異国の診療所の卑屈な天使
ラース王国の広大な大地を風が撫でるように吹き抜け、深緑の草木が揺れる晴れた日。
港街はいつもと同じく多くの人で賑い、遠くの海には、商船が無数に浮かんでいるのが見える。平和で、それでいて充実した昼下がりだ。
私が訪れたのは、故郷である小さな街の、小さな村の、小さな農民の畑だ。
見ると、二人の女性が話していた。片方は老けていて、知らない顔だった。もう片方は……よく知っている女性である。
「鎌で怪我したの?」
「そうみたい……」
「なら薬草を持ってくるわ、ちょっと待ってて」
そう言って、老けた女性はどこかへと行ってしまった。どうやら、怪我をしているみたいだ。
私はすぐさま、その女性へと駆け寄った。
「怪我したの?」
「そうみたい。でも薬草を持ってきてくれるそうだから…………え?」
私は医者だから、こんな傷くらいすぐに治せる。
そしてなにより、故郷で愛する父と母に育てられた。ひねくれて、卑屈になりながらも強く生きた。ギルドでは天使と称され、死にかけた戦士を助け出したりもしたんだ。
だから、こんな傷くらいすぐに治せる。
「嘘っ……あなた、ミリ? ミリなのね……?」
「母さん、色々言わなきゃだけど。まずは、ただいま!」
私は、母に抱きついた。私の背は、すっかり母と同じ高さになっていた。それでも、私は子供だ。もう離れたりしない。
五年間も甘えられなかったんだ。これくらいは許してくれ。
母は泣いていた。私をグッと抱きしめて、小さく「おかえり」と呟いた。
……わかってる。母さんはずっと、私を愛してくれていたんだ。
喧嘩で家を飛び出したことも、今まで迷惑をかけたことも……わかってる。全部謝らないといけない。
でもその前に、もう少し泣いていい?
◇
久々の実家は、やはり少しも変わらなかった。少し寂しさを感じるくらいだろうか。
あれだけ嫌いだった、みすぼらしい農民の家だったが、今思うと温かみがある。五年ぶりなのに安心感のある、居心地の良い空間だった。
母は少しも怒らなかった。それどころか、私に頭を下げた。
「ごめんなさい、私がもっと上手に向き合ってあげれたら……」
「いや、母さんは悪くないって。むしろ、私も……ごめん」
私はしばらくの間、魔法学園や診療所での生活について話した。私の過ごした冒険のような日々を、私を助けてくれた沢山の友達の話を、サファイアのことを……全て話した。
「ミリ、あなたは本当に自慢の娘よ」
「へへ……頑張ったよ、私は」
「本当に、良く頑張ったわね……」
そして、今度は母が今までのことを話してくれた。父が何故病気になり、何故見捨てられたのか。私がいない間、どう思っていたのか。
私は静かに、母の話を聞いた。
◇
(ミリの母視点)
夫はこの村で、最も嫌われていた男だった。
基本的に、農民同士は仲がいい。それに、結束も固く、何かあった時は助け合うこともある。しかし夫は、そうではなかった。
嫌われていた主な原因は女遊びだ。村中の女性を食い荒らした果てに、最後には私と無理やり……。
絶対に言えないが、ミリはその時に産まれたのだ。
私は、産まれたこの子を死ぬまで愛すると誓った。そして、必ず「産まれてきてよかった」と思ってもらおう。そう考えたのだ。
ミリが産まれた日、夫は私に土下座した。事の重大さに気づき、もう二度とこんなことしないと言った。
それから、夫は人が変わったようだった。他の誰よりもよく働いていたし、女遊びの噂も聞かなくなった。ミリには父親らしく振る舞うようになり、育児や家事も手伝ってくれた。なので、ミリからすれば夫は、良い父親に見えたのだろう。
ミリは自分の足で立つようになり、言葉を話し、すくすくと育っていった。ミリは笑顔が素敵だったのだ。その笑顔だけが私の心の傷を癒してくれる……。
そんなある日、夫が病気で倒れた。
私は迷った。自業自得だとも思った。村の皆は罰が当たったんだと言う。私もそう思っていた。しかし、ミリは違った。私に縋り付いて、泣きじゃくる。
「ねぇ、お父さんが! 死んじゃうの……?」
私は思い出した。ミリの幸せは、私の幸せである。必ず夫の病気を治して、この子を笑顔にすると心に決めた。
その日の夜、私はミリが寝たのを確認してから、村の知り合いに頭を下げに行った。
「お願いします! あなたの魔法で夫を助けてください」
「なんでだよ、あんなにアイツを恨んでたじゃないか? むしろいい気味だろ」
この人は駄目だ。
「お願いします! 夫を助けてください」
「すまんが、アイツに関して手助けできることはない」
この人もか。
「お願いします!」
「……あの男に未練でもあるの?」
誰に聞いても答えは同じだった。夫はあまりにも嫌われていた。それでも、ミリの為にと頭を下げた。
次が最後……嫌な奴だが、回復魔法の実力はかなりのものだ。なんとかしてくれるかもしれない。
「お願いします! 夫を助けてください!」
「ふむ……お前、小さな娘が居たよな。可愛らしい」
「それがどうしたっていうの?」
「いやぁ、ちょっとでいいんだ。その子と遊ばせてくれよ……一回で良いんだ」
この男は、どうしようもないクズだった。そして、あろうことか私の愛するミリをそういう目で見ていたのだ。
「金でもまぁ、良いけどよ。金貨三枚だな」
「……」
金貨三枚、私達の生活ではとても無理な金額だ。いや、こんな奴のことなんか信用できない……!
「で、ちゃんと金は払えるのか? それとも諦めて身体を売るか?」
「……」
私は泣きながらその場を去った。ミリの身体を売ることなんて絶対にしない。
間もなく、夫は死んだ。
ミリは号泣し、暴れ回った。家の物を壊し、そして最後にはうずくまった。その時私は何もできなかった。私は無力だったのだ。
物を壊して怪我をしてしまったミリを、薬草で治療しながら泣いた。
血だらけになったその手は、まだ子供の手だ。けれど、ミリは子供みたいに無邪気に笑わなくなってしまった。その先もずっと。
どうにかしてミリを元気にしようと考えたが、何も思い浮かばない。それを気の毒に思った農民の知り合いが、私に銅貨三枚をくれた。
「たったのそれだけだが、娘さんに何か好きなものを買わせてやってくれ」
「ありがとうございます……これでミリも、きっと元気になります」
私は家に戻り、銅貨をミリに渡した。その時、ミリはこう答えたのだ。
「これがあれば、父さんが生き返るとでも言うの?」
ミリは笑うどころか、そんなことを言った。そしてそのまま、ふらふらと街に行ってしまった。それが情けなくて、沢山泣いた。ミリが欲しかったのはお金なんかじゃない。愛情だ。
私は自分の無力さを恨むことしかできなかった。
◇
ミリはある時から勉強に没頭するようになった。朝から庭に出て庭でずっと、私ですら読めないような難しい本を読んでいる。
理解できているのかは分からないが、きっと楽しんではいる。木の枝で地面に文字を書いて、しばらく考えて、それを消す。そしてまた書く。本当はペンや紙をを買ってあげたいのに……。
そんなある日、家に猫が来た。黒猫のサファイアだ。
なんと、サファイアの姿を見るとミリは笑うのだ。何年も閉ざした笑顔を、彼女は私に見せてくれた。しかし、ミリは「この猫を飼わせて!」とは言わなかった。その代わり悲しそうな顔で、サファイアに囁いた。
「サファイア、君はここにいちゃいけないんだよ…………」
私は思わず嘘をついた。
「そんなことないわ、猫一匹買うくらい平気よ」
「ほんと! なら飼う! ねぇサファイア、お前をうちで飼っていいんだって!」
そして、サファイアには可愛くなって欲しいと、私が大切にしていた真っ赤な宝石を首輪にしてプレゼントした。
その数日後だろうか。魔法学園から手紙が届いたのは。
◇
「私は必ず医者になって、大金を稼いでここに送るからね!」
────その言葉が、何度もよぎり、眠れない夜もあった。
ミリが旅立ってから、五年の月日が流れた。
あの子は元気にやってるだろうか、友達は作れただろうか、勉強は楽しめているだろうか。心配で手紙を何度も出したが、一度も帰って来なかった。
五年経っても帰ってこない。
私はきっと、駄目な母親だったんだ……そう自覚せざるを得なかった。
そんなミリの噂は、私の元まで届いた。
史上最年少で魔法学園に推薦入学した少女がいる。その少女は、僅か二年で医者になった。その後、海を渡って危険な土地で医者として働いているという。
正直、信じられない。嘘かとも思った。よくできた作り話と、ミリを勘違していたのではないかと。しかし、多くの旅人が、同じようなことを口にした。
「その少女の名前は? その少女は何という名前ですか?」
「確か……ミリとか言ったっけ? 可愛い子らしいぜ」
旅人に聞くと、皆口々にミリの噂話をした。ギルドでは天使と呼ばれ、崇められ、そして親しまれていたという。
私の力なんて、必要なかった。たまたま農民の家に産まれ、たまたま私の娘だっただけで……。
彼女は天使と呼ばれ、多くの人を助けている。今もずっと。
◇
ある日、突然ミリが帰ってきた。
見違える程に大人になっていて、背も随分と伸びた。五年越しに見る娘は、噂に聞く天使そのものだった。
しかも私の手についた切り傷を、三秒足らずで元通りにしたのだ。どこからどこまでが現実なのか、私は信じられないままミリを抱きしめた。
「嘘っ……あなた、ミリ? ミリなのね……?」
「母さん、色々言わなきゃだけど……まずは、ただいま!」
腕の中にいたミリは、あの日に戻ったかのようだった。あの日の、小さくて可愛らしい娘のままだった。
そして愛する、私だけの天使だ────。
◇
ここまで私が体験したことを全て話した。それをミリは、真剣に聞いてくれていた。きっと、聞きたくないような話もあっただろう。それでも、嫌そうな顔はしなかった。
そして、一通り話し終えた時にミリが切り出した。
「ねぇ、母さん。これを見てほしいんだけど……」
彼女がカバンに入っていた袋を取り出したとき、私はヒヤッとした。中には、目が眩むような数の金貨が入っていたのだ。
「ミリ、もう私にお金は……」
「ううん、そうじゃない。豪邸も建てないし、農民を見返したりもしない。ただ、今から一緒に買い物にでも……どう?」
ミリに手を引かれて、私は滅多に行かない街へと出向くことになった。街は、いつも通り賑わっていて、大人になっても高揚する素敵な場所だ。まずは、彼女に言われて高級そうな食事処へ立ち寄った。
「母さん、私が奢るから安心してね」
「ちょっと、流石に申し訳ないんだけど……」
「大丈夫、五年ぶりに会ったんだから親孝行させてよ」
「本当にいいのかしら」
その店の料理は、今までで食べた食事の中で一番美味しかった。高級だからではない、目の前にミリがいるからだ。私は、幸せすぎるあまり、夢ではないかと何度も疑った。
次に、宝石店に連れて行かれた。ミリは店内に並べられた高価な石を眺めながら嬉しそうに言った。
「何か記念に買っていこう」
「何かって……そんな、あなたのお金なんだから自分が使いたいことに使いなさい」
「これが私にとっての使いたいことだよ」
私は何度も断っが、ミリは折れなかった。何度も説得されて、ようやく私の方が折れた。ミリがこれだけ言ってくれているんだ。断り続けるのも失礼だろう。
そして、ミリが店員に聞いた。
「魔石はありますか?」
「はい、こちらに」
見るも、大小さまざまの赤い宝石が並べられているコーナーがあった。どれも高価で、見ているだけで鳥肌が立ちそうだ。そしてミリは、防犯のための仰々しい魔法陣の上にある、木箱に入った大きな魔石を指さした。
「じゃあこれを」
「かしこまりました」
厳重な木箱の中では私に見合わないほどの、大きくて真っ赤な宝石が輝いていた。ミリがくれた贈り物は、全て私の一生の宝物だ。もちろんこれも……大切にしよう。
その後、ミリは仕事が忙しいといって帰ってしまった。もちろん、止めたりはしなかった。寂しい気持ちもあったが、また一年もすれば帰ってくるとのことだ。
そして、別れ際にミリは言った。
「母さん、私ね。生まれてきてよかった」
その瞬間、私の中の全てが報われた。あれだけ苦痛だった五年間も、全て無かったかのように……ミリがくれた笑顔が眩しすぎて、私はまた泣いた。
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