第8話
そんな叔父は、帰宅すると晩御飯の支度を始めるところだった。
「あれ、早いね郁」
叔父は帰宅した姪に驚いた様子を見せ、買い物袋から肉を取り出して見せる。
「昨日魚だったから、今日は肉。何、今日はずっと家にいるの?」
「うん。叔父さんは?」
「いるよ。ドラマの再放送見ようと思って」
へえ、と郁は小さく呟きながら、鞄を下ろす。カウンターで宿題を始めようとする郁に、叔父はふわりと優しく笑う。
「今の彼氏は? えっと、今回は誰君だった?」
「佐藤。佐藤君」
ああ、と叔父は鍋に火をかけながら笑う。叔父は郁が行っている彼氏十日間システムを把握していたし、心配をかけぬよう、彼氏を迎えた週には報告を入れるようにしている。彼氏のいる期間といない期間とでは、外食の機会にも増減がある。それを伝えておくことで、叔父に食事の必要がない可能性がある事を暗に知らせる意図も郁にはあった。
「珍しいね、彼氏のいる土曜のこの時間に郁が帰って来るなんて」
「同じ年なんだけど、社会人で。土曜日は仕事なんだって」
叔父は興味深そうに目を丸くする。
「へえ? なんでまた社会人と知り合う事に?」
そこやっぱり気になるよね、と郁は苦く笑う。かいつまんでこれまでの経緯を説明する。
「郁の美貌にくらりと来ない男もいるんだねぇ」
「好みってものがあるからね。これもまた、珍しい経験」
「郁に、その佐藤君とやらを落としてやろうという気がないからじゃないの」
言われて郁は、数学の宿題に落としていた目を上げる。
「……そうかな」
「落とす気、ないんでしょ?」
「まあ、確かに」
何度も言うが、こちらから好かれる努力をした事はない。あちらが郁にぞっこんで、始まる交際だからだ。むしろ郁を落とそうと躍起になっているのはあちらの方で、そもそも、郁から相手を落とす為の行動をとった事がない。
「郁と同じように、実際佐藤君ももてるタイプで、不自由していないのかも知れないし」
言われて、郁は考え込む。今後、佐藤のように郁に一切興味を示さない男が現れるのは、いつになる事だろう。この先恋をするにあたり、郁の方が一目惚れをする可能性が全くない訳ではなく、郁から行動を仕掛けて相手を落とす必要性に迫られないとも限らない。
「確かに、こちらから迫る良い経験が出来る機会かも」
「いや、そういう事が言いたかった訳じゃないけど」
叔父は笑って手を全力で振り、否定を示す。
「落としてみなよ、ってけしかけてる訳じゃないよ。ただ、郁に落とす気があって落ちない男なんていないんじゃないの、って思っただけの話で」
「けしかけられてるように聞こえたけど?」
「そう聞こえたなら謝るよ。郁の方から向かっていくというのは良い経験になるとは思うけど、その気のない男をその気にさせるもんじゃない。男は割と繊細だから」
郁は、十日間の恋人を募るにあたり、目的としているものがある。郁を好きだと言ってくれる彼らと真摯に向き合い、数多ある考え方の一端に触れ、人間としての経験値を上げる事がまず、その一つである。
ただし、最初から経験値を積む事だけを念頭に置いて彼らと付き合う訳ではない。十日間の間に好意を持てる相手が現れたなら、十一日目以降にもお付き合いを続け、本当の恋人を得てみたいという目的もちゃんとある。恋人探し、これもまた、真実である。その相手に未だ出会えていないだけだ。
ちらり、と郁はキッチンに立つ叔父を見遣る。
郁にとっての初恋は、この叔父であるという自覚はあった。志穂にも言えていない、この恋人探しの最後の目的の一つ、それはこの叔父への気持ちからの解放であった。
(いい男すぎる)
まじまじと見遣る叔父は、今年三十七歳を迎えるが、職業柄もあるせいか、非常に若々しい。二十代後半でも通る。
この叔父と手が触れ合って、胸が高鳴る事はない。炬燵で雑魚寝を決め込んでも間違いが起ころう筈もないし、それを望んだ事も全くない。そういった意味では、既に叔父に対する恋心はないに等しいが、今のところ、叔父以上に郁に安心を与える存在はいない。
叔父以上に心を寄せられる、安心できる相手が欲しい。それが今、郁が最も求めているものであった。
(保護者って意味もあるんだろうけど。男としても、十二分に目を肥やしてくれたもんよね)
おかげで、一年も恋人候補を取っ替え引っ替えしているというのに、未だに叔父よりも安心できると思える相手には出会えていない。
「はあ」
深い溜息を吐く郁の気など知らないで、叔父は苦い顔をして的外れな事を言う。
「佐藤君、落としたかった? 郁に気持ちがあるなら、それは全然、反対しないよ」
そんな気は更々ない、と言うのも億劫で、郁はまた一つ、溜息を漏らす。
「まあ、こちらに気持ちがないのが分かってるからこそ、佐藤君もその気になりようがない、っていうのは確かにそうなのかも」
「見た目で気持ちを左右されない人なのかもね」
調理が始まる音がする。夕食時にはまだ早いから、汁物の準備が始まったんだな、と検討をつける。
「落としにかかる。やってみようかな」
「純情を弄ぶような事だけは、ないようにね」
「その線引きが難しいよね。落としにかかるっていうのはさ、言い換えてみると、相手に自分を好きにさせるための努力を示す、って事でしょ? 相手の好みとか嗜好を必死で知ろうとして、考える」
「ま、そうだね」
「相手をよりよく知ろうという過程で、本当に私の気持ちがそちらに向くかもしれない訳じゃない? もっと知ってみたいかもって思ったら、それは気持ちの始まりかもって、思う訳」
うんうん、と何かを切りながら頷く叔父に、郁は座ったまま半身を向ける。
「それって、私の考える相手に向き合う事に矛盾しないのよね。結果として恋、とまでは思えませんでしたってなるかも知れないけど、それって相手の気持ちを弄んだ事になるのかな。私に言わせると、心から向き合った、っていう話なんだけど」
「そこは気持ちの問題じゃない? 郁に、自分を好きにさせてみせるっていうゲームのような感覚や気持ちがなくて、純粋に、相手と真摯に向き合う為に紡いだ時間だったと胸を張って言えるなら、それは郁にとって、真剣に向き合いました、でいいと思うよ」
「でも、相手は弄ばれたって思うかも?」
「猛烈なアタックしてきておいて何だよ、って思うとは思うけど。男は、単純だし」
「自分から向かっていった事がないだけに、ちょっとした実験のようになるかな、っていう認識はまぁ、ある」
やめておいた方がいいのか、と郁は肩を落とす。相手を傷つけたい訳ではない。
「佐藤君がどういう人物なのかは分からないけど、割り切って正直に言ってみるっていうのも手かもよ」
「というと?」
「私に興味がない貴方を本気にさせてみたいから、ちょっと実験に付き合ってくれない? みたいな」
郁の声色の真似をしているつもりなのか、叔父はワントーン高い声で言う。
「貴方を好きになる努力っていうのをしてみたいの、って?」
「結果本気になるかは分からないんだけど、やってみてもいい? みたいな?」
「叔父さーん。それ、最早ゲーム」
郁が苦く笑うと、叔父は冗談冗談、と笑った。
でもゲームか、と郁はすとんと胸に落ちてくるものを感じた。
おそらく、佐藤との関係はあっさりと終わる。
お互いに全く気がないまま、期限を迎え、それじゃあ、とアプリを消して、終わり。実際、佐藤を落としにかかってみたとしても、おそらく、佐藤は落ちない。今までのような付き合い方で、三日や四日で落とせるとは到底思えなかった。
こういう経験をしてみたいから付き合ってと頼んでみた場合、相手がそれに諾を示したなら、それは相手を弄ぶ事にはならないように思う。郁の方から行動を起こしてみる事への実験台になってほしいと、はっきり告げる。明確に意図を示す事で、相手を傷つける事はない。
「ありだな」
郁がぽん、と手を打つと、叔父は苦い顔をする。
「あ、よくないこと考えてる」
「いやいや、相手の気持ちを軽んじたりはしない。これ本当」
誘ってみる事を面倒だと思っていたのでは、自らを好きになってもらうための努力をした、とはお世辞にも言えない。
自分から行動を起こしてみる事を、今回のお相手、佐藤との自らの経験値を上げる為のミッションにすると、今決めた。佐藤ならば面白がって受けてくれる、そんな予感もあった。
「叔父さん、ごめん」
「んー?」
「ちょっと、佐藤君に会いに行って来る」
「晩御飯いらないようならメール宜しく」
叔父は調理の手を休める事なく、ひらひらと手を振る。郁は宿題を放り出したまま、自室に向かった。適当な服を手にとり、制服を脱ぎかけたところで、はたと我にかえる。
(私服披露するの、初か)
デートではないが、Tシャツにジーパンはまずい。男を落としにかかる女の服装ではない気がする。大いにする。
郁は時計を見遣る。十七時過ぎ、おそらく佐藤はまだ仕事中だが、向かう事を考えればあまり時間に猶予はない。
郁は脱ぎかけた制服に今一度袖を通した。明日はどうせ、映画の約束をしている。私服は今晩一晩悩んで、明日に初披露する事に決めた。
学校帰りに寄った事にするかと、郁は通学鞄の中から教科書類を全て放り出して荷を軽くする。行ってらっしゃい、とこだまするように叔父の声が聞こえ、それに応じながら家を飛び出した。雨は既に止み、郁の背中を押すように空から晴れ間が覗く。
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