第12話

 もっと何か、あったのでは。

 昨日郁は、切れた電話を呆然と見つめ、ぼすんと枕に向かってそれを投げつけた。

 本当に予定を確認しただけの、呆気ない電話であった。しかも、郁の別れの言葉を聞く前に、ぶつりと切られた。普通、電話はだらだらと長引かせるものだ、と郁は認識している。まだ切って欲しくなかったと思ってしまった自分に腹が立つ。そう思って欲しかったのは、あちらの方だ。

 郁は悶々としながら歯を磨き、悶々としながら翌日の服を選んだ。

 初デートにして、最後のデートになる可能性は無きにしも非ず、これだけは手を抜くわけにはいかない。

 郁は佐藤の好みが分からず、随分と苦労した。綺麗目が良いのか、可愛らしい系が好みなのか、はたまたボーイッシュか。電話で好みを探ってから決めようと思っていたのだが、何も分からないまま、否、質問する機会すら与えられず電話は打ち切られた。思い出すと腹さえ立ってくる。

 だからといって、メールで尋ねる事を郁は頑としてしなかった。服を選ぶのに時間をかけているなどと、落とそうという相手に知られたいものではない。スマートに、しれっと着こなして現れた姿に驚いて欲しい。

 郁は、一時間かけて服を選んだ。花のような可憐な女の子を演出すべきかと散々迷い、何をしてくるか読めない佐藤が、山登りをと言い出したとて対応してやると、結局ボーイッシュな服装をチョイスした。ひらひらと大きい、花のような袖口で女の子らしさもアピールしつつ、細身の体を見せつけんばかりにぴたりとしたパンツを選んだ。

 念入りに化粧もする。けばけばしくないように、素材の良さを最大限に生かせるように薄付に重きを置き、丁寧さを心がけたメイクをする。リップは薄いピンク色、色白をこれでもかと見せつけてやる。髪を丁寧に巻きつつも、ざっくりと束ねてシンプルな黒い野球帽を被る。しゃらしゃらと揺れる大きめのピアスが映える。

(無反応だったら、容赦しない)

 郁は約束の十分前に到着した駅前で、しっかりと充電を済ませた携帯の画面で時間を確認する。長く待っているようで、時計を見る度に一分しか経っていない事に眩暈がする。

 佐藤が時間に遅れるとは思っていなかったが、三分前になると少し、不安になる。来る途中で何かあったのではとアプリを開く回数が増え始めると、郁は激しくなってくる動悸に思わず昨日佐藤と腰を下ろした丁度その場所に、座り込んだ。ちらちらと視線を感じるが、話しかけて欲しくない。ナンパの類は慣れているが、今はあしらうのも億劫だった。

「大丈夫?」

 俯く郁の頭上から降って来た言葉に、放っておいて、と言いそうになって、郁はばっと顔を上げる。

「……佐藤君」

「ん? 大丈夫? 遅れた?」

 佐藤は時計を確認し、言う。次いでセーフ、と口走ったところから鑑みるに、おそらくは間に合ったのだろう。郁は自分で時間を確認する事もなく、ぼんやりと自分を見下ろす佐藤を見上げる。息苦しかった筈が、すっかりと呼吸は安定していた。

「制服じゃないから、ちょっと声かけるの躊躇った。いいね、ボーイッシュで」

 じわり、と胸が熱くなる。一時間も悩んだ服装に触れて来なければ詰ってやろうと思っていたが、佐藤は可愛い、可愛いと照れるでもなく笑って言った。途端に溜飲が下がって、そりゃあそうよ、などと可愛くない事を口走る自分がいる。

「気分悪い?」

 そう尋ねて来る佐藤は、実にシンプルな装いであった。真っ白なシャツに、薄手の紺の上着を羽織っている。下はジーパンで、足元は運動靴だ。目深に被った真っ黒の野球帽だけが何だかお揃いのようで、ペアルックに見えたら恥ずかしいな、などと考える。

「帽子被って来てくれて良かった。髪が崩れたら、やっぱ嫌だろうし。女の子は」

「……どういう意味?」

「ヘルメット被って貰わないといけないから」

 へるめっと、と郁は自分でも信じられない程間の抜けた返事をする。最後に被ったのは、おそらく幼児の頃だ。それほどまでに馴染みがなく、覚えのないワードに唖然とする他ない。

 アスレチックにでも行くつもりかと、郁は心の準備をする。山登りにも対応できるようにと考えた自分は強ち間違っていなかったかと、郁は昨日の自分を絶賛しかけた。

「バイクは後ろもヘルメット。危ないだろ」

「……バイク」

「バイク。大丈夫、大型じゃないけどちゃんと二人乗り出来るし、一年経ってる」

「バイク!?」

 ばっと立ち上がると、郁は辺りを見回す。それらしきバイクを探す郁に気が付いてか、佐藤は駐輪場の方を示す。

「ちゃんと一旦停めて来た。今ならまだお金取られる前かも。体調大丈夫なら、急いで急いで」

 佐藤に続きながら、郁はあまりにも想定外の交通手段に、動揺を隠せない。

「ば、バイクって。言っておいてよ! スカートで来てたらどうしたの!?」

「大丈夫大丈夫、ちゃんと膝にかけれるもの持ってきてるし」

 佐藤は駅横の駐輪場から、バイクを引き上げてくる。停めて間もない事もあってか、どうやら料金は発生しなかったようである。

 郁は目の前にでんと置かれたバイクを、まじまじと検分する。想像していたような大きなバイクではない事になんとなくほっとしたが、逆の不安が胸をもたげた。

(これ、結構密着しない?)

 どこをどう見ても、大人二人が座るには席幅が狭い。いくら郁が細くて小さいとはいっても、体と体の間に拳三つ分、などという悠長な距離は見当たらない。

「移動楽だし、交通費かからないし」

 それはそうだけど、と郁はやはり、バイクを凝視する。密着度も懸念材料の一つではあるが、単純に車と違って生身で公道を突っ走る恐怖もある。

 逡巡する郁の前で、佐藤はヘルメットと上着らしき長袖を突き出してくる。

「これ被って、これも羽織って、君の席はそこ」

 郁は促されるままに帽子を脱ぎ、ヘルメットを被りつつ言う。

「私の席がここで、佐藤君の席は?」

「ここ」

 想像通りの返答に、眩暈がする。こことそこの差が微塵もない。

 佐藤はヘルメットを被りながら、慣れた様子でバイクに跨る。早く、と目で促され、郁は渋々それに跨ろうとしたが、思ったよりも幅がある。どうしても佐藤を掴まない事には、跨ぐ事すら出来なかった。

「ちょっと、失礼して」

 郁は渋々佐藤の服を掴み、足を振り上げる。ヒールで来なくて良かったと自らを褒め称えたものの、やはりぐらりとぐらついた。

 ひぇ、と小さく可愛くもない心からの悲鳴が漏れたのと、佐藤が郁の腕を掴むのが同時だった。危うく後ろにひっくり返りそうになる郁を片手で支えながら、佐藤は苦い顔で言う。

「ほら、しっかり掴まって。服なんか掴むからだよ」

 郁がきちんと二本の足で立ったのを確認してから掴んでいた手を離し、佐藤はばんばんと、自らの肩先を叩く。そこを掴めというのか、と睨め付けるように見遣り、郁は唇を尖らせる。

「お触りは、禁止なんですけど」

「そっちが触るには問題ないでしょ。こっちのお触りは禁止してない。ほら、早く。遅れる」

 映画の時間があったんだった、と郁は仕方なく、今度は遠慮なく佐藤の両肩を掴むようにして足を振り上げる。何とか跨がれた。居心地の良い位置に座って漸く佐藤から手を離したが、何も持たずに走る車上で体勢を保てる自信は皆無であった。

 腰にでも手を回せというつもりだろうか。

 郁はそわそわと何か持つ場所はないかと周囲を窺う。後ろから抱きつくなど、出来よう筈がない。

「後ろの、荷物置くところ。そこを後ろ手に持ってたらいいから」

 佐藤は首だけで振り返り、言う。流石にしっかり掴まって、とは言わなかった事に安堵しつつ、郁は言われるがままに荷物おきに手を添える。

「行くよ?」

「ど、どうぞ」

 どきどきしながら応じた郁だったが、先程までの逡巡は身の危険に際して形を潜める事となる。

 走り始めると同時に、郁は恐怖のあまり佐藤にしがみ付いていた。おそらくスピードを殺して走ってくれているのだろうが、慣れぬ感覚に郁は恐怖に取り憑かれ、頭を佐藤の背中に擦り付けるようにして飛び付く。

「こ、怖いいぃぃぃ」

「いって、痛いいたいいたい!」

「ちょっと待って、怖すぎっ」

 郁が泣き言を叫び散らしていると、佐藤は信号で止まった時に、首だけで振り返って言った。

「しっかり掴まってな、怖くないから。顔あげて。頭だけぐりぐりすんの止めて、痛すぎるっ」

 郁は止まっている事もあって、のそのそと頭を上げてみる。しっかりとしがみついていると、確かにバランス的には不安はない。どうにも頭の置き場に困った郁は、右側を向いて、ぽすんと横向きに佐藤の背中に頭を預ける。

「あー、そのくらいだったら平気」

 心臓の音が聞こえそう、などと少しどきっとしたが、バイクが走り出すとやはり、それどころではなかった。

 映画館に着いた時、足元がふわふわとして上手く立てなかった。

「降ろしてあげるから、ちょっと待ってて。とりあえず、離す」

 言われて郁は、恐る恐る、佐藤にしがみついていた手をそっと外す。バイクはすっかり止まっており、佐藤は郁を座らせておいたままバイクを降り、停める。一瞬車体がぐらついて、バランスを辛うじてとった郁はまたしても、ひゃっ、と心の底からの悲鳴が漏れた。

「そんなに怖かった?」

 佐藤はヘルメットを脱いで左脇に抱えると、ん、と右手を差し出してくる。

「どうぞ? お姫様」

 茶化されているのはありありと見てとれたが、悪い気はしない。そろりとその手を取ると、郁は勢い良く飛び降りた。足がふらつき、佐藤に背中からもたれかかるようにして体が止まる。

「あはは、生まれたての子鹿」

 笑いながら、佐藤は自分にもたれかかって来る郁のヘルメットを、すっぽりと脱がせ、顔を覗き込んでくる。佐藤の胸に頭を預けたまま見上げると、見下ろしてくる佐藤と目が合って、一瞬心臓が止まったかと思った。

「お、お触り、禁止っ」

 力なく言う郁に、佐藤はヘルメットを持った両手を上げる。

「触ってませーん。壁扱いされてるだけです」

「うっ」

 確かに、自分がもたれかかっているだけだった。郁はよろよろと自分の足で立ち上がり、乱れているであろう髪を手櫛で整えるようにして帽子を被った。佐藤もそれに倣う。

「よし、それじゃあ行こう」

 映画館の入る建物は複合施設になっていて、一応飲食店も入っている。佐藤にあの洋食店への拘りがなければ、ここで済ませても良いレベルには、選べる程度の店が並ぶ。

 エレベーターで四階へと向かう。一階が飲食店、二階にはゲームセンターが入っている。三階は駐車場だ。時間が早いため、殆どのお店が今は閉まっている状態だ。

 無事に発券を終えると、佐藤は何食べる、とシアターフードのカウンター前で看板メニューを見上げる。

「腹減ってんだよね。フランクフルトと、ポテトと、普通にポップコーンも頼もうかな。君は?」

 朝からどれだけ食べる気だとは思いつつ、佐藤が口にした全てが気になる。少しずつ食べたいが、流石に全部は無理だ。ご馳走になる手前、あれもこれもは頼みづらい。

「えっと、じゃあ、」

 フランクフルト、と言いかけて、郁は黙り込む。大口を開けて頬張る自分の姿を想像して、それは少し恥ずかしいような気がした。

「ぽ、てと。ポテトとナゲットのセットになってる、あれ」

「ああ、それもいいね」

 佐藤は頷き、注文を始める。

「飲み物はどうする?」

「あ、お茶で」

 佐藤は目を丸くして一瞬黙り、定員さんに向き直って取り敢えず注文を済ませる。

「いるんだ、お茶頼む人って」

「いるから、あるんでしょ?」

 郁はメニューを覗き込み、首を傾げる。

「痩せてる人には、理由があるんだなぁ」

 痩せていると言われると、満更でもない。この素晴らしいプロポーションに、是非見惚れて貰わねば困る。

「俺は意外と、お茶って飲まないなぁ。ジュースか、水」

 食事時は水派か、と郁は記憶する。郁はお茶派だ。あまり水を飲む習慣はない。

「やっぱりそんなに食べないの?」

「どうかな。自分では、摂食してるつもりはないけど」

「まぁ、昼に分かるか」

 佐藤は商品を受け取りながら言う。小脇に挟んでいたチケットを郁が横から引き抜くと、ありがと、と感謝の言葉がある。佐藤は割と小さな事でも礼を言ってくれるのが、一つ、彼の良いところだと郁は思っている。

 始まったばかりの映画という訳ではなかったので、比較的空いていた。五分の一埋まっていようか、という程度だ。

「君は、後ろがいい派なんだ」

「あ」

 郁は席を確かめ、腰を下ろしながらはっと気がつく。

「あ、ごめんなさい。好みの席があった?」

 何気なくいつも通りの席を取ってしまったが、そういえば相手は叔父ではなく、佐藤だった。希望する席があったかも知れないと、今更気が付いた。

「いや、全然平気。どこでも見れる」

「佐藤君は、いつもどの辺りで見るの?」

「真ん中ら辺の、端っこ。既に座ってる人の前を通るのが嫌でさ」

 分かる、と郁は笑う。席の話題でも広がるんだなと、しみじみそんな事を考えながら、手渡されたお茶をフォルダーに挿す。

「後ろはあんまり来ないけど、背後気にしなくていいって、割といいね」

「そうなの。後ろの人の迷惑かもと思ったら、こう、もぞもぞ上映中に動きにくくて」

「足組み替えにくいとか?」

「そう!」

 郁は、はっと口元を押さえる。まだ幕間とは言え、声のトーンには気をつけねばならない。

 佐藤は郁の膝にポテトとナゲットの載ったトレーを置き、自らはフランクフルトを頬張る。

「前と後ろを分ける通路あるでしょ。あそこの席も割といいよ」

「ちょろちょろ人が通るのに?」

「上映始まってしまったらそんなにだよ。思い切り足伸ばせて、案外快適」

 前のスペースが広いからかと、郁は得心がいく。確かに足元は割と狭い。

「今度座ってみる」

「是非」

 ふふと笑いながら、佐藤はあっという間に自らのチョイスしたフードを食べ切った。残るポップコーンを郁との間の肘置きに載せる。

「一緒に食べよ」

「えっ。でも、これ買って貰ったし」

 郁がポテトを摘み上げながら言うと、佐藤はふはっと笑った。

「ほんとはフランクフルトも食べたかったでしょ。流石に齧りかけ半分あげるのは躊躇ったけど、これは一緒に食べれるから。ご遠慮なく」

 はい、と差し出されたポップコーンは一人で食べるには量があって、大きめのサイズをその為に買ってくれたことに、郁は感動する。

「……どうして、食べたいものとか、分かるの? 昨日だって、私の見たい映画当てたでしょ」

「どーしてかなぁ」

 ふふっと笑うだけで答えない佐藤を追求する暇なく、幕間は終わりを告げた。

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