第19話
授業を終え、帰宅しても返事は来なかった。
郁は携帯を充電しながら、静まりかえった自分の部屋で宿題をする。携帯が気になって気になって、返事がない事が不安で仕方がない。それでも何かして気を紛らわせねばと、宿題を選んだ。
ぽん、と携帯が鳴って、文字通り郁は飛び上がる。ばっと携帯を掴んで、叔父からのメールである事を確認し、肩を落とす。音が違うじゃないか、と自嘲する。
叔父は、仕事が長引いているようで帰宅が遅れるとの事だった。晩御飯は自分で何とかしなければならないなと、郁はのろのろと台所に向かう。
作り置きの惣菜があったので、皿に盛る。米も残っていたので、ただ配膳をすれば形になった。
(何か、あったのかしら)
アプリを消されたのではと一頻り胸を痛めたものの、佐藤は無言でそのような事をしないだろうと、結論付けた。自分を慰めたいだけではあったが、本当にそう思う。
仕事が忙しいか、返信を出来ない状況にあるか。
(事故って意識不明とかだったりして)
さあと血の気が引く自らの想像に、全力で頭を振る事で拒否を示す。そんな馬鹿なと思うが、そうでないと言い切れるだけの確証がない。確認のとりようがない。
ーー怖い。
郁は、もう何十回と開いたアプリを起動し、電話マークを押すべきか、逡巡する。時間は、十九時を回った。仕事は終わっていようと思うが、昨日の例もある。どうして返事をくれないのか、などという理由で電話をかけて迷惑がられたらと思うと不安で堪らなかったが、とにかく、佐藤の無事が気になって仕方がない。
鬱陶しいと思われたくないと悩む郁はとうとう、佐藤の安否に心の比重が傾いた。箸を置き、電話をかける。
ぷつっ、と音がする。
回線が繋がったと緊張に心臓が口から飛び出しそうになった郁に、携帯はコール音ではなく、無機質な案内を垂れ流した。
『おかけになった電話は、現在電波の届かない所にあるか、電源が入っていない為かかりません』
がらがらと、郁の中で何かが音を立てて壊れた気がした。延々と無機質に同じ文句を繰り返す携帯は、ずるりと力なく郁の手の中から滑り落ち、床に落ちる。
がたがたと震える両手を組み、郁はその手に額を預けるようにして目を閉じた。
(ええっと、どういう事?)
携帯が繋がらない。
どういう事が考えられるだろうかと、郁は混乱しきった頭で必死で考える。
(仕事で電源を切ってるか、充電切れ? あ、高速走っててトンネル通過中とか)
もはや、アプリを消してくれていてもいいとさえ、郁は思った。事故に遭って携帯が壊れて繋がらないのではと最悪の想像し、郁は震えが止まらなくなる。頭の中を、ストレッチャーで運ばれる父母の姿が走る。郁がどれだけ叫んでも応えず、目を開けてくれる事もなかった。必死に縋りつこうとする郁を邪魔だと遮る数々の手に阻まれ、聞き慣れぬ言葉が頭上を飛び交っていく。トラウマがずいと顔を出すと、ストレッチャーで運ばれていく誰かは、父母ではなく佐藤になった。想像して、郁は一人、小さく悲鳴を上げる。
佐藤の短文が、恋しい。
はい、だけでいい。了解だけで、もう文句など言わない。返事が、郁のメールを読んだ返事が、欲しい。
(どうしよう、誰に聞けばいいの)
誰に聞けば、佐藤の事が分かるだろう。
必死で考えても答えは出ず、郁の手の中にはただ、佐藤との唯一の繋がりであるアプリが一つ、あるだけだ。
郁は携帯を拾い、ふらふらと玄関に向かう。
(家は、病院の西の方で)
靴を履き、家を出る。自転車に鍵がうまく刺さらず、何度もやり直してそれに跨った。
携帯の画面を表向きにして籠に入れると、郁は真っ白になった頭で無意識に、例の公園へと急ぐ。きっとあの区域が佐藤の生活圏だ。病院から西方面、地理感があって、思い返してみればあのコンビニにも行き慣れた様子だった。迷うことなく目的の物を売っているコーナーに足を向けていた。
郁は緩い上り坂を、無心で自転車を漕ぐ。
佐藤の生活圏があるから何だと言うのか、会えるなどと思った訳では決してないが、じっとしている事など出来なかった。
流れる汗が、顎へ伝う。それを腕で何度も拭くうち、涙だと気がつく。
何を考えるでもない。ただ、祈るように進む郁は、はっと携帯画面に目を落とした。ーー光っている。
直ぐに自転車を路肩に寄せて、郁は携帯を掴む。
(ーー佐藤君!)
電話が、鳴っている。震えてロックが外れない。逸る気持ちを抑え込もうにも言うことを聞かない指で、何とか通話まで持ち込む。
「も、もしもし」
『……なんで、息切れ?』
はは、と佐藤の声がした。途端に今度は涙だと明確に分かるものが目から溢れて来て、次いで郁の中に沸々と怒りが込み上げてくる。
「どうして、連絡してきてくれないの!」
自分でも驚く程大きな声が出て、道行く人がぎょっとしたように郁を振り返る。泣ている郁を見遣り、不憫そうな顔をして行く顔も知らぬ通行人の事など、この際どうでも良い。
『ごめん』
殊勝に謝った佐藤は、ぼそりと続けた。
『昨日の晩、母が危篤状態になって』
郁は言葉を失って、後には荒い郁の呼吸だけが残る。
「……え」
『電話切った後、ね。それでちょっと』
無事だったのか、と聞くのが恐ろしくて言葉が出ない。
『車の音がする。今、外?』
言われて、郁ははっと辺りを見回す。涙を拭い、自身の現在地をそこで漸く確認した。例のコンビニまで、後少しのところまで来ている。
「うん」
『門限、もう直ぐでしょ。早く帰りな』
「人の心配は、いいから。……今、病院?」
押しかけようとは思わないが、病院も、進路を変えれば自転車なら直ぐだ。
『うん。何とか助かったけど、今のとこ意識が戻らないから付き添い』
助かったかと安堵する一方、予断を許さない状況に安易な言葉はかけられなかった。黙る郁に、佐藤は小さく笑って言った。
『病室、携帯使えないから。悪いけど、今日はもう連絡出来ない』
「う、ん」
『……ごめんけど、明日も多分、行けない』
「……うん」
返す言葉がない。
明日は、大切な日になる筈だった。郁にとって、何のプランもないながら、決戦の日になる予定であった。
『もう病室戻るから、じゃあね。気をつけて帰って』
待ってと、言えなかった。
まさかこれで終わりになるのだろうか。明日の十九時でもって、佐藤との約束は終わりを告げる。延長は、願い出ようと思っていた明後日からの約束は、郁の今感じている佐藤への、ーー想いは。
言いたい事が怒涛のように頭を過ぎったが、それどころではなかろう佐藤に、それをぶつける事は出来なかった。
ぷつんと電話は切れて、ツーツー、と、やはり無機質な音が郁の耳の奥をこだまして流れていくばかりであった。
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