エピローグ
五月二十六日、日曜日。
佐藤の母親は、亡くなっていた。
覚悟はしていたという佐藤は涙を見せるでもなく郁にそう報告をした。バイクを延々と走らせたあの日、遠回りも遠回り、郁は嘘八百を言って佐藤を一時間も振り回した。初めて門限を破ったが、怒ったのは叔父ではなく、佐藤だった。一応反省はしている。
昨日は佐藤は仕事だったが、珍しく日曜が休みとの事、思い切り我儘を言って、七時に呼び出した。
まだ眠そうな佐藤は珍しく珈琲を注文し、頬杖をつきながら欠伸を漏らす。シロップを大量に入れる辺りは、やはり子供舌だ。
「相手にさー、合わせるってかなり大事だと思う訳よ」
「合わせるよー?」
「俺まだ眠い」
きっぱりと言う佐藤に、郁は携帯の画面を向ける。
「付き合ってくれるなら合わせますとも。申し訳ないけど、今の私には時間がないのー。ほらほら、電話番号、教えて?」
「嫌ですー」
ぽてっと、佐藤は机に頭を預けるようにして言う。
昨日、伊藤の試合は見に行かなかった。あれきり伊藤からの連絡もなく、待ち伏せられるような事も今のところはない。明日からがどうなるかな、と心許無くは思うが、自力で何とかするほかない。
「そんなに眠いなら、家デートは? 佐藤君家、どこどこ?」
「却下。男をなんだと思ってんの?」
「狼」
「分かってんなら言わないで。この前まで君が禁止禁止言ってた事でしょ」
怒られた。頬杖をつく佐藤をちらちらと見ながら、郁は問う。
「佐藤君は、写真ってどう?」
「どうって?」
「嫌い? 撮られるの」
ああ、と佐藤は眠そうに一度、目を閉じる。
「無言で撮られたくはないよね」
「撮って良い?」
「今?」
佐藤はぱちっと目を開き、郁を見る。目が合っただけでどきっとする程度には、郁は既に佐藤にぞっこんである。
「うーん。……嫌かな」
そっか、と郁は引き下がる。郁も苦手である為、気持ちは分かる。
「君って、引くところは引いてくれるよね。いいところだと思う」
ぱっと目を輝かせた郁を制するように、佐藤は先に言う。
「付き合わないよ」
流石にそう簡単にはいかないかと郁は肩を竦めた。
「相手を好きになると皆ストーカーになるものなのね」
「……は?」
「今何してるか知りたいし、家だって知りたいし、電話番号だって知りたい。食べたもの知りたい」
禁止だなんて酷な話よね、と郁は歴代の彼氏に心の底からの謝罪をする。郁が、浅はかだった。
「佐藤君も、知りたくない? なんでも答えるよ」
「ストーカー宣言かまして来るとか、君ほんと、もて慣れてるんだね」
「ん?」
「嫌われるとか、思わない人の発言」
「え。佐藤君に嫌われたら死ねるけど」
「……どうしちゃったの君。中身変わった?」
佐藤は何でなんだ、と額をこつんと机に打ち付ける。
「強いて言うなら、開き直った?」
えへへと笑う郁に、佐藤は胡乱な目を向け、心底不思議そうに言う。
「歴代彼氏が何人いるのか知らないけど、俺のどこが勝ったのか不思議でしょうがない。これ本当に。俺中卒だよ? なんか騙されてんのかなって正直思ってる」
んー、と郁は首を傾げる。何がと言われると正直分からない。
「佐藤君には、触れたいって思ったんだよね。この人なら甘えさせてくれるかなって」
「みんな甘やかしてくれるでしょうよ。君可愛いんだから」
「本当の意味で合そうとしてくれるというか! 嫌がらずに、面倒に思わずに、疎んじずにちゃんと話を聞いて、考えて、嫌なところ全部ひっくるめて、あ、」
「あ?」
頬杖をついてこちらを目だけで見上げる佐藤に、郁は頬に熱を与えながらしおしおと、ヒートアップした言葉尻を窄め小さく言う。
「……嫌なところ全部、あ、いして、くれそうかなって」
ぎょっとしたような目を剥いて、佐藤は珍しく赤くなる。自分も頬が熱い自覚はあるが、恥ずかしさより物珍しさが勝って郁は目を見張る。
「あ、照れたー」
「……それは、ずるいって」
「佐藤君だって、満更じゃないでしょ。アプリ消さなかったんだから! そうでしょ?」
詰め寄る郁に、佐藤は頬を冷ますように手で仰ぎながら、目を泳がせる。
「あー、それ。……消し方が、分からんかった」
「え」
「アプリダウンロードはするけど、消す事なんてないじゃん。増えて困るもんでなし。消した事ないから、分からなかった」
「冗談でしょ」
いやほんと、と佐藤は苦く笑う。
「調べて消しゃ良かったのかも知れないけど、別にそこまでしなくてもどうせもう連絡来ないんだしって放っておいたら、なんか、来るからさ。ご飯がどうとか」
「どんな気持ちで見てたの、それ」
今度は郁が胡乱な目を向ける。佐藤はしどろもどろに、ちみちみと珈琲を啜った。
「意味不明だったかな、正直。別れたのになんのつもりかなーなんて」
「何で大将公園には助けに来てくれたわけ」
じろりと睨む郁は、呆れ返って徐々に怒りが沸いてきた。蛇に睨まれた蛙のように、佐藤は苦く笑う。
「いや、それは、碌な事にならない予感があったと言いますか。実際、碌な目に遭ってなかったでしょ」
「助けに来た責任は取ってもらわないとねぇ。なにそれ、なにそれ! 気をもたせた責任、取って貰うんだから! 気のない女助けに来たりしたら駄目なのよ! てか、助けになんて来ないでしょ普通!?」
ひえっと身を引く佐藤に、郁は畳み掛ける。
「気があるのよ、私に! 気があるから助けに来たの!! 認めて楽になんなさい」
「……んー」
この期に及んで佐藤は認めないが、そういう事に違いないと郁などは思う。完全に気のなくなった相手からのメールを読むだろうか。郁が大将公園にいると佐藤に送った時、彼がどこにいたのかは知らない。だが、直ぐにメールを見て、ぎょっとして、直ぐにバイクを出してくれたに違いないと郁は思う。時間的に悠長にお茶を啜ってから来た訳ではない。絶対に、ない。
「佐藤、くん」
「……はい?」
「貴方はもう、結城郁に心を奪われつつあります。あー、知ってます知ってます。これが恋かしら? って首を傾げる気持ち、それちょっと前に私経験したから知ってます。それ、間違いなく恋なんですよ」
「……はあ」
佐藤は可笑しそうに表情を緩める。微笑みながらことんと首を傾げ、頬杖をついたまま行くを見つめる目に一瞬言葉を失いながらも、郁はこほんと咳払いをして続けた。
「えー、と。ですから、貴方は私と付き合うべきです。三日が期限だからなんて言ってたら、後悔しますよ」
「後悔した訳ですか、結城郁さんは」
ふふと笑われて、郁は赤くなる。
「……佐藤君なら、別に、メールが短くても怒らない」
「うん?」
「さっさと会話を打ち切りたいのが見え見えの、ばっさりメールが来ても、許せる」
「うん」
佐藤はばれてるんだ、と苦く笑って聞いている。
「本当はもう少し長いメールがいいなーとは思うけど、許せるの」
郁は口を尖らせ、視線を逸らす。そう真っ直ぐに見られると、流石に恥ずかしい。
「こちらは合わせる準備万端なんで、そちらも準備出来たら、……教えて、下さい」
「合わせますよー明日まで、君は俺の恋人ですから」
ガタンと、佐藤は立ち上がる。
目線を上げる郁に、佐藤は伝票を持ってにやりと笑う。
「奢りましょうか、結城郁さん?」
郁は言葉を飲む。いつかもう一度聞くと言われた事を昨日のことのように思い出し、それを佐藤が覚えていてくれた事に感動すら覚える。
あの時の郁は、答えを出せなかった。郁が勝手に買って行ったコンビニおにぎりなどの差し入れにあたっても、佐藤は郁に奢らせなかった。あの日ポケットに入れられた千円札は、奢り、奢られる事を厭う郁を理解した佐藤の、食べた分の返金であったのだと理解している。
郁は、立ち上がる。
郁が飲んだ珈琲は、四百八十円。
「奢って貰ってもいい?」
問うと佐藤は微笑んだまま、「ん」と更に目を細めて笑う。
「次は私に出させて?」
「ほう。そのパターンね」
会計に向かいながらやはり笑う佐藤に、郁は続く。
「やっぱり根本的に奢られたくはない訳だ?」
「嫌?」
「いや、別に。そういう子なんだな、ってだけ」
「精一杯、代案も考えてみた」
「聞きましょう?」
斜め前を歩く佐藤の服の裾を掴み、こそりと、言う。
「……ほっぺにちゅーとか、お礼になる?」
佐藤はぴたりと足を止め、おずおずと振り返る。郁はそれに果たして佐藤が四百八十円の価値を見出すのか否か、はらはらしながら顔色を窺うようにその顔を見上げる。
「……それ、彼氏限定?」
「……当たり前でしょ」
真っ赤になった郁を真顔で見下ろしていた佐藤は、とうとう噴き出した。
「ふっ、ふふふ、……ふふふふ」
「なに」
耳まで赤い郁は、むすっと佐藤を睨め付ける。四百八十円の価値があってキスをするのも恥ずかしければ、なければないで大いに傷つく。どっちに転んでも、郁は卒倒しかねない。我ながら馬鹿な提案だ。
「いや、ごめ……ふふ、可愛い事言うなと、思って。ほっぺって! ふはっ」
何がおかしいのやら、堪えきれないとばかりに笑う佐藤の背中を、ぽんと郁は小突く。
「もう、いい! 忘れて下さいー!」
ぷんと拗ねた郁に、ごめんごめんと謝りながら、佐藤は郁に向き直ると、つい、と顔を郁の耳元に寄せる。ひゃっと心臓が一瞬止まりかけた郁に、佐藤は囁くように言う。
「出来るもんならやってみな?」
かっと、郁の血は留まるところを知らずまだ昇る。
「……お礼になると思っていいのね?」
「彼氏限定でしょ? 四百八十円、ほっぺ。ありあり。じゃあ二千円出したら、どこ?」
ん? と笑われて真っ赤になる郁の顔を隠すように、佐藤はぽんと郁の頭に小脇に挟んでいたヘルメットを被せる。
「機会は今日か明日しかないよ? 十日間の恋人さん?」
「……十日で終わらせてなんてやらない」
「明日までに参るかなぁ」
「気付いてないだけでもう参ってるんだってば」
はいはい、と佐藤は笑いながら会計に行く。
今直ぐにでも飛びついてやりたいその背中を一頻り見つめ、郁はたっと佐藤に駆け寄る。
するりと腕に手を回してみる。緊張で体が強張る郁を見下ろし、佐藤はお触り禁止、と小さく笑ったが、振り払いはしなかった。
佐藤が出したのは千円札、お釣りは四十円。
郁は奢られてしまったなとは思ったものの、存外胸は痛まない。お釣りを貰いながら佐藤がちらりと郁を見て微笑んだからだろうか、奢られたという感覚よりも強く、郁への奢ってあげたいという佐藤の気持ちが見えたような気がして込み上げた喜悦が、郁の心を大いに満たした。
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