旅立ちの瞬間
面接から数週間が経ったある日のことだ。
私がサファイアを撫でていると、母が大慌てで駆け寄ってきた。手には、魔法学園から送られてきた手紙を持っていた。既に開封して内容を読んだのか、珍しく動揺している。
「ミリ、ねぇ! これは? これはどういう……!」
「母さん、少し落ち着いて。合格だったってだけ」
「そう書いてあって、しかも明後日には出発って書いてあるわよ! 寮生活って」
「うん。まぁ、そうみたい」
すると母さんは、いつもより強く私を抱きしめた。私も、もちろん抵抗はしなかった。
「ミリ、あなたは本当に自慢の娘だわ……だからこそ、いなくなるのが寂しいわね」
「そう言うと思ったから、ずっと黙ってたんだけど……ごめんなさい。急な話になって」
「いいのよ。その代わり、沢山学んで、沢山楽しいこともしなさい。それで、たまにでいいからまた帰ってきてね」
「気が早いってば。出発までにやることも沢山あるから。じゃあ、準備してくるね」
私は自分の部屋に行き、小さなボロボロのカバンに、数少ない荷物と四冊の本を詰め込んだ。このカバンは、他の子たちと比べてみっともないから嫌いだった。でも、破れても破れても、母が縫ってくれればまた使えるようになる。
私がずっと当たり前に感じていた母の存在は、実は特別だったんだな。
明後日になるまでは、存分に甘えよう。
◇
「ジジイ、明日出発だってさ」
「まずはこんにちは、でしょう? そうかい、とうとう明日に迫ったんだね」
「クラリスは?」
「悲しいから会わないと言っていたよ。せっかく来てくれたのにすまないね」
「いや、それもクラリスらしいよ」
私はまた、ジジイの古本屋まで来ていた。ココアを飲みながら、静かな本屋の雰囲気に浸る。ここに来るのも、これで最後だ。
「私さ、魔法学園に行ったら医者になれるかな?」
「なれるとも。君は口調こそ荒いけど、真面目で才能もあって、何より目標がある。君を阻むものはなにもないよ」
「そうかな……そうだといいな」
視界がぼやけるのを感じ、私はすぐさま立ち上がった。
「じゃあその……帰るから」
「もう行くのかい? 寂しくなるね」
「でも、私には目標があるから! 行かなきゃ。だからその……あ、えっと」
「ありがとう」が言えなかった。こんな時でさえ、私は薄情なクソガキなんだな。礼の一つも上手く言えないなんて。
「わかってるよ、じゃあね。ミリ」
「……もし、立派な医者になったらまた来るから。待ってろよ、ジジイ」
「そうだね、待ってるからね」
そして私は、大きく息を吸って言い放った。
「クラリス! また会おうな!」
返事は帰って来なかったが、絶対に聞こえているという確信はあった。アイツはそういうヤツだ。
私はゆっくりと、店を出た。そして、ボロい木の扉に向かって小さく「ありがとう」とつぶやいた。
私の人生を変えてくれたのは、間違いなくあの人だ。最後まで名前で呼べなかったけれど、お礼すらろくにしなかったけれど、次に会う時は……きっと。
◇
出発の日、私は母の腕の中にいた。母は柄にもなく号泣しながら、私の名前を何度も呼んでいた。
本当は、娘に行って欲しくなんかないはずだ。子供の私でも、その気持ちは理解できる。でも、母さんは決して「行かないで」とは言わなかった。ただ、「寂しくなる」とだけ。
それと、サファイアのために首輪を用意してくれた。赤くて綺麗な石がついた、豪華なものだ。きっと奮発したのだろう。
魔法学園までは遠い。それに、勉強も忙しくなるだろう。よって、しばらく母には会えない。そりゃあ私だって寂しい。けど、いずれは顔を出すし、向こうは忙しいだろう。すぐに慣れるさ。
なんて思ってはいるものの、やはり涙は流れる。
母はとても嬉しそうだった。きっと誇らしいと思ってくれているはずだ。ずっと暗い顔をした母しか見ていなかったから、私も嬉しい。
……あ、そうだ。母さんがもっと嬉しくなるように約束をしよう。
「ねぇ母さん」
「どうしたの? ミリ」
「私は必ず医者になって、大金を稼いでここに送るからね!」
「……え?」
「そしたら、父さんを馬鹿にした奴らの家からよーく見えるような大きな豪邸を立てよう!」
私は、死んだ目で言った。
卑屈で恩知らずなクソガキは、この世の心理を的確に突いたつもりだった。的を得た皮肉で、母を安心させたと思った。本気で喜んでくれると思っていた。
私、頑張るよ! 待っててね、五年もすればみすぼらしい農民生活も終わるから!
……しかし母の笑顔は消えた。
「ミリ……何を言っているの? あなた、そんなことで魔法学園に?」
なんで? なんで?
私は最初からそのために頑張ってたんだよ?
だってお金が必要でしょう。奴らを見返すんでしょう。そのために医者になるんだよ? そのために今までずっと……!
「……ミリ?」
「そんなこと? 今『そんなこと』って言った!? 私の目標を馬鹿にしたよね!」
「ミリ、落ち着いて……」
私は、力いっぱい母の肩を掴んだ。痩せた細いその身体は、私の力でも容易に押し倒すことができた。そして、大声で叫ぶ。
「母さんにとって、父さんは『そんなこと』だったの? 今やっと分かった! 母さんが、身体を売って父さんを助けなかった本当の理由が!」
「…………」
「…………ッ!」
私はサファイアと荷物を抱きかかえ、そのまま走って魔法学園行きの馬車に乗った。
絶対に、もうこんな家には帰ってやらない。母さんなんて、一生農民として暮せばいいんだ。もう知らない。豪邸だって建ててやらない……だから、もう帰らない。
私は馬車に揺られながら、沢山泣いた。沢山後悔した。サファイアの温もりに縋らなければ、どうにかなっていただろう。
夢への第一歩は、地獄への入口のようにすら感じていた。
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