETが居る目的地まで7分ジャスト。

 そこには戦いが待っています。

 そう、私にとっては久しぶりとなる戦い。そこは間違いなく心躍る戦場と…… 

 おっと、これはいけません。

 この世界に足を踏み入れて早〇年。

 名を刻んで幾年も経つというのに、心の奥底から沸き立つこの感情に浮き足立つとは。

 まるで、初めてGirlを知った少年のような劣情をこの私が催そうとは……


 BE COOL……

 BE COOL……


 はやる気持ちを抑え、ともすれば早足になりそうな感情を押し殺して到達した目的地。

 くたびれた店構えはよく言えば味があるといったところでしょうか。

 一見すれば忘れられた昭和の遺物とも言えそうなたたずまいですが、私のこの鼻孔をくすぐる香り。


 EXCELLENT!


 素晴らしい。

 正解です。

 南側に向けられた入り口は、磨りガラスですが……


 NO PROBLEM


 私を阻む要素にはなりません。


 「いらっしゃいませー、空いたカウンター席にどうぞ」


 店内に入ると同時に促され着座すると、目の前の白地のシンプルな壁崖時計は11時22分を刺していた。


 PERFECT!!


 冷静を取り戻した私の体内時計は秒針さえにも誤りはありません。

 そして、私が座ると同時にさらに混み始めた店内。

 男性客が八割、女性客が二割。

 ちまたで噂になり始めたばかりのラーメン屋は、昼休み前にもかかわらず混み始めている。

 店員はこの混雑に対応するスキルはまだ持っていないようで、慌ただしく走り回っている。


 BINGO!


 読み通りです。

 私はほくそ笑みながらカウンターに置かれた素っ気ないメニューボードを手にする。

 品数は今時にしては少ない。

 だが、それが良い。

 SIMPLEにしてBEST、余計な装飾は本来の味を見失うというものです。

 私は水を置きに来た女性に、


 ラーメン屋 大王 塩ラーメン ¥920-(税別)


 を注文する。

 さて、カウンターの奥にいるのは頑固そうな大将が一人。

 店の慌ただしさにも微動だにせず、職人気質と言った面持ち。

 出来てくる一杯に期待せずにはいられませんね。

 しかし、私はそれにただ心を躍らされて待つわけにはいきません。

 視線はメニューを確かめるふりをして辺りに走らせる。

 その間、僅か5秒。

 TRACE完了。

 配置を解説するなら、


 入り口は磨りガラス引き戸、縦190cm、横82cm。

 サイズは最近の扉と比べれば一回りは小さいが問題はありま――


 「お待たせしました!」


 おっと、私の思考を遮り元気よく運ばれてきた一杯。

 思いの外早く運ばれてきたことに驚きを覚えましたがそれはそれです。

 一期一会の関係に笑顔は不要。

 私は軽い会釈と無言でラーメンを受け取るとその出来たての味に心を躍らせるのです。

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