第21話
五月二十日、月曜日。
今日から郁の彼氏になる男の名は、三年五組、伊藤悟という。郁の同級生で、手紙をくれるのは初めてではない。
失恋したあの日、自転車を押して帰った郁を、叔父と志穂が待ち構えていた。郁の様子から二人は全てを察したかのような顔をしたが、郁は敢えて、「振られました」と報告をした。最高の経験をした、と二人は郁を抱きしめて、慰めてくれた。
ゴールデンウィークは、志穂と過ごした記憶しかない。彼氏との予定があったろうに、志穂は可能な限り郁を連れ出してくれたし、叔父は毎晩郁のリクエストを聞いた豪勢な晩御飯を準備した。吹っ切る事は出来なかったが、随分と救われた。
郁は気がつくと、佐藤のメールを見返していた。
何度も消そうと思って、今尚消せていない。佐藤がアプリをアンインストールしたかは、郁側からは分からなかった。当然、あれから連絡はない。
「今日から、よろしくお願いします」
郁は放課後、校門前で待ち合わせをした伊藤に頭を下げる。伊藤は真っ赤になって、こちらこそと丁寧に頭を下げた。嬉しそうに笑う伊藤を見ているとじんわりと心が和んだものだが、佐藤より背が高いな、佐藤より声が低いかも、と心の中で比べている自分がいて辟易とさせられた。
郁は連絡用のアプリのインストールを依頼する。
いつもは前の彼氏の連絡先は消すので一行しかない筈のアプリは二行になり、佐藤、伊藤の名が並んだ。胸がすん、と色を無くすようだった。
いつもと同じ約束事を端的に説明しながら、郁は伊藤と帰路につく。伊藤はサッカー部に所属しているらしく、放課後は練習がある為帰りが遅い。放課後デートに割ける時間はなさそうだなと思っていたが、是非練習を見学して行って欲しい、その後一緒に帰ろうと伊藤は言う。付き合っているのだからそうあるべきかと、郁は了承する。
「一旦、今月はもう恋人諦めたら?」
志穂は郁に恋人募集を一度止めてみてはどうかと提言した。気持ち的には同意したが、万に一つ、いや、億に一つ、郁の願いを聞き届けて佐藤がまた手紙を入れてくれやしないかと、下駄箱に小箱を置いた。
結果は日の目を見るより明らかな訳だが、一度休止したら再開のし時が分からない。今は暇を持て余す事の方が怖く、郁はこうして、伊藤と付き合う事を決めた。ぼんやりとしていると未だ、つい佐藤の事を考えてしまう。
「土曜日は試合があって。見に来れる?」
伊藤はにこにこと言う。
今日は五月二十三日、伊藤との付き合いも四日目を迎え、そろそろ彼という人柄を郁は把握しつつあった。
郁を捕まえた事を大いに喜び、周りに自慢したいタイプ。その点では佐々木と似ている。メールは怒涛のように送ってくるが、電話は今のところかかってきた事がない。メールが返ってくる喜びを知った郁は極力早めに返事をするよう心がけたが、チャット宜しく、とにかく長い。
それが苦痛に感じる時点でどうなんだ、と自分に問いかけこそしたものの、佐藤と比べてはいけないと自分を叱咤する。長時間が過ぎると面倒にこそなれ、話が詰まらない訳ではなかった。幸いなことにサッカー部は朝練もある。朝が早い事もあって、メールからの解放も日を跨ぐ事はない。
「どこであるの?」
「電車で直ぐ」
「行くね。何時?」
「やったぁ! 俺達は八時には入るけど、試合は昼だから」
八時に来てくれ、とは伊藤は言わない。十分郁を思い遣ってくれているなと思う。
サッカーをしている時の伊藤は楽しそうで、スタメンである事もあってか郁に良いところを見せようとする姿が微笑ましい。少しお調子者のきらいはあったが、げんなりさせられるような事はなかった。
強いて言えば、伊藤は「お触り禁止」の約束を絶妙に破ってくる事が多い。即約束違反を問う程露骨ではないが、人前であると特に、郁を自分のものとアピールするが如く、手を握ってくるような事は度々あった。嗜めると謝ってくれるので、如何とも言い難い。
「じゃあ、ここで」
郁は、近くのコンビニ前で伊藤と別れる。
最寄駅がこれまでの主流であったのだが、あそこはどうしても、佐藤を思い出す。気持ち遠いが、郁はこの伊藤なる彼氏を得てから、送りたいと言ってくれる時にはこのコンビニを指定するようになっていた。郁が差し出した手に、伊藤は鞄を返す。必要ないと言っても持ちたいと言ってくれる伊藤にいつも鞄を預けるのだが、手ぶらで歩くのはやはり気が引けた。何度か不要だと言ってみたのだが、持ちたいのだと頑なに言われて断る事の方に疲れてしまった。
伊藤と別れる時、彼が見えなくなるまで見送る。
その方角には嫌という程覚えがあって、佐藤が生活する地域がある。全く用がないので郁などは佐藤に出会うまで寄り付きもしなかったが、実際、何度もすれ違っていてもおかしくない程近くに、佐藤は住んでいる筈だ。自転車で十五分、直ぐに、会える距離だ。
伊藤を見送り、郁は自宅への道を歩き始める。
あれから郁は、佐藤が出現すると思しき方面へ向かう事を避けている。元々郁にとって用がなければ行くような場所ではないだけに、敢えて足を向けなければ避けるのは容易であっった。
(佐藤君は、先に歩き出すんだよなぁ)
郁は伊藤と歩いた帰り道を思い出し、やはり佐藤の事を思い出す。
佐藤と離れてから、否、伊藤と付き合い始めてから一つ、気が付いた事がある。伊藤はいつも郁を待ち、並んで歩き始めようとしてくれる。隣を歩こうとしてくれて、歩速を合わせてくれる。佐藤はどうだったかとぼんやり思い出し気が付いたのだが、佐藤は必ず、信号などで一度足を止めると先に歩き始めた。郁がその背を追うと以後は並んで歩いてくれるのだが、まず、佐藤は先に歩き出す。
(あれ、車道側を歩いてくれるためだったんだな)
郁が車道側を歩いている時には、追い抜いて入れ替わる。そうでない場合はそのまま、どちらにしても先に出るが、数歩で振り返って郁を待ってくれた。細やかな気配りをくれていた事はかろうじて気がついたものだったが、入れ替わったり、角から何か飛び出して来ないか見てくれるために先に歩き出していたんだなと、やっと今更気が付いた。
(やる事がさりげなさ過ぎる)
ポロン、と携帯が鳴る。
画面を見ると、伊藤の文字の横に赤く通知一件の表示があるが、嫌でも「佐藤」の文字が目に入った。
(……消すか)
そう何度も思いながら、今のところ成功はしていない。
(『試合の時、私服見れるの楽しみ』)
(『どういうのが好き?』)
(『可愛いの、女の子らしい』)
ワンピースあたりかな、と思いながら、バイクに跨った時の自分を思い出し、郁は頭を大きく振った。
(あー駄目だ、駄目だこれは。忘れるったら忘れる!)
自分を振った男だ、勉強はさせて貰ったが、忘れて先に進むが最も建設的、その為に伊藤という彼氏がいる。
(消せ、消せ自分!)
郁は写真アプリを起動し、佐藤が送ってきた写真を選ぶ。チェックを入れて、ゴミ箱のボタンに指を向ける。
押せ、押せと自分に言い聞かせながらそれが出来ぬうちに、自宅に到着した。
「へえ、ここ?」
後ろから話しかけられて、郁はぎくりと振り返る。そこには伊藤が携帯片手に立っていて、へらりと笑った。
「……どう、して」
「なんで家まで送らせてくれないのかなって思って、尾けちゃった。ごめんごめん」
ひやりと携帯を握りしめる郁は、叔父はもう帰っている筈だと、ちらりと時計を見遣る。
「別に悪いこと考えてないから。もうばれたんだし、明日からは家まで送らせてね」
俄には返事をし難い郁は、助けを呼ぶべきかと悩み、視線を落とす。叔父にメールをするくらいなら、自宅のチャイムを鳴らして呼び出す方が早いか、などと考えていると、目の前に影がかかる。
「え」
ぎょっとする郁に、伊藤は笑いながら手を伸ばして来た。あまりの事に言葉のない郁を抱きしめ、ぽんぽんと肩を叩くと、伊藤は直ぐに離れた。
「それじゃ、ばいばい。後でメールする」
呆然とする郁は、走り去っていく伊藤の背中を見送りながら、沸沸と肌が泡立ってくるのを感じた。
家の中に飛び込むと、荷物を投げ捨てるようにして、郁は風呂場に駆け込んだ。頭からシャワーを浴びながら両腕を抱く様にして抱え込み、郁は歯を食いしばる。
「……違う」
感触は覚えていなくとも、郁の体は、最後の時の佐藤の熱を覚えている。ふわりと優しいあの熱と、匂い。すとんと肩から力が抜けて蕩けていくようだったあの熱を覚えていたかったというのに、どれだけ流しても、伊藤に抱き竦められた感触が抜けない。
「違うのに、これじゃないのに」
書き換えないで、と郁はシャワーの出力を上げる。
メールが来ると、嬉しい。佐藤よりも伊藤の方が、何十倍、何百倍も返信をくれる。郁の事を考えてくれているという事だ。
伊藤は、お金を使わない。郁の事をちゃんと理解して、せいぜいで缶ジュースを買って座ろうと誘ってくる程度、奢ろうとしない所は郁の意に沿っているし、郁にお金のかかる事をさせまいとちゃんと考えてくれているのが分かる。
家を突き止めようとした事だって、郁を案じてに違いない。やましい気持ちはなく、暗い住宅街、家の前まで送ってもらえるなら郁とて安心ではあるのだ。ーー相手を、選びたいだけで。
「でも、違う、違うの」
郁は頭を抱えた。
郁の事を思い気を遣ってくれる人、理解してくれようとする人、好きだと言ってくれる人。それはこの先五万と現れようとも、郁が今、理解して欲しいのは。郁自身が理解していきたいと、思うのは。
「……佐藤君っ」
郁はへたり込むようにして、顔を覆う。
振られた人は、どうやって未練を断ち切るのだろうと、思う。ふっと佐々木の事を思い出し、新しい恋を探すことかなとぼんやり思ったが、それは次の出会いが訪れるまで、これという出会いがあるまで引き摺り続けなければならないという事なのだろうか。それとも、俗にいう、時間が解決してくれる、というやつなのだろうか。
のろのろと風呂から上がり、早々に寝巻きに着替えて食卓に現れた郁の泣きはらした顔を見てか、叔父はぎょっとしたように一瞬固まったが、直ぐに温かい飲み物を郁の前に置いた。なんとなく視線を上げた郁を覗き込むようにして、叔父は優しく笑う。
「諦めきれないなら、諦めなくていいんだよ、郁」
「……振られたのに?」
つらいだけだ、と郁は喉の奥で独りごちる。
「諦めずに、次こそ落としておいで」
ぽかんと口を開けた郁に、叔父は箸を使って卵焼きを摘むと、ぽいと放り込んでくる。熱くて仰け反った郁が慌てて咀嚼するのを面白そうに笑って、叔父はどん、と机を叩く。
「情けない、郁。その美貌を引っ提げて、男一人落とせなくてどうするんだ」
「……だって」
「落とせる。うちの郁に落とせない筈はない」
ぎらりと光る叔父の目が、郁の緩んだ目を覗き込んでくる。真っ直ぐに、射抜いてくる。
「郁がした約束が反故になっただけだろう。十日、いや、佐藤君は七日だったか、それが終了して、疑似恋人の期間が終わっただけだろう。ただ、約束してた時間が終わっただけで、佐藤君はどこにも行ってない」
追いかけなさい、と叔父は続ける。
「そんなにも好きなら、やれるだけの事をやってから泣きなさい」
郁は卵焼きを口に残したまま、ぽかんと叔父を見ていたが、段々とおかしくなって来て、段々と卵焼きの味が分かって来て、咀嚼を始めると優しい出汁の味がじんわりと五臓六腑に沁みていくようで、ふっと思わず笑う。
「叔父さんに怒られたの、随分久しぶり」
「郁にそんなに好きな男が出来たのかと思うと、複雑ではある」
はは、と叔父も笑った。
「家がわからないの、叔父さん。どうすればいいと思う」
くすりと笑う郁に、叔父は真顔で言う。
「所在を知る術はないの。職場は?」
「え、工務店だと思うけど」
「会社の名前だよ、名前」
えっと、と記憶を辿る郁に、叔父はとんでもないことを言う。
「押し掛ければいい。よく来る場所が分かってるなら、二十四時間見張りなさい」
ぶっ、と郁は吹き出す。自分にストーカー気質があるかもしれないと分かった時には酷く驚いたものだが、なんという事はない。血筋だった。
「あはっ、叔父さん! 最高、叔父さん!」
笑い転げる郁を眺めながらきょとんとしていた叔父だったが、お腹が空いたと食事を始める郁を愛おしげに眺め、頑張れと言ってくれた。
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