第16話
のろのろと歩いて帰ったの、と郁は翌日の午前中、志穂に昨日のデートをそう報告し、締め括った。
本日は四月二十九日、祝日の月曜日である。
十一時に彼氏と待ち合わせをしているという志穂は、朝九時から話を聞いてくれている。待ち合わせはいつもの駅前にあるカフェだ。スタンダードな珈琲を頼めば、そう値ははらない。
「歩いて駅前まで帰ったら、丁度いい時間になって」
一通り報告を終えた郁に、志穂はふむ、と苦く笑う。
「郁が? 男にバックハグかましまくって? 親いない事まで話ちゃって? 千五百円オーバーを容認してまでスタバで苦のない五時間オーバー?」
そう、と郁は珈琲を啜りながら、あ、と思い出した事を付け足す。
「エビフライで間接キスもかました。ちょっとデリカシーに欠けるよね?」
「それさぁ、延長してみたらいいんじゃないの、普通に」
「あー、やっぱりそう思う?」
郁は肩を竦める。
「恋しちゃってる! って感覚は、正直ないの。実感ない。でも、全然会うのが苦痛じゃないし、合わせる事がお付き合いには必要だなんて思ってる人が、延長戦に突入したからって急に狼って事もないと思うのよ。ちゃんと合わせてくれる気がする」
「じわじわ好きになっていける感じなんじゃないの。それに話聞いてる感じ、既に兆候はあるじゃない」
「あるかな?」
「気付いてるか分からないけど、何回も『どきっとして』って言ったよ、郁。どきっとしちゃってるじゃん」
そうだっけ、と郁は自分の言葉を思い返す。言ったような気もしないでもない。
「そんなワードが出た事ないんだから、それが報告に交じる時点でもう、ちょっと惹かれてるって」
そうかも、と郁は昨日の事を思い出しながら、また珈琲を啜る。ちびちびと、口直し程度に口をつけるだけだ。惹かれているという言い方をされると少し照れ臭いが、相手に対し、土日を終えた段階で今なお関心があるのは初めてだ。大概土日で聞きたいこと、話したい事を話し尽くし、月曜日以降の話題に悩む。
「昨日別れる時、後ろ髪引かれなかった?」
にやにやと言う志穂に、郁はまぁ、と呟くように応じて、またずずっと珈琲を啜った。飲みたくて飲んでいる訳ではないので、正直味が分からない。志穂に報告するのが恥ずかしい事もまた、初めてだ。
もう一日が終わったのか、と思った。
昨日もまた駅前で別れたのだが、並んで歩きながらもう直ぐ着く、あと何分で着いてしまう、と別れの瞬間が迫って来るのを残念に思った。
佐藤は「じゃあね」と笑いながら手を振った。まだ十分くらい大丈夫なのに、と郁は思ったが、すっかり別れ際の空気になっている佐藤を引き止める言葉が出なくて、渋々帰路に着いた。やはり、振り返る事はしなかった。既にいなかったらどうしようと怖くて振り返れなかった、が正しい。
「帰ってからメールか電話は? 今朝は?」
「昨晩は、今日はありがとう、ってメールを」
「で、返事はあった?」
「『こちらこそありがとう、おやすみ』」
「おやすみで切って来たかー」
志穂は苦く笑う。そうなのよ、と郁は溜息を吐く。
「……メールのさ、良さって何だと思う?」
「ん?」
そういう話になって、と郁は溜息を漏らす。郁にとって、佐藤は「延長」を考えるに値する所まで既に来てはいるが、佐藤はおそらく違う。今までの彼氏達であれば、郁が延長を申し出たならきっと二言目には了承の意を示してくれただろうと思えるのだが、佐藤は困ったような顔をする気がしている。
郁は、佐藤が電話派である事を付け足しつつ、今一度問う。
「電話の方が早いのに、メールするメリットって何だと思う?」
「相手を想う回数でしょ」
即答され、郁は目を丸くする。
「……ん?」
「電話の良さは、伝達が早く、声が直接聞けるところ。メールの良さは、ふと相手の事を想った瞬間に打てるところ。あなたを気にしてますよと、知らせられる事でしょ。メールが来る回数だけ、打つ回数だけ、相手を想ってる」
「おはよう、なんて、……その典型か」
「でしょ。要件なんて別に必要ない。今あなたの事を考えてますよっていう、お知らせをしてるだけ。でも返信が来る瞬間、相手も今自分の事考えてるんだなって嬉しくなるでしょ。電話するほどではなく、何かしていたとしたら邪魔しない程度に相手を慮る事が出来、でもふっと幸せになれる。それが醍醐味」
「うっわ、欲しかった答えだわ。昨日叔父さんに聞いてみたら、言った言ってないを避けるための履歴になる、って言ったのよ。夢がない!」
「あはっ、相手によるよ、そりゃ。恋人相手じゃなかったらまた、当然使い方は違うもんよ」
叔父さんは大人大人、と志穂は笑う。メールは基本的に構ってほしい時に使う場合と、確かに電話するほどではない要件を伝える時にも使う。相手次第で、用途が変わるものだ。
「郁が佐藤君からの返信に求めるのは、構って、でしょ。延長申し出てみなよ、私は薦める」
志穂は頬杖をつきながら、ふふと笑う。
「この前はメール嫌いな人との付き合い方を学んでるところ、とかなんとか、郁言ってたわよ? でも今は、どうやったらメール返してくれるかなとか、考えてる訳でしょ。進歩よねぇ、恋愛偏差値上げれてると思うけど」
郁は苦く笑う事しかできない。
先日までは佐藤を落としてやろうと意気込んでいた筈が、経験不足からかうまい方法を思いつけぬまま一日デートを終え、むしろ興味を持たされた自分に些かの不満がある。相手からアピールをしてくれることに対して胡坐をかきにかいてきた結果、郁は佐藤に対し、自らがしかけたゲームのプレイ盤にも乗れない事に薄々気が付いてしまっている。何をどう仕掛けたら良いか、分からない。
それと同時に、佐藤に興味を持ちつつある自分への不安があった。何が、と問われると、答えは一つである。佐藤の方は郁に対し、恋愛という意味での興味がなさそうである、これに尽きる。
「佐藤君の方はさぁ。……どう思ってると思う?」
「延長について?」
そう、と郁は既にない珈琲を無理やり啜る。ずず、と音がするだけであったが、口の中がじんわりと苦い。
「実物見てないから、なんともだけど。聞いている話だと、郁に興味がないってことはないと思うけどなぁ」
志穂はおっとりと笑う。
「いいねぇ、郁。今、告白する時の振られたらどうしよう! のあの気持ちを味わえてるよ」
「告白するんじゃないけど?」
「郁の場合は延長を申し出るってことは、そういう事でしょ。断られたらどうしようって思ってない?」
思ってる、と郁は盛大な溜息を吐いた。志穂に嘘を吐いたところで仕方がない。佐藤曰く、郁はなんでも顔に出るそうだ。
「あー。どうしようどうしよう。延長する程ではない? した方がいい!? その場合なんて言えば?」
「延長お願いします?」
「どのタイミングで、どんな顔して言えばいいの、それ。無理って言われたらどうするの?」
「郁ー。いい事教えてあげると、みんなそのどうしようと戦って告るんですー」
「どんな心臓してんの」
がばっと机に突っ伏す郁に、志穂はくすくすと笑う。
「今回はいつもとは違う経験をさせてもらってますなぁ」
学べるだけ学べ、と高笑いしながら、志穂は自らの彼氏との待ち合わせの為に行ってしまった。
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