第14話

 午後からの予定は、白紙であった。

 郁がエビフライの衝撃から立ち直るのに時間を要した事もあって、午後からの予定を話し合う時間がなかった。食後にゆっくりと話をすればよいと思っていたのだが、想像以上に混雑していた為、長居出来る雰囲気にない。待っている人達の視線が痛い。

 別々に会計を終えて外に出ると、郁はちらりと佐藤に視線を向ける。どうしたいのかを聞かれるのが郁は得意ではないのだが、考えることが面倒だから避けて来た事とも言えた。

「佐藤君はこの後、何したい?」

 どうしたいかを尋ねる事は、相手を慮る事である。考える事が面倒だからと相手に丸投げしていた郁とは違い、郁のやりたい事を知りたくて、やりたいようにさせてあげたいと思って聞いてくれていた事は頭では分かっていたつもりだが、自身でそれを尋ねて初めて真の意味で漸くその心を理解した。実際に佐藤の好みを知りたいと思ってぽろりと口を突いた言葉に、皆がどういう気持ちで郁にこの言葉を投げかけていたのかを知る。じわじわと申し訳ない気持ちになった。

「女の子と一緒じゃないと出来ない事がしたい」

「……え、やらしい事言われた?」

 真顔で言う佐藤に胡乱な視線を向けたが、佐藤は可笑そうに吹き出した。

「違う違う。今の洋食店みたいに、女の子が一緒じゃないと入りにくい店とか、そういう所に行きたいって話。ここ以外にもあった気がするんだけどなー、ぱっと思いつかなくてさっきから考えてる。そっちは男が一緒じゃないと行きにくいなとか、そんな場所ないの?」

 そういう視点でデート先を選んだことなどない。むしろ、何度もいうが郁がデートプランを練った事はこれまでに一度もない。こうして頭を悩ませる事がもう、初めてだ。

「あ、君はそんなに慌てて考える必要ないか。やっぱり俺の希望が優先だな」

「どうして考える必要がないの?」

「君は来週には新しい彼氏がいるんでしょ? 男としか行けない所が思いついても、来週には行けるじゃん? 俺は今行っとかないと暫く行けない。優先度高くない?」

 それはそうだな、とは思ったが、それとこれとは話が別だとも思った。

「今の彼氏は佐藤君なんだから。先週は先週。来週は来週!」

「ごめんごめん。じゃあ、どこかある?」

 そう言われると、ない。男性がいなければ入りにくい施設などそもそも浮かばないし、あったとしてもおそらく郁は興味がない場所だ。

「そういう佐藤君は、思いついたの?」

「思いついたけど、お金がかかるから嫌がられそう」

「ちなみに?」

「スタバ」

 郁は唖然として、思わず眉根を寄せた。

「一人でも行けるでしょ!?」

「いやぁ、実は行った事なくて。カスタマイズとか難しそうじゃん? いつも混んでるしさ、もたもたしてたら迷惑かけそうだし、普通に初めて来んのかよ十八歳、って思われるのも恥ずかしい」

「行った事ないの!?」

 更に驚愕の事実だ。今時行った事ない人いるんだと思いはしたが、佐藤は中卒だと言っていた。友人とお小遣いを握りしめてカフェに入るなど、中学生でしたかと問われれば記憶にない。また、その頃までは、叔父に連れて行って貰っていた事を思えば、いつから入院しているのかは知らないが、佐藤が母親と行く機会がなかったとするなら、そういう事もあるのかもと思い直す。

「……まぁ、私も最近行ってないから、いいよ」

「予算オーバーでしょ。奢らせてくれるわけ?」

 洋食店で千百円を消費した。スタバで四百円は、飲み物が頼めない。

「行きたくないとこにお金は出せないけど、行きたいから出すよ。千五百円しか持ってきてない訳じゃないし」

「そ?」

 佐藤はにっと笑って、近くの店舗を検索し始める。

「しかし、奢られたくない女の子っているんだね」

 佐藤は指を動かしながら笑う。郁は横目に佐藤の携帯の画面を覗き込みながら、ぽつりと応じる。

「私、親がいないから」

 一瞬、佐藤が言葉に詰まったように間があった。どう言って良いやら反応に困るのは通常の反応であり、気を遣われるのが嫌であまり言わないのだが、なんとなく、佐藤はどう言うのかなと思った。

「どうやって生活してんの?」

 大概が「ごめん」と謝るが、謝られても困る。佐藤の率直な疑問に、郁は苦く笑う。

「叔父さんが面倒みてくれてて。母の、弟さん。未だ独身。多分私のせいで」

「ちゃんと君に向き合う叔父さんなんだね」

 郁がその意図を視線で問うと、佐藤は笑う。

「子供と真剣に向き合ってると、自分の恋愛してる暇なんてないでしょ。叔父さんが独身だっていうなら、自分のプライベートの時間をフルで君の為に使って来たからって事でしょ」

「単純にもてない人なのかも?」

「だとしたら、多分私のせいで、なんて言葉は君の口から出ない」

 そうかも、と郁は黙る。代わりに佐藤は、間を厭ってか話を続けてくれた。

「俺の母もそう。うちは離婚なんだけど、父親の顔は知らないし別に知りたくもない。母は働いているか俺の側にいるかだったから、今になって思うには新しい恋をする暇もなかったろうし、相手がないんだから当然の話、再婚も出来なかった」

 郁がしんみりと話に聞き入っていると、佐藤は事も無げに携帯の画面を見せてくる。

「この店舗でいいと思う?」

 一瞬何の話だったか忘れていたが、佐藤はスタバを探していたのだった。急に話を戻されて、郁は苦く笑う。普通、もっとしんみりとした空気になるところだ。

「あー、嫌かな。絶対混んでる。こっちこっち」

 街中のスタバになんぞ行くものではない。折角バイクで向かうのであれば、中心地から離れている方が良い。佐藤は地図を開いて場所を確認し、おっけ、と小さく呟いた。

「じゃ、行こうか。それで、叔父さんに面倒みてもらってることと、奢られ嫌いは繋がりあんの?」

 やはり急に話を戻してくる。そもそもその話が発端だったかと、郁の方が忘れていたくらいだ。

「ああ、そうそう。叔父さんに生活の面倒見て貰ってるのよ? お小遣いもっと頂戴なんて、絶対言いたくないの。でもさ、そうは言っても欲しいものってあるじゃない?」

「女子高生だしねぇ」

「そうよ。欲しいもので溢れてる。基本的には我慢だけど、どうしても欲しい時に買えるよう、貯金もしないといけないわけよ」

「で、千五百円がマックスと」

「それも百歩譲って、ね。ほんとにお金が尽きると、彼氏システム辞めたいって思う事もあるわね。絶対にお金かかるんだもの」

「尚の事、奢って貰えばいいじゃない」

 佐藤は笑いながら、バイクを出庫する。今度はお金が必要だった。五百円を支払う佐藤を見ながら、郁は精算機を指差す。

「こういう、些細なお金もさ。出して貰ってるわけじゃない? 更に奢れって面の皮厚すぎない?」

「そーかな。君がいてもいなくても払うお金だけど?」

「バスで行くお金が浮いてるよ?」

「二人共バス代払うより安いじゃない」

 佐藤は分からん、とばかりに笑うが、郁を馬鹿にしている様子がない。佐藤は、そこが良いと郁は思う。

「この駐車代折半って言ったら、佐藤君は怒る?」

「何故怒る?」

「本当は出したいの。でもあんまりお金に細かいのもなって、思うわけ。自分が出した側ならこの位いいよいいよってなるけど、それを思うと、佐藤君もいいよいいよって思うかな、とか。逆に細かい女過ぎて、引かない?」

「お金ないのに出したいってのが良く分からんけど、怒りはしないでしょ」

「お金ないのとみみっちいのは別よ」

 分からん、とやはり佐藤は笑う。ヘルメットと上着を手渡され、郁は三度目のそれに慣れた手つきで流れるように装着する。

「さっきの洋食店で例えるとね。千五百円、っていうのを気にしてメニューは見てないの。余分に持って来てるのもあるし、どうせ食べるなら百円足りない、とかで選びたくないわけ」

「それは分かる」

 佐藤もヘルメットを装着し、バイクに跨る。

「スタバも同じ。どうせ飲むなら、お金ないしカスタマイズはなしで、とかそういう考え方は嫌なの。奢られるのが嫌って言うのは、そういう事が出来ないからっていうか。相手のお金と思うと、カスタマイズしたいけど相手に余分なお金を使わせるしなって、考えちゃう。そんな事考えずに飲みたいものを飲みたいから、自分で頼みたいの」

「ほうほう。話が戻って来た」

 笑う佐藤の肩に掴まり、郁はひらりとバイクに跨る。慣れとは素晴らしい。

「それに、高校生が奢るよって言ってくれてもだよ? それって、君の親のお金でしょ? って思っちゃうのよね。君の親が君を育てる為に稼いだお金であって、それを私が享受するのは絶対違う」

「自分で稼いでから言えって話だ」

「んー。それでもあまり奢られたいとは思わないけど」

 行くよ、と言い置いて、佐藤はバイクを走らせ始める。その背中に巻きつく事にも抵抗がなくなり、むしろ少し暖かいとすら感じ始めていた。

 運転中、佐藤は喋らない。喋られても聞こえない事もあるだろうが、運転に集中したいようだった。

「君がみみっちいと思う金額と相手もそう思う金額に齟齬があった場合、それはうまくいかない関係なんじゃない?」

 信号で止まると、佐藤はそう切り出してくる。

「というと?」

「割り勘した時の端数とかでさ、そのくらいもういいよって思う金額がやっぱり人によって違う訳でしょ。十円単位なのか、百円単位なのか、千円台でもいいのか。その端数をそれくらい、って思う金額の価値観があってないと、うまくいかないと思うんだよね、俺は」

 佐藤は信号をちらりと見てから、続ける。

「百円単位でもそのくらいでみみっちい、って思う人は、缶ジュースを奢るなんて平気な事だし、十円までぴったり割り勘したい人は、そもそも奢ってあげようなんて発想はないかも。一万円でも端数でしょ! なんて富豪は、じゃんじゃん奢ることを何とも思わないし、むしろ奢られてくれないと俺がみみっちいじゃん、ってむしろつらいのかも」

 ぶおん、とエンジン音がする。信号が変わるらしいことを、バイクの音で知る。

「相手だってさ、好きな人にみみっちいと思われたくないわけで。君が百円単位でも分け合いたいっていう考え方なのなら、そこの価値観が同じ人となら、長く付き合っていけるんじゃないって思うけどな」

 価値観や好みの話だから、と佐藤は身を少し前に乗り出す。バイクが、動き出した。

「……佐藤君は、どうなの」

 郁は、ぽつりとその背に聞いてみる。

 缶ジュースを奢ろうとしてくれる彼は、百円、二百円では何とも思わない価値観の人間、という事だろうか。

(相手が百円くらいでみみっちいと思うタイプの人間だったら、奢られてあげない事はむしろ、相手の自尊心を傷つけたりするのかも)

 相手にとっても財布に優しいのだからと思って来たが、郁はもしかすると、彼らの自尊心を傷つけた事があったのかもしれない。郁が割り勘でと言って、助かったと思ってくれた人こそ郁との金銭感覚という意味での相性は良く、この位のものも奢られてくれないのかと思った人とは、合わなかったという事だろう。

 佐藤は一体、幾らくらいまでなら平然と奢ってくれるタイプの人間なのだろう。最初から所持金を宣言し、奢られたくないと言った郁はもう、本当の意味でそれを知る機会は与えられない。

「合わなくても、合わせるって事が出来たらそれはそれで、うまく付き合っていけると思うけどね」

 考え込んでいた郁は、はっと顔を上げる。いつの間に目的地に到着したのか、佐藤は降りるから離してくれと言わんばかりの顔で、首だけでこちらを振り返っている。慌てて手を離す郁から解放されると、ひらりとバイクを先に降りた。

「難しい顔してたから、まだ考えてるのかと思って。違った?」

「あーいや、そうだけど。合わせられたら、付き合っていける?」

「いけるんじゃない。相手の考え方を知って、そうしたい人なんだって分かって、それに合わせようと出来るなら、思えるなら、それって相手が好きって事でしょ。全く同じ価値観の人間なんていないんだから、合わせたいと思って合わせないと。そうして上手くやっていこうとするのが恋人とか、夫婦とかなんじゃないの」

 郁はヘルメットをのろのろと脱ぎながら、思う。

 今、ここでスタバの珈琲を奢るよと佐藤が言ってくれたとして。自分は、奢られる事が出来るだろうかと考える。好きなカスタマイズをして、ちょっと甘いものを添えて、と遠慮なく注文をしたら千円にはなる。

 ヘルメットを片付け、チェーンをかける佐藤の背中を眺めながら、自分に奢って欲しいと言えるだろうかと考える。

(いや、そもそも佐藤君が、どの程度なら奢ってもいいと思う人なのか、分からないけど)

 缶ジュースは奢れても、スタバは無理かもしれない。否、彼は社会人である。奢れない、ということは持ち合わせ的におそらく、ない。それをしてあげても良いと思う人か、嫌だと思う人か、それが問題だ。

 郁が頼めばおそらく、佐藤は奢ってくれる。でも、嫌々奢られたのでは、相手に合わせにいくという冒険に挑戦し、自らも傷つく結果となる。本当は奢られたくなかったのに頼んで、嫌な顔をされる。最悪だ。

「うわ、やば。すんごい場違い。何頼んだらいいの、これ」

 佐藤は中に入る前から怖気付き、看板の前を離れない。

「佐藤君はさ」

「んー?」

「好きな人には、奢ってあげたい方? 奢るよって言って、嫌だって言われたら傷つく?」

 まだ考えているのか、と佐藤は言わない。看板を上から下まで舐め回すように見ながら、こちらに視線を向ける事なく言う。

「時と場合によるけど。スタバくらいなら、奢るよ全然。当たり前のように奢ってくれるよねって顔してる人は、ちょっと苦手」

 奢るけどね、と佐藤は小さく笑う。

「働きもしないで奢ってっていう人は、まあ、友達になれないよね。価値観が違いすぎて。好きだから奢ってあげるのであって、そういう考え方の人好きにならないから、そもそも奢ってあげる日は来ないよね」

 言って、佐藤はくるりと郁を振り返る。どきっとした郁に、佐藤はきらきらとした目で看板を指差す。

「これ、聞いたことある。フラペチーノ。どんな飲み物か知らないけど。美味い?」

「甘いの好きなら、美味しいよ。私はキャラメルが好き」

「あー、俺も好き」

 へらっと笑って言った佐藤の言葉に、郁は胸がひりひりと痛むのを感じる。キャラメルが好きだと佐藤は言ったのは分かっているのだが、その笑顔をこちらに向けて言うのは反則だ。

「じゃあこれにしようかな。同じのにする? 奢ろうか?」

 問われて郁は、徐に顔を上げる。

 奢られる事が嫌いだと言った郁が悩んでいる事に気づいてか、佐藤は敢えて、そう言ったように見えた。郁がどう答えるのか、郁の中で答えは出たのか、確かめようとしているように思える。

 佐藤は、好きな相手だから奢るのだ、と言った。それは郁の事を多少なりとも好きだということなのか、この位の額はそんな気持ちがなくとも出せるものなのか。

 郁は何度も顔を上げては俯き、考える。その様子をじっと見守っていた佐藤は、ふはっと笑ってスタバに入っていく。

「見かけによらず生真面目だよな、君。ま、次会う時までに考えといてー」

「……え」

「いつかもう一回聞くわ。今日は割り勘で。そんなことより、注文、先にやってみせてよ。真似するから」

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