暗い森

 それから、私はすぐに仕事に戻った。ロミーナは不安だと言ったが、私は大丈夫だ。次の日からは淡々と仕事をこなした。いつも通りに。


 私はあれから、心を入れ替えたのだ。まぁ、その入れ替えた心は空っぽだったのだがな。

 サファイアがいなければ、今の私は無かった。同時に、サファイアがいなくなってから、もう「私はいない」のだ。


 診療所にやってきたロミーナは、やはり心配そうにしていた。私の表情や仕草をまじまじと見つめて、こう言った。


「ミリはきっと心の病気なんだよ。ちゃんと治さないと」


 心の病気を治す? どうやって?

 突如として現れた天才エリート医師が、最強の治癒魔術で治してくれるってか……? そんなわけないだろ。


「ロミーナ、怪我してないなら来ないでくれないか? 仕事の邪魔だぞ」

「えっ……? でもさ、今日は────」

「いいから出ていけよ」


 私は、ロミーナが何か言い出す前にとっとと追い出した。アイツはうるさいからな。ここにいられたら困る。


 診療所はまた、静かになった。それでも、何も感じない。寂しいとか、暇だとか、くだらない感情は消えた。

 ふと、机の上に目をやると、袋いっぱいの金貨が目についた。手を伸ばし、それに触れても何も感じなかった。心は満たされなかった。私は、ずっとこれのために頑張ってきた。これがこの世の全てだと……でも、結局世の中は金で買えないものばかりだった。


 ここにいると、正気ではいられない気がして、私は袋一杯の金貨をそこらにぶちまけた。そして、すぐさま診療所を飛び出す。

 


 全てどうでもよくなってしまった。私の集めた大切な金貨では、サファイアを生き返らせることができないらしい。それどころか、私を不快にする……。


 そして、森へ向かった。もちろん仕事は放ったらかしだ。私の心とは裏腹に、よく晴れた空が眩しくて鬱陶しい。昨日までの雨は嘘みたいだ。高い太陽は、私を見下しているようにも思えた。私は、光から逃げるようにして走った。



 血みどろの男が診療所に来て、「あれ?」と一言。そして、皆で便利な農民Aを探す。しかし、彼女はどこにもいなかった。困ったギルドの人たちは、大金を積んで新たな医者を雇う……。

 私はそんな想像をしながら、ふらふらと森へ立ち入った。森は薄暗く、不気味だった。やけに静かで、怪しげな香りのする奇妙な場所だった。でも、怖くない。


 すると、奥の茂みがガサガサと揺れた。恐らく魔物だろう。向こうも私を認識したのか、こっちに近寄ってくるのがわかった。そして、その魔物の姿を見た。


 魔物Aは、意外にもキュートだった。

 体長約四メートル。全身に毛の生えた獣のような魔物だった。耳がピンと立っており、牙はびっしり。そしてなりよりフワフワの尻尾がついていた。

 人を食べるのにピッタリな牙もついているな……。


 私はしばらくその魔物を眺めていた。が、突如、ソイツが私に飛びかかってきた。勢いよく地面に叩きつけられた私は、重くのしかかる魔物の重さで正気に戻った。


 さっきまで眼の前にいたキュートな生き物は、いつのまにか凶暴な魔物に変わっていた。いや、最初からそうだったのだ。

 魔物なら、人を襲う。魔物なら、私を殺す。


 そして、その大きな前足で私を引っ掻いた。鋭く、大きな爪。それは獲物を仕留めるための武器だった。背を向けた私は、それを避けようと試みたものの、背中に傷を受けた。

 何も感じなくなったはずなのに、背中から伝わる痛みは鮮明だった。地面に倒れると、周囲に血が飛び散る音が聞こえる。固く冷たい地面の上で私は思った。


 みんなこんな痛み、よく平気だったな。だって、息ができないから……。


 背後から、魔物の足音が聞こえた。一歩、また一歩と近づいてくる。私を殺そうとしていることが、殺気となって背中越しに伝わった。

 ……私の人生も、ここで終わりか。


 せめて金貨を送れば良かったな。診療所にまき散らしたあの金貨、全部母に送れば……そうすれば、喜ぶかな? そうすれば母さんは嬉しい?


 違うな……。


 認められたかっただけなんだ。そして、誇って欲しかったんだ。哀れで貧乏な農民でも、この子はすごいんだぞ! と。


 そして、あわよくば小さな私を抱き上げてほしかったんだ。そのままずっと、優しく語りかけて欲しかった。

 弱くて脆い、小さな私を守って欲しかったんだ。金なんていらない。私が欲しかったのは…………。


 あの日、別れ際になんて言ったっけ? 酷いことを言ったのは覚えている。


 母の顔は、寂しそうだったな。


 思えば母は、いつもボロ布でできた服を着ていたな。けど、私にいつも新品の服をくれた。母さんが食べる食事は、半分サファイアにあげていた。サファイアの首飾りは、きっと高価なものだった。でも、母は泣き言一つ言わなかった。


 私は、人助けして手に入った給料で高い服を買ったよ。せめて、このローブ姿でもう一度会いたかったな。


 ……会えるかな。


 ハッとした。みんな、私に何かをくれたんだ。四冊の本、温かいパン、マフラー、優しさ……。


 今度は私が返さないと。まだその分が残っている。私は天使と呼ばれていた! 卑屈でクソガキだけど、人を助けるという使命がある。


 背中の傷を、急いでヒールした。


 私の魔力でも、傷を完全に塞ぐ事はできなかったが、応急処置にはなっただろう。そして、すぐさま魔物に背を向けて走り出す。生きよう、無様でもいいから!


 しかし、そこで私は気がついた。先程の魔物は一体じゃないということ……数多くの群れに囲まれているということを。数にして十数体ほどだろうか。私を食い殺そうと狙っている。走っても逃げれない。戦ってもきっと勝てない……。


 私は咄嗟に、草魔法を使って自分を囲んだ。森の木々の力を借りて、強固な壁を作り出す。これで安全か……そう思ったが、周囲から、魔物がその壁を食い破ろうとする音が聞こえた。全方位から、一斉に響くその音に恐怖する。じきにこの壁は破られるぞ。


 ……私は叫んだ。惨めだが、それでも叫んだ。「助けてくれ」と、何度も何度も叫んだ。誰でもいい、ロミーナでもエリカでも、ギルドの誰かでも……私を助けてくれ!


 かつて、同じように誰彼構わず助けを求めた哀れな人がいたな。結局、その人を誰も助けてくれなかった。だから、父は死んだ。


 それでも、私は信じて叫んだ。


 誰か、私を…………。



(ロミーナ視点)


 ミリに診療所を追い出された私は、途方に暮れていた。今まで、彼女が私に「出ていけ」と言ったことなどなかった。少し嫌そうな顔をすることはあったが……。

 正直ショックだった。そして悩んでいた。


 診療所に行ったのは、もちろん私用でもあるが、別の理由もあったのだ。今日は、森にいる魔物が活性化する、冒険者でも近づかないほどに危険な日なのだ。活性化した魔物は、普段よりもより強く凶暴になっており、森に近づいただけでも命の危険が伴う。

 私は、森に入るなとミリに伝えるために、診療所に行ったのだった。とはいえ、彼女が自ら森に出向いたことなどないので、大丈夫だとは思うが……。


 しかし、先日のサファイアの件もある。心配になったので、それを会いに行く口実にして、また診療所に向かうことにした。もう一度追い出されたらその時は一人で泣こう。



 私は、診療所の扉を小さくノックした。返事がないのはいつものことだ。扉を開け部屋に入ると、そこにミリの気配は無かった。背筋がヒヤリとする感覚を覚える。心臓が変に鼓動を速め、手に汗がにじんだ。嫌な予感がして、机の上を見ると、周囲には金貨が散らばっていた。間違いない、何かあったんだ。


 私は、診療所を出ていく足跡を確認した。ぬかるんだ地面のおかげで、誰がどこを歩いたのかをよく認識できる。一つは、ここへ来るときの私のもの。もう一つは、ここから去ったときの私のもの……そして、もう一つは、森へと向かう小さな足跡だった。

 ここで確信した。ミリは森へ向かったのだ。それも一人で。


 私は慌てて追いかけようとするも、踏みとどまった。活性化した森に一人で立ち入るのは無謀すぎる。たとえ私でも、命を落としかねない。でも、ギルドのみんながいれば……話は違う。

 すぐさまギルドへと走り出した。走りながら大声で叫ぶ。


「みんな、ギルドに集まって! ミリがいないんだ!」


 私は、ひたすらに叫んだ。大切な医者で、親友の彼女を失うなんて考えられない。絶対にみんなで助ける! 私はそう心に決めた。



 ギルドに着くと、机の上に立ち、皆に呼びかけた。丁度、森に入れなくて暇な冒険者が沢山集まっている。そして、彼らの視線は私に向けられた。


「みんな、聞いて! さっき診療所に行ったら、ミリの姿がなかったんだ……足跡は森へと向かっていた」


 周囲がざわつく。


「ミリさんが……? 何故森なんかに。それもこのタイミングで」

「危険じゃないのか」

「診療所から出ることすら少ないのに……最近不調そうではあったが」


 私は続けた。


「ミリを助けに行こう! このままだと、活性化した魔物に……殺されるかもしれない!」


 しかし、それぞれの冒険者達は、口々に不満を述べ始めた。


「今の森は危険だぞ? 行って帰ってこれるかどうか」

「俺たちですら命の危険が伴う場所だ、もしかしたらミリさんは……」


 私は、もっと大声で叫んだ。


「お前らの身体は、ミリさんのおかげで形を保っているんだぞ! 毎日のように戦えているのは、全てミリさんがいるからだ!」

「そうだ!」


 同意したのはエリカだった。私と同じように、机の上に立ち、皆を説得する。


「私達はミリさん無しでは戦えない! だから助けるんだ、みんなで!」


 すると、一人の男が声を上げた。


「何を勘違いしている? 二人とも。俺たちはハナからそのつもりだった」

「あぁ、ミリさん救出は確かに危険だ。でも全員で行けば問題ないだろう」

「もし怪我したなら、ミリさんに治してもらえばいいさ」


 冒険者達は、一斉に立ち上がった。休んでいた者も、剣を研いでいた者も、酒を飲んでいた者も……皆立ち上がった。今行くから待っててね、ミリ。


 私は剣を抜き、天井へと掲げる。


「ミリ救出作戦を開始する! お前ら、行くぞ!」


 私の声に、ギルドにいた多くの戦士たちが声を上げた。


 皆を引き連れてギルドから出ると、さらに数十人の仲間が待機していた。街中の戦士たちが、ミリ救出のために立ち上がったのだ。身体が震えるのを感じた。こうしてはいられない、助けに行くんだ。絶対に、ミリと一緒に帰るんだ!

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