第10話
病院に寄り、郁も当然のように面会を申し出たが、はっきりと断られた。遠距離恋愛中且つ、休みを利用して遊びに来ているという設定の彼女が連日制服姿ではおかしいという至極真っ当な理由で、ぐうの音も出なかった。正直、私服で来ていたとしても断られたとは思う。
佐藤に連れられて病院に入った時よりも、外から眺める病院の方が郁の心を苛んだ。ひっそりと聳える病院は、煌々と電気がついている筈なのに薄気味悪く、空気が悪い。それに背を向けて壁にもたれる郁は、じっと佐藤が出てくるのを待つ事にも苦痛を感じていた。あの日、待っていて戻って来たのは死んだ両親だった。
郁は、待つ事も好きではなかった。
約束の時間までは問題なく待てるが、遅れられると動悸がする。何かあったのではと、考えてしまうからだ。故に、郁の中で遅刻して来る人間は選考外である。
郁はしゃがみ込み、膝を抱くようにして小さくなり、佐藤を待つ。
(直ぐって、どのくらいよ)
郁は泣き出したいのを堪えつつ、膝に顔を埋める。佐藤は直ぐに戻ると言って面会に行った。直ぐ、が五分や十分を想像していた訳では決してなく、母親との貴重な時間を奪うように急かしたい訳では決してない。むしろ、予定があるといっていた佐藤に無理やり会いに来たのは自分であって、一時間でも二時間でも、待つが道理であると頭では分かっている。分かってはいるが、じわりじわりと襲いくるトラウマは、理性では制御出来ない。
(ここが病院だと思うから、駄目なのよ)
郁はすっくと立ち上がり、背にした病院を見ないようにして、辺りにあるものに目を向ける。ここでまた泣き出しでもしたら、佐藤を驚かせてしまう。いい年した高校生として、早々泣き顔など晒せない。
近くには大きな神社があって、警察署があった。
美しい景観を誇るであろう巨大な鳥居とその先にある筈の参道は闇に沈み、むしろ怖い。警察署は側にあると何となく安心するが、見ていて面白いものでもなかった。
(別の事を考えよう、別の事)
郁は携帯を取り出し、特に用がある訳でもないのに現在は佐藤と連絡をとるためだけにあるアプリを起動する。結局仕事が終わったとの報告をメールで受けることはなかったので、「今何してる?」という郁のメールで終わっていた。
(とりあえず、ここを離れよう。そうしよう)
何も病院の前で待っている必要はないと、郁はメールを打ち始める。病院の近くにもコンビニがある。来る時に通ったが、イートインコーナーもあったように見受けた。
「近くの、コンビニ、で、」
打つ文字を直ぐ側で読み上げられて、郁はぎょっと携帯を抱えるようにして飛び退く。いつの間に出て来たのか、佐藤が立っている。
「び、びっくりさせないで」
郁がからがら言うと、佐藤は首元を掻きながら笑った。
「ごめんごめん、お待たせ」
佐藤の笑顔に、郁はほっと胸を撫で下ろす。肩に入っていた力が、漸く抜けたような気がした。
「……もう、人のメールを覗き見るなんて。佐藤君宛じゃなかったらどうしたの」
「彼氏に見せられないメールなんてある?」
にやりと笑った佐藤に面食らいながら、既にゲームは始まっているのかと郁ははっとする。
「プライバシーは大事にする派なの」
「それは失礼。もう見ない」
佐藤はあっさりと彼氏ムーブを終え、殊勝に謝る。
「コンビニが何? 寄りたいの?」
問われて、郁は打ちかけのメールを削除しながら答える。
「コンビニで待ってるからって、打とうと思っただけ」
「そ。この後どうする? もう話も終わったんでしょ? 帰る?」
郁は視線をずらし、手にしたままの携帯の時刻を確認する。丁度十九時になる所で、門限を考えるとやはり、ゆっくりと二人きりの時間は取れない。
「送って貰ってもいい?」
「うん」
歩き出しながら、佐藤は当然のように言う。勝手に押しかけた身としては申し訳なく思っていると、佐藤はそうだ、と思い出したように言った。
「そういえばさ。昨日君の家の近くで、帰りに美味しそうなお店見つけた」
「何のお店?」
「洋食の。看板が垂涎ものだったんだけど、ちょっと入りにくかった。一回一緒にどう?」
言われて、郁は目を丸くする。まさかの、お誘いだ。珍しいと思ったと同時に、彼氏ムーブの一環かと胸の中でぽんと手を叩いた。
「いいけど、どうして入りにくかったの?」
「小洒落てて。こんな薄汚れた格好の男一人では、ちょっと」
ああ、と郁は笑う。
「そしたら、明日の待ち合わせ、そこにしない? 見る映画も決めなきゃだし。朝から開いてるかな」
「いやぁ、十一時からとかだった気がする。ランチかな。それに、それで予算不足になりそう」
「洋食は結構するもんね」
郁は教えてもらった店のサイトを調べつつ、ちらりと斜め前を歩く佐藤の背中を眺め、駆け寄る。
「ん?」
隣に並んだ郁に、佐藤はおっとりと笑う。横に並ぶと、その顔は当たり前ながら良く見えた。
「いや、彼女だから。並んで歩こうかなって」
「ああ。荷物、持ちましょうか? 彼女さん」
佐藤が荷物をと言ってくれた事が、まさかの初めてである事に気が付いた。大した重さではないので持って欲しいとは思わないが、そういえば歴代彼氏達は必ずと言って良い程そう言ってくれた事を思い出す。鞄一つ程度なら、預けた事はないが。
(佐藤君は、彼氏っぽいムーブを、して来ないんだな)
郁は、はたと思う。
夜道を送ってくれるは当然のようにしてくれるが、鞄を持とうとしてくれたり、道の車道側を歩こうとしてくれたり、そういう動きを佐藤は基本的にはしない。
「あー、いや、大丈夫です」
郁はひやりとした気持ちを隠すように、苦く笑う。郁の鞄には、全くといって良い程物が入っていない。教科書類は全て置いてきた。学校の帰りにそのまま来たと思っているであろう佐藤に、なんとなく、自宅でのんびりと休んでから来たとは知られたくなかった。会いたくて会いたくて駆けつけた彼女、くらいに思われた方が都合が良い。
佐藤は郁が断った事にしつこく言い寄るタイプではなく、そう、とあっさり手を引っ込める。
一瞬しん、と沈黙が落ちただけで、郁ははらはらする。会話は相手が繋いでくれるものであったし、会話が続かず沈黙が降りたとしても気にした事はないが、相手を落とそうというつもりで考えてみると、間を持たせられないのは失策では、と不安になる。
(落とすって、具体的に何をするもの?)
郁は困惑を極める。思い立ったのが今のさっきであるだけに、下調べも出来ていない。とっかかりすら掴めず、早々に途方に暮れる。
(――あ。手とか、繋ぐのか)
擦り寄られて嫌な男がいるだろうかと一瞬思ったが、そもそも、お触り禁止令を発令したのは自分だった。いきなり手を繋ぎに行く勇気も、正直言ってない。
郁を振り向かせようとしてくれた、歴代彼氏達の事を思い出す。会話を切らさないように話題を作って、自分の事をたくさん話して、郁の事も知りたがってくれた事を思い出す。自らがその立場になり、頑張ってくれていたんだなと、しみじみと感謝の気持ちが生まれる。この感謝を知れた事もまた、成長だ。
「こ、この辺りってさ」
「うん?」
郁はなんとか話題を絞り出す。
「大きい神社とかあるのに、佐藤君はどうして平野公園で待ち合わせって言ったの? 工事してたお店からだと、ほら。いつものコンビニの方が近いわけで」
あー、と佐藤は天を仰ぐようにして言う。
「初めて会う女の子探すのに、人が多いとこじゃ探せなくない? 公園に女子高生一人で来てくれたら浮くかなって。探しやすいでしょ。連絡先も知らなかったし」
成程、と相槌を打つと、またしん、と沈黙が下りる。
「えーっと。次の仕事は、どの辺りで? 遠いってさっき言ってたけど」
「滋賀」
「県跨ぐの!?」
「普通だよ」
流石に社会人はスケールが想像を超えてくる。
「それ、本当に来週会えないじゃない」
「嘘言ってどうするの」
割と、ショックだ。勢い勇んで交渉を成立させたというのに、実質会えるのは、明日と明後日だけの可能性が出てきた。
「ちょ、ちょっと待って? 何時に帰って来るの? というかそもそも、佐藤君てどこに住んでるの?」
「家はこの辺だよ。病院まで徒歩圏」
もう少しあっちの方、と佐藤は西側を指差す。
「帰宅は何時になるかまだ何とも言えないけど、君の門限には間に合わないかな」
つまり、一分たりとも会えない、という訳だ。
「それは、……なんだか拍子抜け」
「ゲームにならない?」
「初めから結果は見えちゃったというか。因みに明後日は? 祝日」
「仕事」
「――もうっ!」
郁は堪りかねて唇を尖らせる。
「本当に、ゲームが始まりもしないじゃない!」
「そう言われましても。生活かかってるんで。そっちだって、学校休んでまで関係は続けない、ような事言ってたじゃん」
「何よ。私が学校休んだら会えるんですけど、とでも言いたげね?」
「言ってますよ」
さらりと言われて、郁は目を丸くする。
「……冗談よね?」
「だから、何で嘘を言う必要が? 土日祝に仕事入る事多いから、割と平日に代休があるんだよね」
「え。ちなみに、いつが休みなの?」
「水曜日」
佐藤との約束が終わる日だ。郁は困惑を隠しもせず、苦い顔を貼り付けて佐藤を見る。そんな郁に目を落として、ぷっと佐藤は笑った。
「あはは、見事な不貞腐れ顔!」
「休めって!?」
「言ってない、言ってない。ただ、休みですよーって事実をお知らせしたまで。だから、水曜の放課後は会えるよ。最終日の何時までだっけ? 期限は」
「午後、七時だけど」
「学校終わるの四時くらいだっけ? 三時間くらいある」
さもたっぷり時間はありますよとでも言いたげだが、果たしてカップルにとって、三時間はゆとりある時間だろうか。
とりあえず、会えないままさらりと終了、という事態だけは免れそうである。
「絶対空けておいてよ、水曜日!」
「うい」
佐藤は軽く言って、信号で止まる。佐藤に気を取られていた郁は、佐藤が遮断機宜しく差し出して来た手にぶつかるようにして止まり、信号の存在に気が付いた。
「佐藤君を落とすにあたり、質問いい?」
「んー? どうぞー」
「もてる?」
単刀直入に聞く郁に、佐藤は高らかに笑った。
「君の足元にも及びませんけどー」
「歴代彼女は?」
「一人だけでーす」
非常に微妙な感情が沸き起こった。一人だけかと一瞬喜んだ自分と、いたのか、とちくりと胸が痛む自分が混在する。自分をよくぞ棚に上げたものである。
「メール、いつも割と素っ気ないけど。嫌い?」
自分で尋ねておいて何だが、絶妙に反応に困り郁は話題を変える。
佐藤は信号が青でも、左右を確認してから歩き出す事に気が付いて、郁はまたしてもはた、と気付く。
(彼氏っぽいムーブはしないけど、なんか安心感があるんだよね、佐藤君て。こういう事なのかな)
話に夢中になる郁の注意力が散漫になっている事に気付いての行動なのか、佐藤は危険がないようにと、実にしれっと周囲を確認している。赤信号に突っ込まないように、万が一の暴走車にぶつからないように、佐藤は郁と自然に会話を交わしながら、こちらに視線も向けつつ、しかし誠細やかに周囲に気を配っている。
「時間による。だらだらとメールするくらいなら、ぱっと電話で済ませて寝たい」
「彼女相手でもそうだったの?」
「だから振られたんですかね」
はは、と笑う佐藤はすっかり吹っ切れているのか軽く言う。振られたんだ、と郁は心のメモに書き留める。
「生産性ないもんね」
「あ、分かる? それそれ」
郁の言に食いついてくる佐藤は、正に、と言わんばかりに力一杯振り返る。真っ直ぐに体を向けられて、郁の肩が驚きに跳ね上がった。
「おはよう、おやすみ、くらいは全然許せるんだけど、一時間おきに今何してるだとか、自分がしてる事の報告だとか? 夜まとめて話そうぜ、みたいな」
言いながら前に向き直りまた歩き出したが、歩き出す時、さらりと郁と歩く場所を入れ替えた。
(……車道側、歩いてくれてる)
気が付いてなかったんだ、と郁は自身に大いに驚いた。歴代の彼氏達がそうしてくれていた事には気が付いていたのに、佐藤がそうしてくれている事に、今の今まで気が付かなかった。思い返して思い出せるものではなかったが、もしかすると今までもこうしてさりげなく、立ち位置を変わっていてくれたのだろうか。
佐藤の心底嫌そうな横顔を眺めながら、郁は微笑ましくてくすりと笑ってしまった。
「じゃあ、電話は嫌じゃないんだ?」
「声聞ける方が良くない?」
問われて、郁はどきっとする。声が聞きたいと言われたような気がして、勝手な脳内変換に自分で自分に驚いた。
「あー、まあ、声が聞けるのもいいよね」
「逆に、メールの魅力って何?」
「……そう言われると、返答に困る」
そんな事を言われても、本当の意味での恋愛経験に乏しい郁にも、その魅力は今のところ分かっていない。
「電話よりも気軽に送れて、時間とか気にせず連絡投げっぱなしが出来るところとか?」
「まあ、出られない場所にいるときもあるしね」
その点では気楽か、と佐藤は一応納得してみせるが、真の意味で得心がいっていない事は、横顔を見ていれば分かった。
「夜、電話かけてもいい?」
郁が問うと、佐藤は可笑しそうに言う。
「落としてくれるの?」
「ごめん。そこまでのテクはない」
どちらかと言えば、対面の方が振り向かせられる可能性があると郁は思っていた。自分で言うのもなんだが、郁はやっぱり、顔が良い。そもそもの入口は容姿から、郁に好意を寄せてくれる人達もそうであったのだろうと思っている。
佐藤を落とすにあたっても、この容姿を最大限に活かす他、今のところ気を引く方法は思いついていない。目下、郁の顔に然程興味を持っている様子はないが、美人だ、とは言ってくれたような記憶がある。
佐藤は正直な郁の返答にやはり笑いながらも立ち止まる。いつも郁と別れる、駅前にいつの間にかご到着だ。
それじゃあ、と手を振る事で暗に別れを示す佐藤に促されるようにして三歩程進み、郁は立ち止まる。時計は現在、十九時半過ぎ。
携帯を開いて時間を確認し、考え込むようにして立ち止まったままの郁を不審に思ったようであるが、佐藤は様子を窺うばかりで話しかけてくる事はない。だからといって、郁を送り届けるという仕事を終えたとばかりに、さっさと立ち去ってしまう訳でもなかった。ただじっと、郁の出方を窺っている。
漸く郁が振り返って初めて、「ん?」と小首を傾げるようにして微笑んだ。
「……もうちょっとだけ、一緒にいてもいい?」
目を丸くしたのが佐藤で、攻撃を受けたのは通行人だったようだ。可愛い、とくすくす忍び笑いながら通り過ぎていく大人の姿がちらほらと視界に映り、郁は血が昇って来るのを感じた。耳が熱い。
真っ赤になって俯く郁に何を思ったのか、佐藤はすすっと近寄って来ると、郁の顔を隠すように至近距離で立ち止まる。俯く郁の髪が、佐藤の胸に触れたような気がした。
「あと、何分くらい平気?」
揶揄われたら死ねる、と震える郁に、佐藤は単調に尋ねた。淡々と問われて、郁は心の底からほっとする。
「……十、五分」
「ん。じゃ、そこ座ろう」
佐藤が視線を向けた先には、駅へと続くスロープがあって、街路樹を囲う石段に腰を下ろせる。目の前にカフェもあったが、十五分でカフェは高校生には贅沢極まりない。
郁は俯いたまま、足早にそそと指定の場所に向かう。お世辞にも綺麗とは言えなかったが、さっと佐藤が砂埃を払ってくれただけで、郁は大いに満足した。佐藤が撫ぜた自らの手を見遣り、そんなに汚れないと思うよ、と言ってくれたからだ。落ちないような汚れが付かないであろう事に、安堵する。
郁が座ったのを確認してから、佐藤も隣に座る。距離にして拳三つ分、肩が触れ合う事に緊張するような距離ではない。
恋する乙女の言いそうな事を言ってみた、つもりであった。しかしながら、想像を絶する破壊力に、攻撃を受けたのはむしろ自分の方だった。相手にきゅんをお届けするどころか、自らが恥ずかしさのあまり誤爆した。
一緒にいて欲しいと言った割に、俯いたまま何も言わない郁に対し、佐藤は楽に座ったまま空を見つめる。そしてぽつりと、言った。
「さっき言ってた、洋食屋が見える」
「……え?」
「そこのビルの二階なんだけど。ほら」
指差されるままに視線を向けると、駅前のビルの二階に、確かにそれらしい飲食店が見えた。先程検索はかけたが、後でゆっくり確認しようと履歴を残しただけでまだじっくり見ていない。
「確かに、近いね」
「でしょ。で、あれが看板。お腹鳴るから、満腹の時に見た方がいい」
ビルの入り口付近に看板らしきものが見える。食べ物が描かれているのは分かるが、値段などの細かいところまでは確認できない。
「私は帰ったら直ぐに晩御飯だから、見に行っちゃおうかな」
ふふと笑って言うと、佐藤もまた、狡い、と笑った。
「いやいや、考えようによっては、俺の方が早い。そこの牛丼屋に飛び込んだら、君より夕食に在りつくのは先」
「全く自炊しないの?」
「食べて帰る方が安くて早くて美味い」
「自炊の方が安いでしょ?」
「一人分作って安い事なんて今日日ないよ。三日分のカレーなら、確かに安くつく」
稼がぬ郁は世間を知らないようで、口籠る。これはまた恥を晒しただろうかと思わなくはないが、相手は社会人、こちらは学生だ。知らぬ事を知らぬと言っても、罷り通る筈である。
「一番好きな食べ物は何? 飲み物はリンゴジュースでしょ?」
「食べ物の好みも割と子供だよ。オムライスとか、ハンバーグとか、好き」
子供ねぇ、と茶化しかけて、郁は寸でのところで言葉を飲み込む。それがリンゴジュースと同じ理由で好きなのだとしたら、茶化すところではない。
「あー、そうなんだ。でも、その二つ嫌いな人いなくない?」
私も好き、と郁はへらっと笑った。
「俺の知り合いに、ショートケーキ嫌いな人いるよ。まじびびる」
「それはびびるわ」
郁が大きく頷くと、佐藤はだよな、と笑顔をこちらに向けた。
「分かり合えないわーと思った」
「甘い物も好きなんだ?」
「子供舌だからねー。まだマニアックなケーキなら分からないでもないけど、ショートケーキって」
「ショートケーキとチョコレートケーキ嫌いな人とは分かり合えない」
「チーズケーキ嫌いな人とも分かり合えない」
分かる、と郁が笑うと、佐藤も笑う。好みが似ているというのは、存外嬉しいものだ。嫌いな人の方が少なそうなラインナップではあるが。
佐藤が穏やかに話すので、時間もまた、おっとりと流れる。駅前だけあって、帰路を急ぐ者が流れるように郁の前を通り過ぎていくが、郁と佐藤を隔てる拳三つ分のこの空間にだけは、静かで緩やかな時間が流れているような錯覚に陥った。
ホームの発車ベルが聞こえてくる。高架を走り行く電車は郁達の頭上を優雅に走り去るが、今日はまだ、行かないで欲しいと郁は思った。電車が十分間隔で出る事を、知っていたからだ。
佐藤が身じろぐ。
時計を見ないで、と郁は口を突きそうになった言葉を飲み込む。そろそろ、と佐藤に言われるのが嫌で、郁は自ら立ち上がった。
「そろそろ、時間よね」
努めて明るく言うと、佐藤は時計を確認するように言って、うん、と微笑みつつ頷く。
先に立ち上がった事で主導権を握った気になった郁は、さようならと言われるのが嫌で、これもまた、先に口にする事にした。まだ一緒にいたいと思わないといけないのは佐藤の方で、郁はそれを振り切るように去る方の立場でいるべきである。
「……えっと、それじゃあ、また明日」
「夜、電話する」
佐藤に言われて、郁はぎょっとする。
「電話!?」
「え? だって、明日の待ち合わせ場所とか時間、何も決めてなくない? あ、メールがいい?」
「あ。ああ、ええ、そうね。ううん、電話がいい。何時頃が都合いい? こちらから電話するね」
電話が来るのを今か今かと待つのは、なんだか負けのような気がする。相手にその気持ちを味わわせ、じらすことでやきもきさせる。これだな、と郁は一人胸の中だけでにやりと笑う。
「あ、そう? この感じだと、九時には家にいるかな」
「分かった」
郁は三十分ほど遅れてかけよう、と心に決める。恋の駆け引きだと言って欲しい。
佐藤は立ち上がり、じゃ、と手を振る。郁もまた手を振り、背を向けた。
数歩歩き、郁は振り返りそうになった自分を叱咤する。まだ郁を見ているだろうか、見えなくなるまで見守ってくれているだろうかと気になって仕方がなかったが、後ろを気にしている事を気取られたら負けのような気がするのは何故だろう。
(きっと、ずっと見てくれてるよね)
郁は思い込もうと自分に言い聞かせながら、なんとか振り返りたい欲求を堪えてその場を去った。少しは恋人らしい空気をもてたような気がして、郁は大いに満足する。恋人らしい時間を共有する事で、自然と気持ちは付いて来る筈だと、足取り軽く、郁は帰路につく。
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