第23話

 郁が唇を噛み締めるのと、かっと光源に閉じた瞼の裏まで眩しく顔を顰めたのが同時だったように思う。

 車のライトだろうか、何かに照らされたようだった。あまりの眩しさに伊藤の目も眩んだようで、自身の顔を覆おうと郁を掴む手が離れる。郁は目を開けぬまま、何とか逃げ出そうと、手探りに前進する。

「何だよ、眩しい!」

 伊藤も立ち上がったようで、後ろで叫ぶ声がする。必死で逃げようとする郁は、光源から逃れようと左に避ける。目を薄らと開きながら、慣れて来た目で伊藤を振り返り、光源の先を見遣る。

 車ではなく、バイクだった。暗くて分からないが、あの形は車ではない。光から逃れようとする伊藤を執拗に照らし続けた光は、くそ、と捨て台詞を吐いて走り去る伊藤を、最後まで追い続けた。ぱっと光が弱くなると同時に、小さく振動するバイクと、それに跨る人影が見えた。

「……佐藤君?」

 郁は目を細めるが、よく見えない。だがそのシルエットに覚えがあって、伊藤を追い払ってくれる可能性があるバイクに心当たりが一つしかなくて、よろり、と郁はバイクに近寄って行く。

「佐藤君」

 手を伸ばせば届きそうな程近くまで来ると、バイクのライトでライダーの顔が薄らと見えてくる。一度輪郭を掴むとそれは、もう二度と失われる事なく、はっきりと見えた。

「馬鹿なの?」

 開口一番に言われて、郁はへにゃりと泣く。

「……うん」

「誰か分からないのに寄って来るか? どうするの、全然知らない男で、バイクの後ろにでも無理やり、」

 全てを言わせず、郁は佐藤に飛びついた。げっ、と体勢を危うく崩しかけた佐藤が本気の悲鳴を上げたが、なんとかバイクごとひっくり返る事だけは回避する。

 佐藤だ。間違いなく、郁の知る佐藤。

 しがみついたまま泣く郁を仕方なくあやすように、佐藤は小さく溜め息をつきながらヘルメットを差し出して来る。

「……送る。乗って」

「スカートなんだけど」

 鼻を啜りながら言う郁に、見えんでしょ、と佐藤は素気なく言う。一応辺りを憚り、ひらりと跨る。ぎゅっと佐藤の胸に手を回して頭を預けると、心の底からの安堵が降って来る。

「……メール、見て来てくれたの?」

「絶対うまくいくわけないと思った」

「アプリ、消さなかったんだ?」

「……行くよ」

 佐藤はばつが悪そうに言って、前のめる。消さなかったんだ、と郁は呟き、その背に頬を擦り付けるようにしてくすくすと笑う。では、返事がないだけで、佐藤は郁のメールを見てくれていた訳だ。志穂曰く、大いに進展を期待が出来る心強い事実が知れた。

「いつもの駅でいい?」

 佐藤がバイクを走らせ、大通りに出る手前で聞いてくる。ううん、と郁は背中に頭を擦り付けるようにして否を知らせた。

「家まで、送って下さい」

「……どこ」

「伊藤君、あ、さっきのね?」

「うん」

「家、知ってるの。前で待ってたら、怖いから」

「あー、うん」

「教えたんじゃないからね。尾いて来たの」

「こわ」

 はは、と佐藤は笑った。やっと、笑った。

「佐藤君には、私が、教えるんだからね」

「んー?」

 バイクが走り出し、声が聞こえにくくなる。どっち、と佐藤が叫ぶ。

 右、と郁は右手の指でとんとん、と佐藤の胸を叩く。佐藤はちゃんと、右に指示機を出した。

 コンビニのある道を入り、薄暗い住宅地に入る。佐藤がスピードを落とすと、声が通りやすくなる。

「このまま真っ直ぐ?」

「んー」

 実はもう目と鼻の先だが、まだ、離れたくない。

「ずっと真っ直ぐ」

 曲がるべき道を通り過ぎ、バイクは真っ直ぐに、ゆっくりと進む。見通しが悪い住宅街、安全運転の佐藤はスピードを殺し、郁の声はクリアに佐藤に届く事だろう。

「ねぇ佐藤君」

「んー」

 特に声を張らなくても、聞こえる。辺りは閑静で、邪魔をするのはバイクの音だけだが、それも郁にとっては素敵なバックミュージックにしか聞こえない。

「好きー」

 ブロロと、バイクのスピードが更に落ちる。

 四つ角で徐行し、またゆっくりとスピードが上がる。

「返事がないな。好きー」

 郁は少しだけ、声のトーンを上げる。聞こえていない筈はないのだが、もう一度言わせる気かと、郁は楽しくなって、更に言う。

「好ー、きぃー!」

「もういい」

 ばっさりと、佐藤の背中からそこに押し当てた郁の耳に直接声が響く。

「もういいって?」

「もう、言わなくていい。聞こえた」

「付き合ってくれる?」

「俺はもう、恋人失格の筈ですけど」

 佐藤はぼそりと言う。ぼそぼそと喋るのは、照れてるのだろうか。

「あの約束はもう終わったから、次の約束をするの。また始めたいの、期限のない恋人を」

 郁は腰を浮かせると、ひょいと佐藤の肩先に顔を出して、じっと佐藤の横顔を至近距離で見つめる。

「言っとくけど、諦めないからね。絶対。うんて言ってくれるまで、このバイクは降りない」

「えー」

「言っとくけど、佐藤君が悪いよ? アプリ消さなかったのは佐藤君だし、いたいけな唇を守りに現れたのも佐藤君じゃん! なにあれ、王子じゃん! 佐藤君が悪いわぁ〜」

「まじかぁ」

 苦く笑う佐藤は、ゆっくりとバイクを止めて、くるりとこちらを振り返った。ぎょっとしたのは郁で、少しでも動いたら唇が触れる。

「本来の君の期限は、十日だったよね」

 臆する事なく話す佐藤の息がかかる。郁は息を止めて、小さく目だけで頷いた。

「じゃあ、あと三日。延長戦をしよう。俺を落とせたら、君の勝ち。落とせなかったら、今度こそアプリは消す」

 ごくりと生唾を飲み、郁は頭を引きかけ、すんでのところで堪えた。引いたら、負ける気がした。

「……私が、勝ったら?」

「付き合おう」

 目を見開く郁に、佐藤はふはっと笑った。

「条件言っていい?」

「あっ。は、い。どうぞ」

 あまりの近さに小さく震える郁の目を覗き込むようにして、佐藤は優しく囁いた。

「お触りは禁止でお願いします」

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