第22話

 振られても諦めなくて良い。

「目から鱗よ。知ってた? 志穂」

 叔父さん凄くない、と親友に自慢すべく嬉々として電話をかけた郁に、志穂は呆れた様に叫んだ。

『こちとらもっとちゃんと諦めなければならない理由があって振られたのかと思ってたわよ! なんじゃそら!? あんたふざけてんの!? まだ頑張れるくらいの感じなら、やれよ!』

 こちらも怒っているようで、殊更に口の悪い罵詈雑言が飛んだ。

「約束に縛られてたのは自分だったんだなって、思って。日にちを指定したのも私だし、お触り禁止って言ったのも私。お触り解禁したらもっとこう、アピールの仕方だってきっとあったのよ。佐藤君だって、男の子だわ」

『え、色仕掛けが通じると思ってる? その胸で』

 やめときな、と暗に促されるも、そんな事は百も承知である。

 ぺたんとした胸の郁に押し付けるものは残念ながらないが、手を繋ぐだけで、相手を意識できる事は知っている。バッグハグをさせられた郁の体験談だ。

 自分で自分の首を絞めていただけだったんだな、と郁は思う。一週間と決めなければ良かったのだし、お触り禁止と言わなければ佐藤にあんな風に、約束反故を言い訳に郁を切る術を与えずに済んだ。

『で、どうするの?』

「とりあえず、メール打つ。今打つから、見守ってて志穂」

 郁は通話をスピーカー状態にして、例のアプリを開く。伊藤からの通知が目に入ったが、ごめんなさいと心の中で謝って、それを一旦、横に置いておく。

 佐藤との最後のメールは、郁から送った『おはよう』が最後だ。それに対して佐藤からかかってきた電話が、アプリに残った最後の履歴である。

「『今、何してる』、と」

『ええ、それが初手!?』

「他に何がある?」

 郁は志穂の返事を待たずに、勢いで送信を押す。こうなったら全ては勢い、開き直りだ。

「はい送ったー。佐藤君がアプリを消してなくて、返信してあげようっていう気持ちがあれば、返事が来る!」

 当たり前の事を当たり前に言う郁に、志穂の苦笑いが聞こえた。

『返事が来たら、完全に脈ありよ』

「そう思う?」

『アプリを消さずに、しかももう一度郁と話をしようというつもりがある、ってことでしょ』

 うんうん、と郁は気をよくしつつ、返事を待った。

 結果から言えば、一晩待ったが返事はなかった。伊藤に返信をせぬ訳にもいかず、そちらの対応にも頭を悩ませていた郁は、佐藤からの返信だけに気をとられるでなく、翌日を迎える事が出来たと言える。

 伊藤とは、こうなったからにはもう付き合えない。

 約束は十日である。それを言い出した郁から十日を待たずして約束を反故にする事はしかねたが、今までの約束とは郁の心持ちが大きく違った。今までは相手を恋人になり得る人物として、接して来た。十日経って気持ちが動いていれば関係を延長して、約束のない恋人への道を進む心積もりがあって、そうなる為の努力をしようという気持ちがあった。

 だが、伊藤に対しては、もうその気持ちで臨めない。

 郁は、佐藤が好きだ。

 昨日は当たり障りのない返信をしながら悶々とどうすべきか悩んだが、一晩で、郁は答えを出した。

(怒られる覚悟で、別れる)

 そう心に決めて、郁は放課後、伊藤を呼び出すメールを打った。

 学校では話しにくい。部活は見に行けないからとカフェを指定すると、お金がかかるでしょ、と伊藤は公園を提案して来た。待ち合わせも偶には良いよねと楽しそうな伊藤のメールに罪悪感を抱きながら、郁は指定された時間で約束をする。

 朝、郁は佐藤に『おはよう。今日は仕事?』とメールを打った。昼、『何を食べてる?』とまた、打つ。

 返事は一向にないが、気にしない。伊藤との事がちゃんと片がついたら、叔父の最高なるアドバイスを有難く頂戴し、郁はあのコンビニに繰り出す予定でいる。公園とどちらにするか悩んだが、普通に考えて、待ち合わせがなければ公園など大の大人は行かない。コンビニによく立ち寄るイメージのある佐藤を待ち伏せるなら、あのローソンをおいて他に考えられなかった。

(日曜しか朝から晩まで見張れないっていうのがな)

 郁は溜息を漏らしながら、公園のベンチに腰を下ろして伊藤を待つ。

 指定された公園は、大将公園。

 目の前に小学校があり、日中は子供達で大いに賑やぐが、この時間になると誰もいない閑静な住宅地に姿を変える。

(『今、何してる? こちらは、大将公園で別れ話の為に待機中。佐藤君のせいで、十日もたなかった』)

 ぽちぽちと、郁は返って来ない事が分かっていながらメールを打ち、佐藤に送る。

 約束の期間が来て、自然消滅に近い形で別れるのとはわけが違う。きちんと、理由を説明して別れる。相手が怒っても、泣いても、どんな反応をされても郁は相手を説得しなければならない。これもまた、佐藤のせいで、新しい経験をさせて頂ける訳だ。

(緊張して来た)

 色んな事から逃げて来たんだなと、郁は暗くなった空を見つめる。

 十日と決めていれば、別れる時に揉めない。縋られても約束だからの一点張りで済むし、当初からの約束で怒り出す者もない事は想像に易い。郁は、別れ話という、こじれる可能性の極めて高い問題からもまた、逃げていたのだと知る。

 メールは、決まったアプリから。電話番号は教えない。見送りは近くの駅まで、家は教えない。

 別れてから押しかけられるリスクを回避したのだ、郁は。アプリを消せばしつこく連絡が来る事もなく、全てが終わり。最寄駅を知られた所で、多くの者が利用しているそこから家への足は付かない。

(お金の問題だって、そうだ)

 郁の性格的な問題であるのは大前提としてだが、高価な贈り物などはトラブルになりやすいと郁は知っていた。欲しいと言った訳でもない贈り物の事で、後々揉めたくない。奢った奢らないで、別れた後に精算なんて面倒も御免だった。

(全部、自分に都合の良いものだったなぁ)

 そうであるという自覚はあったが、細かな決め事一つ一つに深い意味を持たせたつもりはなかった。しかしこうして冷静に考えてみると、自分がただ、面倒ごとを避ける為だけにあったお付き合いの形であった。そんな枠の中で、本当の恋が得られる筈なんて、最初からなかったのかもしれない。

(佐藤君に出会えた事だけが、結局収穫だったのかな)

 これまでの彼氏達から学んで来たと思っていた全ては、自分の都合の良い枠の中で、相手が郁にただただ合わせてくれただけの気付きであった。自分の都合の悪い事に蓋をした、それは本当の意味での経験になったとは言えない。

「ごめん、待った?」

 はっと、郁は声のした方に顔を向ける。十九時、伊藤はきちんと時間通りに現れた。郁が早く着いただけの話だ。

「ううん、ごめんね。呼び出して」

「全然。懐かしいな、ここ、俺通ってたんだよね」

 公園の前の小学校を顎で示す伊藤は、この学区の出身らしい。

「そうなんだ」

 立ち上がろうとした郁を手で制し、伊藤は郁の横に腰を下ろす。肩が触れる程の距離ではなかったが、昨日の事があっただけに少し肩に力が入る。

「それで、どうしたの?」

 単刀直入に言われて、郁は拳を腿の上で握りしめる。何度もどう切り出すか考えたが、言うべきことは、伝えるべきことは、一つだ。

「ごめんなさい、伊藤君。別れて欲しい」

 小さく頭を下げた郁に、伊藤は困惑からか暫し言葉を失う。

「……ん? え、十日は、まだだけど」

「分かってる」

 頭を下げ続ける郁に、伊藤は無言でもって応じる。何も言わず、時折はあ、と溜息を吐き、また黙る。

 どの位そうしていたか、おそらくはせいぜいで二、三分の事のように思うが、長く長くそうして頭を下げていたように思う。

「理由は、教えて貰えるんだよね」

 低く、力ない声で言う伊藤に、郁は顔を上げる。恐る恐る、伊藤の目を見た。

「好きな人が、出来ました」

 伊藤は目に見えて苦い顔をした。

「え? 俺と付き合ってるのに、俺以外に目を向けてたって事? この十日間は、俺をちゃんと彼氏として接してくれるって話だったよね? よそ見?」

 広義で、間違いではない。頷くほかない郁の手首を、伊藤はがっと握った。ぎょっとして身を固くする郁に、伊藤は言う。

「それはないんじゃない。やっと順番が回って来たのかと思ったら、十日の約束も反故なら、付き合ってる間も俺に意識は向いてなかったってか? ちょっと舐めすぎなんじゃないの」

 ーーこの公園に、他に人がいただろうか。

 郁は、先程までずっと一人で座っていたにも関わらず、公園に誰か他の人間がいたかに意識を向けていなかった事に、ひやりとする。考え事に夢中で、周りの事など気にも留めていなかった事が、急に空寒い事実として郁の身に鉄槌を落とす。

(叫んだら、誰か来てくれるよね)

 小学校には既に教師くらいしかいなかろうが、まだ明かりがついていたように思う。また、辺りは確かに住宅地だった筈だ。郁の声は、どこかしらに届くに違いないと自分に言い聞かせる一方、届くものだろうかという不安も過る。

 伊藤がずいと、身を乗り出してくる。

「約束破ったのは、そっちだから」

 振り払えない。郁は目を見張り、振り払おうと力一杯身を引く。掴まれた腕が痛んだだけで逃げられず、反対の手首も掴まれ、郁は携帯を取り落とした。

 言葉が、出ない。

 悲鳴を、助けを、と思うのに、声が音にならない。大きく目を見開いたまま瞬きも出来ない郁は、殊更にゆっくりと近づいて来る伊藤の目に自分の顔が映り込むのを見ながら、天罰だ、と唇を噛み締める。

(今まで付き合って来た人達が、私に合わせてくれただけだったのよね)

 皆が皆、郁に合わせてくれていたただけ。郁を、傷つけないでいてくれただけ。――運が良かった、だけ。

 伊藤は悪くない、と郁は思う。

 我儘にルールを強いた郁が、我儘に自らのルールを破り、しっぺ返しを受けるだけの事だ。こうなる事を恐れてそもそも作ったルールだ。破られた今、起こるべくして起こったとさえ言って良い。

 郁は固く目を閉じ、自分の肩に顔を埋めるように精一杯首を捻る。この期に及んでも、郁の心は佐藤を呼ぶ。――残酷だな、と郁は耳にふう、とかかる伊藤の吐息にぞくりと身震いした。ぞわぞわと肌が泡立つようで、足が震えて立てる気がしない。逃げられる気が、しない。

(佐藤くんっ)

 自分のせいだと分かっていても、天罰なのだと分かっていても、それでも郁の心がただ、佐藤だけを求め叫んだ。

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