第7話
四月二十七日、土曜日。
佐藤を彼氏として三日目のその日は、朝から雨だった。
中三日に有給を取ると長いゴールディンウィークが始まるらしく、朝からテレビでは海外に旅立っていく者へのインタビューがつらつらと流れている。結構な事だ。
歯を磨きながらメッセージアプリを開き、郁は何も打たずに閉じる。面倒だなと思われたくないし、そう思いながら打たれるであろうメールに価値があるように思えなかった。連絡が必要ない相手には、連絡をしない。それもまた、相手を見た付き合い方だと郁は学んだ事にした。
その日、郁は朝からいつも通り学校に行き、授業を受けた。
弁当を持参したので、帰って行くクラスメイト達を見送ってから、静かになった教室で志穂と二人、遅めの昼食をとる。
「病院大丈夫だったなら、良かったね」
朝一番に、問題なかった事だけは報告してある。
「まあ、昨日は佐藤君がいたから気が紛れたみたいなところはあるけど。一人ではやっぱり、行きたいとは思わないかな」
「病院行きたい人なんていないから、普通でしょ、それは」
そっか、と郁は笑う。
「何にしても大きな一歩、良かった良かった。それで、今日は?」
「今日は会えないって」
「郁の時間を拘束しない彼氏が現れるとはねぇ」
「ほんとに。正直拍子抜け」
むしろ、今日に関して言えば、郁の方から何とか会う為の時間の捻出を図った。捻出という言い方は大袈裟だが、郁から誘いをかける事は昨日思い返してみたところ、一度も記憶になかった。それをあっさりと断って来るのだから、佐藤という男、今までの彼氏とは一味も二味も違う。簡単に言えば、郁に夢中になる気配が微塵もない。
「そもそも、私に好意を抱く事なく付き合って欲しいって言ってくる辺り、スタートからして違うのよね」
「確かにね。ぞっこん状態からスタートの人とは、話が違うわよね」
うん、と郁は卵焼きを食みながら頬杖を付く。
「折角得たチャンスを活用しない男、佐藤。いやぁ、分からないよ? そういう男が案外むっつりスケベかも」
そうは見えないが、違うとも言い切れず郁は肩を竦める。
「どうせ別れるから、って適当にそれまでの時間を流してるって感じがするかな」
「それは郁もそうだけどね」
「心外な。付き合ってる間は、まあ、そりゃあ苦痛に苦痛を重ね嫌々な時もあるけども。向き合う努力はしてるつもりよ」
「まあ、確かに」
志穂は郁の努力自体は認め、郁の卵焼きを一つ横取りする。志穂はいつもそうだ。郁の卵焼きを一つ必ず奪っていくので、最近では三つ入れてくれるように頼んである。郁は卵焼きの代わりに、志穂のミートボールを一つ奪うのが恒例だ。つまるところ、両者公認の物々交換である。
「こんなさっぱりした彼氏を相手にするのも、一つの勉強だなって割り切ってる。べたべたするのが好きじゃない人とか、やっぱり世の中にはいる訳じゃない? メール嫌いも然り。そういう人との付き合い方を、今学んでいるところ」
「経験豊富になっていきますなあ」
「どうだろうね。結局は人間観察の一環に近しい部分はあって、対人関係における付き合い方を学べているかなとは思うんだけど、誰一人としてやっぱり『彼氏』ではないんだろうなっていう思いはあるよ」
「というと?」
「相手の事が好きでどうしようもない、みたいな経験は出来てないわけでしょ。この人と彼氏彼女としてお付き合いしました、っていうのは、やっぱり烏滸がましいわけよ。恋愛経験値じゃない」
「適当な事やってる割には、そういう事考えるよねぇ郁は」
「人は一目でも恋に落ちるって言うじゃない。一目惚れって言葉があるくらい。それなら、十日あれば恋は出来ると思うわけよ。恋をするのに十分な時間が与えられ、最大限に向き合う努力もした結果、恋にはならなかったのが十日間の彼氏達なわけ。つまり、私は本来の意味で、恋愛偏差値は上がってないの」
でもさあ、と志穂が郁の卵焼きに手を伸ばしてくる。取られる前にと、慌てて郁はラスト一つの卵焼きを先に口に放り込んだ。
「なんとなく彼氏が欲しくてとか、ぼっちクリスマスは嫌だからとか、とりあえず適当に、で彼氏作る人結構いるよ? それも歴代彼氏にちゃんと数える訳で、向き合った時間があったら、やっぱりそれは彼氏でしょ」
「まあ、彼氏は彼氏よ。彼氏を募って、一応短くてもお付き合いと称して一緒にいるわけだから。それはそうなんだけど、こう、気持ちの問題というか」
「郁の場合は、彼氏はいるのよ。恋が出来た相手がいないだけ」
「あ、いい表現! 流石、的確!」
言いながら、郁はミートボールを攫う。ぼんやりしていたら食べられてしまう。
「郁は並みのイケメンじゃ反応出来ないからね。そこは同情する」
もごもごと咀嚼しながら、郁は苦く笑う。
「ま、気長にやんなよ。このサイクルで彼氏作ってたら、そのうちこれはって思う人に当たるって」
郁には叔父が一人いる。
早朝から常勤嘱託社員として運送会社で働き、普通の会社勤めに比べればかなり早い時間に帰宅する。
郁が学校から帰る頃には基本的に家にいる叔父は、モデルとしての顔も持ち、副業をしている為に撮影で土日はいない事も多い。
志穂が、「郁は並みのイケメンでは反応出来ない」と言った理由は叔父にあって、モデルをしているといった所から察するに余りあるかとは思うが、スタイルも良ければ顔も頗る良い。
そんな叔父の姉、つまり亡き母は、女優をしていた経験がある。
お分かりだろうか、つまるところ、亡き母もまた美貌には定評があり、その娘である郁にもその血は脈々と受け継がれた。女優の娘である。顔に自信を持って悪い事があるだろうか。
「いるかなぁ。叔父さんを超える卵焼きを作れる男」
郁の弁当は、叔父が作る。弁当だけではない。朝食も、夕食も、叔父が郁の為だけに作ってくれる。顔が良くてスタイルが良くて、料理が出来て、ついでに言うならば優しい。幼い頃より身近にあった叔父という存在ですっかり目の肥えきった郁は、果たして幸せなのか、それとも。
「それはいないかもね」
同じく叔父の卵焼きに惚れ込む女、親友の志穂はしんみりと、しかし力強く頷く。
「今日、叔父さんは?」
「珍しく仕事休みって言ってたから、いるとは思うけど」
「偶には叔父さんとゆっくりしなよ。家にいるって言っても、中々ゆっくり話す時間はないんでしょ?」
早朝から出かける叔父は、寝るのも非常に早い。モデルという職業柄睡眠時間は大切にしており、体型を気にして晩御飯も早くに済ませてしまう事が多い為、同じ食卓につく機会もあまりない。
毎日顔を合わせはするが、ゆっくりと話をしたのはいつだったか、記憶に薄い。
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