第20話
五月一日、水曜日。
その日、郁は学校を休んだ。
昨晩から一睡もしていない。酷く体調が悪い。
叔父は郁を心配してくれたが、何があったのかは聞かずに雑炊を用意し、仕事へ出かけて行った。
佐藤からの連絡は、ない。
宣言通りである。佐藤が無事である事は確認できたが、もうこれで終わりなのかと、虚無感が凄まじい。
(落とす暇もなかったな)
何のプランもなかったが、チャレンジもさせてもらえなかった。プランを練らせてももらえなかった。
昨日から頭を過ぎる事は、ずっと同じだ。
このまま十九時を迎えて何事もなかったように日常に戻るのか。佐藤の母はどうなっただろうか。もう連絡はないのだろうか。
郁は光らない携帯の画面をぼんやりと眺めながら、ベッドに転がったまま午前中を過ごした。
(まあ、別に。いい経験になったし)
郁はのそのそと起き上がり、冷め切った雑炊を温める。未だ寝巻き姿のまま、今日はもう着替える予定はない。
(こういう気持ちになるんだって、勉強になったし。恋愛経験値、上がった上がった)
佐藤と出会って、成果はあった。
この人はと思えた時に相手をその気にさせる方法を、郁はこれから先、学ぶ必要がある事が分かった。それが一つの成長であり、メールを待つ事の楽しさや、送る内容を必死で考える事も、知った。
中々いい勉強をさせて貰った、と郁は何度も自分に言い聞かせながら、時計を見上げる。
ーー十四時。正確には、佐藤との約束期限まであと五時間。
このまま十九時を待っていても良いのか、と自問する。その度にだからといってどうする気だ、と答えは出ずに終わる。母を心配する佐藤に、納得がいかないから約束の延長を持ちかけるなど、流石に出来よう筈がない。
ただ悶々と、郁は携帯を意味もなく開く。
カメラロールに残るのは、最高に幸せだった時に食べたものの写真ばかりで、物悲しい気持ちになるばかりだ。
(佐藤君、ちゃんと食べてるかな)
佐藤の送って来た、一昨日の昼食の残骸を眺める。病床の母を前に、食事が喉など通らなかろうと思うや、郁は立ち上がっていた。頭は何も働いていないのに、着替え、歯を磨いて髪をとく。何をする気だとぼんやり思うばかりの郁は、我知らず出かける準備を整えている。
家を出た。
徐に自転車に跨り、無心で漕ぐ。
昨日泣きながら走った道を、のんびりと上り行く。どこへ向かうつもりか、何をするつもりか、郁にも分からない。
気がつくと、コンビニに着いている。
(シーチキンと、昆布と、シャケ。からあげ君は、レッド。飲み物はリンゴ)
喉の奥で唱えながら商品を掴み、会計を済ませる。自転車の籠に入れて、またぶらりと漕ぎ始める。
郁は病院の前まで来て、自転車を端に寄せる。その直ぐ側にしゃがみ込むと、手頃な縁石に腰を下ろして膝を抱える。
ーー十五時。あと、四時間。
連絡をとってはいないが、佐藤は十中八九、この病院の中にいる。見上げた病院は晴天の空の下陰鬱な空気を放つ事はなかったが、郁は中には入らない。一人ではやはり入りたくないのが一つ、一人でいたかろう佐藤の元にへらりと顔を出して見せる程図々しくなれないのが一つ。病院で祈るようにただ待つ苦痛を、郁は知っている。
郁は自転車の籠の袋を見上げ、苦く一人笑う。
(何しに買ったんだろ。届ける気もないくせに)
受付で差し入れだと言って渡せば、佐藤の手には渡るかも知れない。親族でもない者の差し入れは受け取って貰えないかもしれないが、そもそも、郁には渡そうという気は微塵もなかった。それなのに、何も食べていないかもしれないと思うと体が勝手に佐藤の好きなものを買っていた。
ぽん、と携帯はメールを受信する。一瞬期待した自分がいたが、直ぐに佐藤ではない事は画面を見る前に理解する。音が、違う。
(『今どこ、郁』)
志穂だ。ぼんやりとしている間に学校は終わったらしい。
(『佐藤君のとこ』)
(『一緒?』)
(『近くに、いるだけ』)
郁はぽちぽちと返信しながら、病院を見上げる。志穂とメールをしながら、近くにいたかっただけか、と自らの奇行の理由に可笑しくなった。
いつの間にか叔父からも体調を気遣うメールが届いている。それにも返事をしながら、佐藤はこの数日、郁にとっての叔父を超えていたんだろうな、と思う。叔父を超える、郁だけの誰か。
そんな恋人が欲しかった郁は、特に昨日からこちら、佐藤の事しか考えていない自分を認め、膝に顔を埋めた。
(私だけの人には、なってくれなかったけど)
叔父を超える人は現れ得ると知れた。きっとこれから先にも、現れてくれるだろうと期待出来る。
(嫌いなはずの、苦手なはずの病院に、自分の足で来たんだもんな。わざわざ。佐藤君が、来させてくれたんだなぁ)
近寄りたくもない場所だったはずなのに、郁はふらふらと、佐藤の事を考えていたら足が向いた。こうして病院を見上げて、前にぼんやりとしゃがんでいる。これも成長、否、佐藤のお陰で変われた事の一つかもな、などとぼんやり考える郁の携帯が、また鳴る。
(『大丈夫なの、郁』)
郁は苦く笑う。志穂が優しいと、変な感じだ。学校を休んで佐藤とデートを決め込んでいるのだろうと思わない辺りが、郁を良く知る親友だなと思う。
(『十九時になったら、帰る』)
約束が、終わったら。
佐藤が完全に、郁の手を離れたら。今はまだ、佐藤が何と思っていようとも、郁の恋人だ。
(『十九時過ぎに、電話する』)
うん、と郁は返事を打って、膝に頭を預けるようにして目を閉じる。陽光に目を閉じても瞼の裏が眩しく、日光浴が気持ち良い。
交差点の信号の音、行き交う観光客の話し声が心地よい。どこかの店で何かが売れたらしく、溌剌としたお礼の言葉が飛ぶ。
(外に出て良かったな)
鬱々としていても、陽光が無理やりに郁の気持ちを立て直そうとしてくれる。五感で感じる心地良さが、胸の痛みを忘れさせてくれる。
昨晩眠っていなかった郁は、うつらうつらと意識を手放していく。元気を貰おうと耳を傾けていた行き交う人々の声をずっと聞いていたと思っていたが、いつの間にやらうたた寝をしていたらしい事は、とん、と肩を叩かれて初めて気が付いた。
「……何してんの?」
いつの間に日が傾いたのか、茜色の陽光を浴びながら佇んでいたのは見知った顔だった。きらきらと、髪の一筋まで光っているのがはっきりと見える。
「……ただ、会いたくなって」
郁はへにゃりと笑って、目を細める。ーー佐藤だ。窶れた様子はなく、怪訝そうな顔をして郁を見下ろす、佐藤の姿がそこにはあった。
「これ、良かったら食べて」
郁は自転車の籠に手を伸ばし、しゃがんだまま袋を引っ張り出す。足が痺れて、立てない。
佐藤はそれを受け取って中を改め、眉根を寄せた。
「……いつから、いたの」
「今何時?」
「十八時回ってるよ」
「じゃあ、三時間くらい」
ああ佐藤だ、という感想しか、郁の中で沸き起こってくる事はなかった。酷く落ち着いている自分がいる。
「お母さん、どう?」
郁は端的に問い、佐藤は困り顔のまま郁の側にしゃがみ込んだ。
「まだ、昨日と変わりなく」
そう、と郁は呟き、佐藤を眺めた。今朝まであった感情の起伏はなりを潜め、ただ、穏やかな気持ちで郁は佐藤を見つめる。袋を覗き込む佐藤、遠慮なく、と冷えたからあげ君を摘む佐藤、飲み物に口をつける佐藤。
「……愛おしいなぁ」
「は?」
何をしていても、愛おしい。ずっと眺めていられるなと、郁は小さく笑う。
「なーんでもない。佐藤君に、言いたい事があって」
「んー?」
「沢山あったんだけど、全部忘れた」
「なにそれ」
佐藤は吹き出すように笑った。笑った、と郁は幸せな気持ちになる。
佐藤はお腹が空いていたらしく、郁の差し入れを掻き込むように食べる。
「お腹空いてた?」
「食べ物買いに出るところだったんだ。そしたら、好物を目の前にずらりとぶら下げてくれる女神が現れた」
「女神ですか」
「女神爆睡だったけど」
「爆睡でしたか」
そんなつもりはなかったが、時間の経過を鑑みればそうだったのだろう。妙に頭がすっきりとしているし、お陰で心も落ち着いている。
「佐藤君」
「ん?」
「心にゆとりが出たらでいいんだけど」
「うん」
郁はふわりと笑う。佐藤を前にして、するりとその言葉は、口を突いて出た。
「また、私の下駄箱に手紙を入れて」
「……ん?」
「今度は十日間。ちゃんと佐藤君を私に見せて」
佐藤は真顔になって、考えるように空を一度見つめ、最後には苦く笑った。
「やり直しですか?」
「そ。駄目駄目でした。納得いかないから、やり直して下さい」
ふふと笑った郁を見つめ、佐藤は苦く笑ったまま、小さく「ごめん」と呟いた。
財布から千円札を取り出すと、佐藤は徐に、ふわりと優しく、郁を抱きしめた。
目を剥く郁に、佐藤は耳元で囁くように言う。
「……これで、約束は俺の契約違反」
ぎゅっと一瞬、佐藤の腕に力が入り、そっと熱は離れた。呆然とする郁のポケットにお札を突っ込むようにして、佐藤はゴミを提げて立ち上がる。
「ばいばい、結城郁さん」
佐藤は優しく笑って、くるりと踵を返した。
「気をつけて帰りなよ」
顔だけで振り返って手を振り、佐藤は病院の中へと消えて行く。
ぼろりと溢れた涙が、郁に失恋を教えた。
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