第9話

 三松、という名の現在の佐藤の仕事場であると考えられる店舗の住所は、既に調べてある。平野公園にて待ち合わせをする時間と三松の位置関係を鑑みるに、佐藤の終業は早くても十七時半、遅ければ十八時頃であると予想している。定時が十六時で、その後が残業だと言われたらお手上げだが、今ならまだ、三松へと向かえば間に合う筈だ。

 足早に歩を進めながら、郁はアプリを立ち上げる。

(『今、何してる』と)

 一応、既に仕事を終えている可能性等も考えて、郁は連絡を入れる。

 郁が把握している本日の佐藤の予定は、「仕事」と「病院」の二つだ。職場にいなければ、病院前で待ち伏せをしたら会えるだろうと思っている。

 即レスは来なかった。食事をしていたら返信は早い筈なので、まだ仕事中で間違いなかろうと、当たりをつけて郁は急ぐ。

 三松の前には、見るからに工事車と思しき車が二台停まっており、そこで仕事をする人間がまだいる事を外観からも窺い知る事が出来た。郁は呼吸を整えてから、そっと入り口から中を覗き込んでみる。

 ぱっと目に飛び込んできたのはカウンター席で、中は薄暗い。奥の暖簾がかった部屋だけに灯りがついていて、作業着を着た者の服が、暖簾の隙間から時折ちらちらと見えた。あまり人数がいるようには見えず、佐藤の姿も確認出来ない。

 流石に中に入るのはまずかろうと、郁は店の近くに佇み、誰かが出てくるのを待つ。約束もなければ、勝手にやって来ただけの郁としては、現況待つ他手がなかった。

(返信は、なし)

 相変わらず返信はない。携帯を見られる状況にない、という事は間違いなかった。

 どのくらいそうして待っただろうか、つい、と突然中から人が現れて、郁はびくっと肩を震わせる。佐藤ではないが、工事関係の人間であることは一目で分かった。

 小さく会釈をすると、男は不思議そうに目を丸くして、小首を傾げながらも会釈を返してくれる。

「なにか?」

 問われて、郁はほっとする。なんとなく、こちらから声はかけ難いと思っていた所だ。

「あの、佐藤さんは、今日は仕事されていますか?」

「佐藤? あー、いるよ。呼ぶ?」

 店内に戻って行こうとする男を慌てて制す為、郁は全力で両手を振る。

「いえ、いえいえ、大丈夫です。仕事終わるのを、待ってるので」

 男はまじまじと郁を見て、くすりと笑う。

「あー、彼女さん?」

「……あ、はい」

 一応、とは言わないでおく。

「いいよ、もう終わって片付けてるところだから。おーい、佐藤」

 男は中に向かって叫び、はーい、と奥の方から聞き覚えのある声が小さく聞こえた。

「なんです、……か」

 ひょっこりと顔を出した佐藤は、郁の姿を認めてぎょっと言葉尻を窄める。その手に握りしめた携帯の画面を徐にこちらに向けて、小さく、言う。

「……今、返信しようかと」

 見ると、「仕事が終わっ」まで打たれたメール画面が開いたままだ。

「なんだよ、約束があったのか。もう帰っていいぞ、俺達ももう出るから」

 更に後ろから先輩らしき男が一人現れる。工具らしきものを下げており、車に荷を積みながらそう佐藤に言った。ちらちらと見られている視線を感じながら、郁は俯く。非常に居心地が悪い。

「いえ、片付けてから出ます。ちょっと、あのコンビニで待ってて」

 最後の言葉が郁に投げかけられたものだというのは、直ぐに分かった。仕事の邪魔になっている自覚はあるだけに、郁は小さく頷きつつもぺこりと頭を下げ、コンビニに向かって走る。茶化されていると思しき喧騒がちらりと耳に入り、何だか申し訳ない気持ちになった。

 近くのコンビニに入ると、郁は飲み物を買った。それを提げてコンビニ前に佇み、佐藤を待つ。本当に仕事は終わっていたようで、殆ど待たされる事なく、合流する事が出来た。

「……約束、してたっけ」

 佐藤は郁の姿を認めると、息を切らしたまま近寄ってきてそう言った。郁は首を振りつつ、手にしていたリンゴジュースをすっと佐藤に差し出す。

「お疲れ様。ごめんね、勝手に来て」

 ジュースを見つめ、佐藤はおずおずとそれを受け取る。

「くれるの?」

「邪魔したお詫びに」

「……それじゃあ、遠慮なく。ありがとう」

 佐藤は喉が渇いていたらしく、目の前で直ぐに開封する。半分ほどを一気に飲み干してようやく一息つけたのか、それで、と佐藤は郁を見た。

「ご用件は?」

 郁は苦く笑う。怒っている様子はないが、切り出し難い。

「えーっと、もうちょっと落ち着いて話をしたいんだけど、今から病院?」

「長くなる?」

「佐藤君の反応によるかな」

「何それ」

 佐藤は吹き出すように笑い、郁はほっと胸を撫で下ろす。

「病院寄ってからでいい? 今日は早いし、どこかで何か食べる?」

 佐藤は自らの時計を見る。携帯の画面ではなく、腕時計を見遣る姿が妙に物珍しく見えて、郁は我知らず首を傾げる。初めて見る姿ではない筈だが目を惹いた。

「あー、えっと」

 郁は料理をしていた叔父の姿を思い出して、首を横に振る。

「晩御飯作ってくれてるから、家で食べるね。病院の後でいいから、ちょっと立ち話が出来たら嬉しい」

「おっけ。そしたら、ごめんけど先に病院に。最近寝るのが早いみたいで、遅くに行っても喋れなくて」

 言いながら、佐藤は病院の方へと足を向ける。三日も通えば、流石に郁とて道順は覚えた。佐藤に続きながら、郁はとりあえず、本題には触れずに当たり障りなく言う。

「工事、いつまでの予定なの?」

「三松さん? 俺は今日で終わり。来週からは別のところ」

「あ、そうなんだ」

「そうそう。来週は急に来てもいないよ」

 あははと笑う佐藤は、おそらく先輩に冷やかされたであろうに、小言一つ言わない。

「来週はちょっと遠くなるんだよね、現地。平日はちょっと会うの無理かも」

「えっ」

 郁は思わず小さな悲鳴を漏らした。佐藤との約束は水曜日まで、ど平日に終了だ。出鼻を挫かれたようで絶句する郁に、佐藤は目を丸くする。

「あ、契約上まずい?」

「……契約、って。ほんとに佐藤君は、なんとなく、終わりが来るのを待ってるだけって感じよね?」

「あ、いや、そういう訳じゃなくて」

「何度もいうけど、一応、声かけてきたのはそっちだからね?」

「ごめんて」

 佐藤が慌てた様子で両手を胸の前で合わすので、郁はここを好機とみた。

「ねえ佐藤君。佐藤君には、私を彼女として扱おうという気概が足りない」

「……はい」

 苦く笑う佐藤の胸を、郁は人差し指で突く。

「かくいう私も、佐藤君を振り向かせようという気概が足りない事に気がつきました」

「……はい?」

「というわけで、話の流れで今日来た理由を単刀直入に申しあげます。本物の彼女にしてもらえる為の行動というものをやってみたので、今日からそういったムーブを起こしたいと思います」

 佐藤はただただ首を傾げるばかりで、郁は返事を待たずに続ける。

「決して好きにさせるだけさせておいて振ってやろうとか、そういう事を考えている訳ではありません。ただ、佐藤君に私を好きになってもらえるだけの努力をさせて頂き、結果私も佐藤君を好きになるかも知れないしそうならないかもしれない、という話です」

「……彼氏として手応えがなさすぎて面白くないから、好きにならせてみせる、覚悟して臨めという話?」

「結構違います!」

 分からねぇ、と佐藤は頭を抱える。

「人を振り向かせる努力というものを私自身がやってみたい、というお願いなの。ほら、佐藤君、私に全然興味ないから。そういった経験をしてみたいから、実験に付き合ってもらえない? っていう、お願い」

 ああ、と佐藤は目を見開き、ぽんと手を打つ。

「俺の事を好きに見えるムーブを起こすけど、勘違いするなって事」

「さっきよりは近い」

 今度は郁が頭を抱える番だった。相手を不快にすることなく事情を説明する事が、極めて難しい。

「私としては私の虜にさせてやりたいから、好きになってくれたら喜ぶ実験なんだけど、決して佐藤君の気持ちを弄びたい訳じゃなくて。好きにならせておいて、水曜日すぱっとやっぱり別れますって結果にもなり得るけど、分かって欲しいのは、私も佐藤君に気持ちを向ける努力をちゃんとする、という事で。私だけが佐藤君を好きになるという結果にもなり得るから、対等というか、決して気持ちで遊ぼうとしている訳ではないというか」

「俺も君を振り向かせる為のムーブをした方が良いということ?」

「……そっ、」

 それは、考えたこともなかった。郁は言葉に詰まりながらも、まじまじと佐藤を見上げる。佐藤もそういった行動をとってくれるのであれば、正にそれは対等である。

「お互いをお互いが振り向かせる?」

「ゲームにしておいたら、お互い罪悪感がないよね」

 はは、と笑いながら佐藤は郁を見下ろす。

「残り四日じゃ、多分どちらも負けの引き分けが濃厚だけどね」

「そのゲーム、やってもいい?」

 いいよー、と佐藤は軽く言う。人の気持ちを試すようなゲームはしたくなかったが、あちらがゲームだからと軽く構えてくれるなら、郁にとっては願ったり叶ったりである。どれだけ郁の気持ちを説いてみたところで、そうはいってもやはり、逆恨みされる結果は避けられるにこしたことはない。

「こんな事言ったらまた怒られそうだけど、そもそも、このお付き合い自体がゲームみたいなものじゃない? 今のところ」

 真剣に臨んでいない事を怒るところかもしれないが、同じようにゲームらしきものを提案している郁としては、今回は深く追求出来なかった。

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