第17話

 カフェに一人残された郁は、手持ち無沙汰に意味もなく、アプリを開く。

(おやすみ、ねぇ)

 そう言われたら、おやすみとしか返信が出来ない。メールを切りたい時に使う文言だ。郁にも覚えがあるので、よく分かる。これ以上だらだらと話を続けるのが苦痛で、一旦連絡を断ちたい時、一日の終わりにだけ使える魔法の言葉だ。

 スクロールしてみても、佐藤とのメールは歴代群を抜いて少ない。そして一文一文が短い。メールだけで繋がっている友達なら、嫌われているのではと疑うレベルだ。

 あちらからメールが来ないものかと待つうちに、「おはよう」のメールは打ち損ねた。ちらりと時計を見遣ると、十一時になろうかというところ、佐藤はまだ仕事中の筈だ。

 郁はする事もなく、立ち上がる。珈琲もすっかりなくなっているし、一人座っていてもする事がない。今日は帰宅しても叔父はいないので、郁はぶらぶらと、散歩を始める。

 どこへ向かっているという事もなかったが、気がつくと足が北へ、北へと向かっていた。景色を見ながら、この道を佐藤と歩いたな、などとその時にしていた会話も流れるように頭に浮かぶ。

「あ」

 不意に声をかけられた気がして振り返ると、見慣れた男の子が、見慣れない制服を着た女の子と信号を待っていた。

「ああ、こんにちは」

 確か、かなり初期の頃に十日間の恋人であった男だ。名前はなんと言ったかと頭を働かせている間に、見知らぬ女の子が解を与える。

「冬矢、誰その子?」

 そう、とうや、だ。佐々木冬矢。二人目か、三人目だかにお付き合いをした同じ学校の同級生である。

「あー、元カノ」

 でれでれという佐々木に、そこは同級生の方が良いのではと思いながらも、郁は小さく頭を下げる。見るからに今カノである女の子は、不快そうに郁を爪先から頭の先まで観察するように睨め付けてくる。

(私を自慢したがる男の子だったなぁ)

 佐々木を見ながら、郁は段々と記憶を覚醒させていく。綺麗な彼女を連れた自分を誇るように、郁を紹介したがる人だった。今の彼女に昔の彼女自慢は如何なものかと思うだけの感性は郁にもあったが、佐々木はその点、相変わらずのようだった。

「行こ、冬矢」

 信号が青になったのを確認して、女の子は佐々木の腕を引っ張るようにして横断歩道を渡っていく。じゃあ、とだけ言い置いて彼女に続く佐々木は、郁に延長を申し出た中の一人であったが、幸せそうに彼女に引き摺られ、通りの向こうに消えていく。

 郁の容姿を気に入っていたと思しき佐々木だが、今の彼女は、申し訳ないながらそう美人という事はなかった。はっきり言って、郁の圧勝だ。だが、佐々木は幸せそうだった。

(相手に合わせたいって思える子が、見つかったんだな)

 しみじみとそんな事を思いながら、郁はちらちらとこちらを気にかける様子を見せる彼女に、申し訳ない気持ちを覚える。牽制してくれずとも、佐々木にはもう、興味はない。だから延長もしなかった。元彼女だと紹介されたら否定はしないが、郁にとっては「恋人になりきれなかった人」だ。

 女の子はぼんやりと二人を眺めている郁をどう思ったのか、執拗に佐々木に腕を絡めてぴたりと引っ付き、歩く。佐々木の顔は満更でもない。

 佐々木は、郁と付き合っていた時よりも幸せそうに見えた。郁は佐々木の本当の恋人にはなれなかったが、延長出来るかも、という思いが郁に全く沸かなかった事を、佐々木は分かっていたのだろうかとぼんやりと思った。郁の態度に今後の付き合いをする気のない空気が出ていたなら失礼且つ申し訳なく思うし、それでも延長をと申し出てくれたならば感謝しかない。叶わないと思われる希望を敢えて伝える事の悩ましさが、今から分かる。

 一年前の自分の事は今となっては思い出せないが、その時の自分が佐々木に真摯に向き合い、失礼がなかったなら良いなと思った。

(やっぱ、男の子はスキンシップが好きなんだろうな)

 郁は肩を竦めながら、これ以上彼女を刺激しないようにと、踵を返す。本当は同じ方向に行こうとしていたが、目的地がないだけに進路変更に何ら問題はない。

 裏通りに入ると、人通りは疎になった。

 皆目的地があるのだろう、せくせくと歩いているが、郁はただ、人を観察するようにゆっくりと歩く。俄然、カップルに目がいく。

 年齢によって、付き合った長さによって、二人の関係性によって、様々なんだろうなと思った。肩を寄せ合う者、手を繋いではいるが少し距離がある者、もはや手を繋ぐ事をしなくなったと思われる者。

(私と佐藤君は、どう見えるんだろうな)

 付き合いたてのカップルか、付き合う寸前の友人か。手を繋ぐことも肩を寄せ合う事もないので、カップルには見えないものかもしれないな、などと思いながら歩いているうちに、見慣れた公園に到着した。

 佐藤と最初に待ち合わせをした、あの公園である。

 晴れた祝日であるだけあって、子供が遊んでいる。小学生と思しきグループが三組、大学生と思しきカップルが二組ベンチで笑い合っている。

 滑り台に腰を下ろしたかったが、流石に空気は読む。子供が優先で滑って遊ぶ場所であり、座ってぼんやりする場所ではない。

 時計を見遣ると、十二時を過ぎていた。

 郁は誰もいないベンチに腰を据えると、アプリを開く。仕事のきりが良いところで休憩に入ると言っていたが、それでも昼頃が多いと既に聞き知っていた。

(『仕事、お疲れ、様』)

 打ちながら、郁は次の言葉を探す。こちらから話題を振らない事には、佐藤は直ぐにメールを打ち切ろうとする。

(『今日は遅く、なりそう?』)

 疑問文で聞けば流石に返事があるだろうと、郁は送信を押す。一分程画面を眺め、郁は携帯をベンチの上に置く。佐藤は返信が早い方なので、直ぐに連絡がないという事はおそらく、まだ仕事中か携帯を見る事が出来ない状況にあるか、だ。

 直ぐに返事は来ないだろうと思うのに、前を向いては携帯を確かめ、子供を眺めては携帯画面を覗く。郁はマナーモードを解除して、音量を目一杯あげた。これで佐藤からのメールに気が付かぬなどという事にはならないと思うのに、やはり、郁は何度もアプリを閉じては開いた。

(昨日の今頃は、ランチ食べてたっけな)

 郁はカメラアプリを起動し、昨日撮った写真を眺める。とは言っても、食べ物の写真が並ぶだけである。映画の半券の写真、ランチの写真、スタバの写真。人物を日常的に撮る習慣のない郁は、カメラロールに佐藤の写真がない事に今更ながら気が付いた。これまではなんとも思わなかったが、一緒に撮っておけば、こういう時に眺められるのか、と郁はしんみりと思う。今まで写真を求められた理由の一端に触れた気がする。

(写真、好きじゃないからなぁ)

 郁は、基本的には自分を含め、人物の写真を撮らない。

 両親が亡くなった時、無数の容赦ないフラッシュに一時、郁は光を見る事を恐ろしく感じる時期があった。夜間の車や自転車のライトに怯えて叔父を困らせたものだったようだが、あまり記憶にはない。幸い克服できたのは、叔父の影響が大きい。怖いものではないと、叔父は郁を雑誌の撮影現場に度々連れて行ってくれた。叔父を美しく照らし出すライトの数々に最初は圧倒されたものだったが、少しずつ、恐ろしいものではないと頭が理解していったのだろうと思う。

 しかしながら、写真はそれからもあまり好きではない。否、写真を撮られる事ではなく、カメラを向けられる事が、苦手だ。だから恋人が出来ても、誰かと一緒に写真を撮った事がないし、撮らせた事もない。

(佐藤君は写真、どうかな。嫌いかな)

 佐藤に半分食べられたエビフライだ、などと思いながら写真を眺めていると、ポロン、と聞きなれない音がして郁は肩を震わせる。このアプリこんな通知音だったっけと特に意識していなかった事に気が付きつつ、即座にアプリを起動する。

(『やっと休憩。予想通り、長くなりそう』)

 やはり今日は会えないかと落胆の気持ちがある一方、返事が来た事に胸が躍り、頭で考えるより先に手が動いていた。

(『お疲れ様。今日の昼ご飯は何食べてるの?』)

(『当ててみる?』)

 郁はくすりと笑い、やはり考えるより先に指が動いている。

(『ヒントちょうだい。どこかに食べに行ってるの? 買ってきたもの食べてるの?』)

(『買ってきて食べてる』)

(『コンビニのおにぎり一択』)

(『おー、正解』)

 ポロン、ポロンと音が鳴る度に、郁は夢中でメールを打つ。話を途切れさせてたまるかとばかりに次の文を打とうとした郁に、佐藤から、まさかの二通連続の受信がある。

(……画像)

 郁は目を見開く。写真が添付されて来て、そこには左手に持った食べかけのおにぎりが映っていた。

(『子供舌だから、シーチキン』)

 またポロン、とメールが届く。郁のメールを挟まずに、三通連続だ。俄に信じがたく、泣き出したいような衝動に駆られる。

 郁は震える指で、メールを打つ。佐藤が返事をくれる機会を逃す訳にはいかないが、驚き過ぎて頭が回らない。

(『美味しそう』)

 送信してから、馬鹿みたいな感想を送ってしまったと我に返る。捻りがなさ過ぎる上、興味がなさそうに見える定型文だ。せめて顔文字の一つでも付けれなかったのかと慌てて次のメールを打つ郁の不安になど気がつける筈もないというのに、佐藤からは、実に郁を安堵させる暢気な返信がある。

(『昼ご飯食べてないなら同じの買えば? 美味いよ』)

 郁は打ちかけていたメールを削除しながら、胸を撫で下ろす。郁がメールを切りたがっていると思われたらどうしようかと焦った。

(『どこのコンビニのやつ? 普通のじゃないよね』)

 三角型でないおにぎりの写真を見ながら、郁はメールを打つ。映っているのは、佐藤の手だ。少し汚れている。手を洗わずに食べてるな、と郁は一人、小さく笑む。

(『ローソンの。多分行ったら分かるよ』)

 最も近いコンビニはローソンだ。郁は徐に立ち上がると、足早に公園を出てコンビニに足を向ける。

(『丁度近くにいるから、行ってみる』)

 郁は振り返り、公園の写真を撮る。佐藤に倣って写真を添付し、貼り付ける。

 佐藤はどこの公園か気付くかなとうきうきしながら、返事を待つ瞬間の胸の高鳴りといったらない。メールって楽しいんだなと、郁は改めて教わった思いがした。

 住宅地を抜けて、コンビニまでは十分程度。その間、返信は来なかった。もう仕事が始まってしまったのだろうかとそわそわしながら、郁は追いメールを打つか悩みに悩みながら、なんとかコンビニに到着する。

 うきうきとした気分で探す筈が、返信がないせいで気分が乗らない。とぼとぼとおにぎり売り場に向かう郁を元気付けるように、見計らったかのようにポロン、と携帯が鳴る。

(『着いた?』)

 嬉しいやらぎょっとするやら、郁は齧り付くように返事をする。

(『なんで分かったの?』)

(『写真送って来たじゃん。メール打ちながら歩いたら駄目。君、割とどんくさいから』)

 郁は悶える気持ちを表現し難く、両手で顔を覆いたいやら両手を振り上げたいやら飛び跳ねたいやら、ありとあらゆる衝動をコンビニにいるという状況下、なんとか抑え込む。正直、家にいたら叫んでいた自信がある。

 ちゃんと郁がどこにいるかを把握し、コンビニに到着するであろう時間を計ってくれた、という訳だ。公園からコンビニまで約十分、その間郁の事を考えて時計を見ていてくれたのかと思うと、感動も一入である。

 郁は打って変わって足早に進み、残ったおにぎりの中にそれらしいものを見つけて手にする。

(『多分、あった』)

 郁はまた、写真を撮って添付する。

(『それそれ』)

 返信から、佐藤の表情が浮かんでくる。佐藤ならリンゴジュースを買うかなと、郁は飲み物コーナーに立ち寄って、更にレジ前で食べている姿を思い出したからあげ君を一緒に購入した。

(『公園に戻って食べようかなぁ』)

 購入したもののの写真を撮って、また添付する。佐藤からまた写真が届かないかなと期待しながら、郁は返信を待つ。また公園に戻る間は返事がないかも、と足早に来た道を戻る郁の予想通り、また十分程、返事がない。

(楽しいんだな、写真って)

 佐藤から送られてくる写真に、佐藤の顔が映っていたらなお良いと、郁は思った。今どんな物を見て、どんな事を考えているのか、楽しそうなのか美味しそうなのか、仕事で疲れているのか、顔写真があれば、感じられる事がある。

 公園に戻ると、昼時である事もあってか、子供の数が減っていた。昼食をとりに帰ったのか、少し閑散と見える。

 サッカーをしていた子達がいないかな、などと思いながら先程と同じベンチに腰を下ろし、買って来たものを膝に広げた時にまた、タイミング良くメールが来る。

(あれ、画像だけ)

 郁は本文がない、と小首を傾げつつ写真を覗き込み、耳が熱くなって来たのを感じた。佐藤から送られて来たのは、今食べたと思しき佐藤の昼食のゴミだったが、そこにはおにぎりと、からあげ君と、リンゴジュースがしっかりと映っていた。違うところといえば、おにぎりの数くらいである。

(『これは何か恥ずかしいやつ』)

 ポロン、と後追いで入ったメールに、郁は頭を膝に埋めるようにして顔を隠す。街中で同じ服を着ている人に会ったような気恥ずかしさがあるが、合わせにいった自覚がある郁の気恥ずかしさはおそらく佐藤を超える。

(『仕事戻るわ、じゃあね』)

 佐藤からのメールに、郁は『頑張ってね』と、なんとか、かろうじて返信をした。

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