第4話 導なき道に差す一筋の光

「つっかれた……!」

「お疲れ様です」

 部屋に戻るなりさっさと寝間着――というのも憚られるような肌触りのネグリジェに着替えて寝具にダイブした私の魂からの叫びに、頭上で妖精がくすくすと笑う。

 空気ばかり穏やかな地獄の如き夕食の時間を終えた現在、シャルディナのふりをする必要もなくなって漸く肩から力が抜けた。束の間の休息時間に、疲れがどっと押し寄せてくる。

「妖精さん。学園って何?」

 突っ伏したまま唸るように問う。ああ、と妖精が呑気な声をあげた。

「シャルディナが通う予定だった場所です」

「そういうことではなくてですね」

 ぎろりと睨め上げれば、可愛げもなく妖精が部屋の隅にある机を指し示した。

「確か引き出しにパンフレットをしまっていたはずです。そちらを読んでください」

「そうでもなくて!」

「そうでしかありません。貴女の目的を鑑みても、通う以外の選択肢がありませんから」

 にべもない返答を屁理屈だと一蹴するのは容易い。恋愛初心者が恋情を理解する取っ掛かりは多い方がいいが、中身三十路超えがいまさらひとまわり近く下の学生相手に恋情を抱けるわけもなく、せいぜい可愛いなーと眺めるのが関の山だ。下手をしたら、以前はなかったはずの母性を刺激されて面倒を見る第二の母の出来上がりである。

 嬉しくない。他人に時間を消費されるだけの展開は、全くもって嬉しくない。

 などと抗議をすれば、しばし黙り込んだ妖精が首を傾げた。

「愛されることで理解する可能性もありますよ?」

「ない。というかそれは遠慮したい」

 若い身空で恋した相手が世を混沌に陥れる魔王役かつ中身異世界人のおばさんで、おまけに遠からず呆気なく死ぬなど哀れでしかない。冷静に考えれば考えるほど、シンプルに可哀想だ。

「まあそもそも私は恋を知りたい――愛してみたい方なんです」

 ごろりと寝返りを打って妖精を見上げる。言葉の意味が理解しがたかったようで、彼は虚をつかれたように目を見開いた後、口をもごもごと動かした。質問したいが言葉がまとまらない――そんな様子に、少しは待ってあげようと仏心が頭をもたげる。

 反動をつけながら体を起こして、ひとまず妖精が言ったパンフレットを探しに机へ向かう。

 立派な造りだ。機能美に拘ったのか無駄な引き出しや飾りのない暖かな焦げ茶色が美しいそれは、それこそ執務室に備え付けられていてもおかしくないぐらい値打ちものに見えた。

 いくら公爵令嬢とはいえ、このような品を買い与えるとはいったい如何許りの財源をもっているのか。

 そう考えて、息が詰まった。

 違う。体に息づいたシャルディナの記憶が悲鳴を上げる。アリステラだってこんなに立派な机は持っていないと泣き叫ぶ。

 そうだ。そうだった。この机は、屋敷に訪れて、家族に迎えられて初めての誕生日に公爵夫妻が贈ってくれたプレゼントだ。公爵一家を慕っているように見えて一歩引いた位置にいるシャルディナを安心させるために、拭いきれないでいる疎外感を払拭させるために、ただそれだけのために、彼らは買ってくれたのだ。貴女は私たちの可愛い娘だと、目に見える形で示してくれたのだ。

 シャルディナは、愛されていた。私が家族から穏やかに慈しまれて育ったように、陽だまりの如き愛情を一身に受けていた。

 理解が及ぶと同時に、頭が痛んだ。そうよ、だからやめてと懇願する声が、聞こえた気がした。

「(幻聴、幻聴だ。この体はもう、私のものなんだから)」

 大きくかぶりを振って声を追いだす。

 探していたパンフレットは一番上の引き出しに入っていた。魔物や妖精がいる世界でもレイアウトなどはそう変わらないようで、元の世界のオープンキャンパスで配られていたパンフレットを彷彿とさせるそれに懐かしさが込み上げる。

 表紙に映る西洋の建物を彷彿とさせる学舎の名は聖ハーバッハアカデミー。さらりと目を通して読み取れるその教育理念は、一言で言うならノブレス•オブリージュ。富める者は貧者に優しくあれ、弱き者の盾であれ、そのような人材となれと謳っている。要するに貴族の生活を支える民衆の存在を忘れず勉学に励み、その知識を領地に、ひいては国に還元せよと説いているのだ。崇高で、平凡で、されど権威主義者には難しい理念に失笑する。夕食時のアリステラの話ぶりから考えるに、お世辞にもそれが学生たちに浸透しているとは言い難い。生まれた時から圧倒的強者で恵まれているのが普通である彼らの中には、貴族に生まれなかった方が悪いと本気で考えている者もいそうだ。

 生活基盤を支えてくれる民衆への感謝を蔑ろにして、ただ彼らから搾取し、利益を貪り、虐げる。

 そのような者を少なくしようと創建されたであろう学園の効果は、創立者の想いを裏切ってあまりないのかもしれない。

 いや、そもそも創立者が善人であったとも限らない。調べてみたら案外腹に一物抱えた人物で、民など貴族に奉仕する路傍の石だと蔑んでいたかもしれない。

 善なる者が悪人で、悪なる者が善人だったかもしれない。

 荒唐無稽な考えだが、この世界ではそれが罷り通るから恐ろしい。

 用意されている役はあくまで役でしかない。結末は用意されていても、その道のりは自分で整える必要がある。だから、最終的に終点へ行き着くのであれば、道中どのような振る舞いをしようとも問題視されない。良き為政者役が若い頃に暴虐の限りを尽くそうと、最期の瞬間、或いは後世にてあの人の治世は良かったと、そう評価されるのであればそれは役を果たしたと言えるのだから。

「……やっぱり、ばかじゃん」

 推測が正しいのだと仮定して、あり得ただろう善人のまま討たれる道を想像してぼやく。

 シャルディナは馬鹿だ。どんなに辛い役であっても、好きだと叫びながら潰えたらよかったのだ。アリステラに愛を叫ぶその口で、役を呪いながら殺されたらよかったのだ。彼女に課せられたのは魔王になることであって、最愛を手にかけることではない。ならば、愛される者に殺される運命を甘美なものだと呑み込んで、悲劇を喜劇だと思い込んだまま死ねばよかった。そうすれば、最期の瞬間まで彼女はアリステラの愛を失うことなく、彼女に看取られることができただろうに。

 それすらも、もう叶わない。千早奏と魂が交換された彼女にできるのは、遠い地球で自らが巻き込んだ者によって傷つけられる姉を想い、魔王役を押しつけた事実によって良心の呵責に苛まれるだけである。

 おそらく、私がシャルディナの弱さを理解する日は来ないのだろう。同調が済んだとしても、彼女ほどアリステラを愛せる自信がない。だが、それでいいのだ。シャルディナの感情に引きずられたら、敵対する意志が鈍ってしまう。たぶん、どこかで手を抜いてしまう。完璧な悪として君臨する妨げになるのであれば、アリステラに対するシャルディナの敬愛などいらない。姉妹愛など知りたくない。そんなものがなくても、誰に看破されることもなくシャルディナとして振る舞って見せる。

「千早奏」

 決意も新たにしたところで、妖精が口を開く。パンフレットを置いて振り返ると、困惑を宿した目とぶつかった。

「つまり、貴女は愛されたくないのですか?」

「うん」

 恐る恐る発された確認にはきっぱりと肯定する。

「身体は変わっても私は私。異世界に来た程度で好かれるなら、死ぬ前に見る走馬灯と同じだから」

 ひねくれているとは思う。どうせなら夢を見てしまえという身の内からの甘言に惑わされたくもなる。だが、これが偽りのない気持ちだった。

 私は私でしかたり得ない。たとえ見目麗しくなろうと、所詮中身は死ぬ前と一緒なのだ。外見を取り繕って愛されるのはご都合主義展開のフィクションのだけ。リアルではあり得ない。穿った考え方かもしれないが、目の前に横たわる現実が砂糖菓子の甘さになるのを期待するだけ落胆も大きくなる。それなら最初からそんなものはないのだと割り切った方が楽だった。恋される期待を抱いて息をするよりもよほど呼吸がしやすい。

 どうせ遠からず死ぬ運命なのだ。分不相応に愛されたいと願うだけ無駄というものだ。そもそも恋を知るのが目的なのだから、相手に好意を持ってもらう必要はない。私が誰かを特別愛せたなら、これが恋だと実感できたなら、その時点で目的は達成だ。

 妖精にとってもその方が肩の荷が軽いだろうに、何故だかとても複雑そうな顔をして私を見てくる。

 一方通行の恋は、そんなにも無価値なのだろうか。返されないのに愛するのは、そんなにも報われないことなのだろうか。

 漫画や小説に登場する負けヒロインは確かに叶わない恋に泣いていて読者の感情を揺さぶったが、それはそれ、これはこれだ。配役がヒロインではなく魔王である私が届かない恋心を抱えて泣く姿など想像できるはずもない。いや、ヒロインであったとしても、想像できなかったと断言できる。何せ、恋の喜びや苦しみ自体を知らない。ちょっとしたことで一喜一憂して、酸いも甘いも嚙み分けた気になって、天国と地獄を行ったり来たりする感情のジェットコースターに乗ったこともない。それを知りたくて、経験したくて現状を受け入れたのだから、やはり妖精が寄せる心配りはお節介でしかなかった。

「私は恋を知りたい。恋をしてみたい。そこをはき違えないで」

「……わかりました」

 強く念押しをする私に渋々といった様子で妖精が頷く。それから思考を切り替えるように一度目を瞑るとにっこりと笑った。

「仲間探しをしてください」

 唐突な話題の転換に仲間、と口の中で転がす。てっきり明日からでも魔王として悪逆非道な行いをすればいいのだと思い込んでいたが違うらしい。言われてみれば、ゲームなどに登場する魔王は真っ先に名が上がるほど恐れられていてもメインディッシュ、最後に戦う相手だった。道中には中ボスなどが配置されていて、そこで勇者たちは魔王討伐のための力を磨くのだ。

 ローマは一日にして成らず。何事も日々の積み重ねがあってこそ。神子アリステラとて例外ではなく、配下役と鎬を削ってこそ力は磨かれ、妹と愛した娘を殺める覚悟を貫ける。

 それに、これはただの想像でしかないが、たぶんその方が話が盛り上がるのだ。観客のいない舞台でも山場は必要だと判断した創造神が歴史の波を最高潮にする駒を惜しまなかった。

 より面白くするために。より感動的にするために。後世の者たちが平和を有り難く感じられるように。

「仲間、ね」

 たったそれっぽっちの理由で割り振られた役を仲間と呼ぶのは、皮肉に聞こえた。どれだけ綺麗に取り繕ったって、道連れだ。死が決まっている者へ従う役など貧乏籤でしかないのだから。

 嫌味を隠さずに呟いたそれを妖精は静かな微笑で受け止めた。

「はい。いわゆる四天王、と呼ばれる配下の役を与えられた者たちがいます」

「四人の中でも最弱とかいう定番の?」

「それですね」

 ふざけた返しにも真面目に頷いた妖精が人差し指を立てる。

「シャルディナの記憶を探ってください。手がかりがあるはずです」

「了解」

 同調が進んでいない今、意識せずに彼女の過去を思い出すのは難しい。

 どれどれと目を瞑って記憶の紐をたぐってみる。館の門を叩いた雨の日以前は朧げで、それ以降はアリステラや義両親との幸せな日々ばかりだったが、埋もれるようにしてそれはあった。

「シオン、コノエ、アレン、ユリアナ。一人は北に、二人は西に、残る一人はすぐそこに。……そこに?」

 マジか。ばっと目を開けて窓に駆け寄ると鍵を外して開け放つ。

 夜の空気が肺を満たした。ひんやりとした温度に身震いする。寒い。シャルディナとの同調が不完全なまま彼女の受けた宿命を無理矢理掘り起こしたせいで、頭も熱を帯びたようにぼんやりしている。

 許されるならば、今すぐ寝具にダイブしたかった。何もかもほっぽりだして、泥のように眠ってしまいたい。その欲に身を任せて忠実にならないのは、窓の向こう、開けた先の暗闇から鋭い視線を感じるせいだ。

「ねぇ、私は待たせてしまった?」

 家の者には気取られない程度に声量を絞って、慎重に声をかける。応えはない。そよぐ風にいくら耳を澄ませても、神経を尖らせても、視線以上に誰かの存在を訴える要素はない。

 それでも、そこに、いる。配下の役を与えられた誰かが、わざわざシャルディナの許へ馳せ参じている。どうしてそれを無視できるだろう。

「ごめんなさい。いろいろ手違いがあったんです。そのあたりもきちんと説明しますので、どうか顔を見せてはくれませんか?」

 重ねた懇願に空気が震えた。暗がりを破って出るようにして、それが姿を現す。

 白い。第一印象として失礼かもしれないが、何から何までそれ――青年は白かった。

 まずは服。いったいそれでどうやって闇に身を潜めていたのかわからないぐらい真っ白なローブを羽織っている。しかも背丈があるだけにくすみ一つない白の面積は多く、夜闇では目立って仕方がない。

 それから髪。静かに降り積もる深雪を思わせる髪はざんばらで、ろくに手入れをされていないのか艶を失っている。煌々とまばゆく降り注ぐ月明かりを鈍く反射してはいるものの、美しいとはお世辞にも思えなかった。不揃いに切り揃えられた前髪の下から覗く乾いた切れ長の瞳だけが灰の色彩を持っていたが、そこに灯る輝きは奈落のように暗く、青白い肌も相まって死人の風体をしていた。

 さしずめそれは、蝋人形。或いは生命の息吹きを失ったビスクドール。

 様相の全てが生理的な嫌悪感と不快感を覚えるほど酷い有様なのに、視線を逸らすことができない。

 そう、悍ましいものは、時にぞっとするほど美しく人の心を捕らえるのだ。

「初め、まして。私はシャルディナ」

 一瞬でからからに干上がった喉から声を絞り出す。招くように半身をずらせば、迷いなく近づいてきた青年が窓枠に足をかけると部屋の中に音もなく飛び入った。

「コノエ」

 冷涼な声が鼓膜を震わせる。淡々とした感情の起伏に乏しい響きだ。それでいてどこか柔らかな雰囲気を帯びているのは、青年――コノエの性質を反映しているのかもしれない。

「いつから外に?」

「その身体が発狂して倒れて、妖精が秘術を使っている時からだ」

「それは……かなり、最初からですね?」

 目の前の青年が思っていたよりも早く訪っていたことに衝撃を受ける。

 いったいどれほどの時間、この夜気に晒されていたのだろう。目が覚めた時はまだ陽があったが、日没してから今に至るまで数時間経過している。その間ずっと此処にいたのだとしたら、食事だってしていないに違いない。

 そこまで考えて、思考が止まる。

「……その、身体?」

「ああ。魂と容れ物が別人なんだろう?」

 こともなげに宣うコノエに絶句した。寸前まで抱いていた心配がすこんと抜け落ちて、心中に恐懼が満ちる。

「見てたから、わかったの?」

「ああ」

「……どこからどこまで聞いてたの」

「全て。災難だとは、思わない。お前も納得してるなら」

 同情も憐憫もない無機質な目だ。目の前にいるのがちぐはぐな継ぎ合わせの人間だと知りながら、そのこと自体に興味を持っていない。

 言葉通り、私が今の状況に納得しているからなのだろう。これで私が己の悲運を嘆いていたのなら、同情してくれたのかもしれない。憐れんで、可哀想にと慰めてくれたのかもしれない。

「お前も?」

 優しい人だ。そう思いながら引っかかった点を指摘すれば、コノエが双眸を眇めた。

「俺も与えられた役に恨みはない」

「理由を聞いても?」

「嫌いだから」

 簡潔な答えだ。淡白すぎて、一瞬理解し損ねた。

 真意を推し量るように無言で先を促せば、奈落が深まった気がした。

「何もかも嫌いだから、壊したくなった。世界という名のゴミ箱を本体ごと焼却したくなった。それだけだ」

「……負ける運命で、沈みゆく泥舟だよ」

「そうならないかもしれない」

 温度のない切り返しに眉を顰める。

 役の話をしだしてから、コノエの言葉に重みを感じない。もちろん強い言葉に伴う棘や鋭利さはあるのだが、人であれば生じるはずの彼の意志や熱量を推し量ることができない。まるで、そう、偽りだけを並び立てられているような曖昧さが滲んでいる。

「妖精さん」

 コノエから目を逸らさずに問う。

「役って、振る舞いも含まれます?」

 勘だった。特段深く考えてした発言ではない。寧ろ考える前に飛び出してしまった問いかけで、だからこそ正鵠を射たのだろう。

「役を羽織る際に必要であれば含まれますよ。彼の言動に違和を感じましたか?」

「かなり」

「だそうですよ、コノエ」

「俺に振るな。説明するのが面倒だ」

 相変わらず平坦な声だったが、先ほどと比べると打って変わって素直な嫌悪を匂わせている。

 基準はわからないが、彼は意図的に嘘を交えて話しているようだ。初対面の間柄であるにも関わらずそれが読み取れたのは、ひとえに身体の持ち主たるシャルディナが彼を統べる側であったからだろう。でなければ適度に嘘を吐く配下など扱いにくすぎる。

「私はわかるからいいけど、これって他の三人もわかるんですか?」

「悪役も信頼関係を築くものですよ?」

「………………わからないんですね」

 厄介だがそれが彼が羽織る役である以上はどうしようもない。

 深々とため息を吐き出して、思考を切り替える。

 悩むだけ時間の無駄だ。ややこしいコノエの会話法をどうするかなど、新しい仲間と合流してからまた考える羽目になるのだ。ならば、今は違う事を思案する方がいい。

 例えば――再度コノエを観察する。

 ろくに手入れをされていないから不気味さを覚えるだけで、彼の容貌自体は整っている部類に入る。本人がお洒落に目覚めでもしたら、それこそ通りすがりの少女たちが色めき立つことだろう。

「コノエ。異性は苦手?」

「どちらでも」

 最低限の言葉数で作られた返答に嘘はない。その気遣いに感謝しつつ、思考の海に沈む。

 悪役たる振る舞いや行いのテンプレはいつの時代も決まっている。非道。残虐。二面性。絶対的脅威。騙し討ち。そして――堕落への魅力。特に最後のそれは、使い方さえ間違えなければ社会の歯車を完膚なきまでに破壊する道具となる。

 世界の敵らしい今の姿も悪くないが、どうせなら持ち得る全ての手段を使い尽くしてとことん悪役に徹するべきだ。

「来週までに身形を整えておいて。王族が街の視察にくるらしいの。彼らに接触して、虚言を繰って、気に入られてほしい」

 手を伸ばしてパサつく髪に触れる。軋んだ手触りだった。よく見なくてもそこかしこに枝毛があって、指で梳こうにもすぐに引っかかる。フケや脂っぽさはないものの、ナイロンを触っているような感触に眩暈がする。

 これは、自力で改善は無理そうだ。

 髪から指を引き抜いて立ち上がる。幸い目的の物は化粧台の上にあった。迷いなくそれを手に取って、コノエに放る。放物線を描くそれを難なくキャッチした彼が目線の高さに掲げて首を傾げた。人工的な灯りに照らされたガラス瓶の中でちゃぷちゃぷと液体が揺れる。

「今日から毎晩それを髪に塗って寝るように。量は……髪がベタつかない程度」

「俺に策がないと?」

「あっても念には念を押したいの」

 コノエの策に興味はある。互いに知らないことばかりだからこそ、余計に知りたいという欲は唆られている。

 だが、ぐっと我慢する。

 王族は高価なものに見飽きている。目が肥え、舌が肥え、贅沢を知り尽くしている。コノエはそんな相手の懐に飛び込むのだ。外見を磨いておいて損はない。

「コノエにはこの国の中枢を掌握してもらう」

「傾国の美女に頼め。その方が確実だ」

「そうでもない。故事では肉欲に耽溺して享楽に耽りやすいのは男性とされがちだけど、熱狂が冷めにくいのは女性の方だから」

 それに、と、口の端を吊り上げる。

「この国の王様は王妃様が大好きでしょ?」

 王宮という名の鳥籠に囲われる貴い人を誑かして、蕩かして、虜にする。そうしてハリボテの愛に目が眩んだ隙を逃さず、その耳元に毒を流し込むのだ。

 叶わぬ恋に身を焦がす蛍との逢瀬を終わらせないでと。

 共に二人が在るために、どうか協力してはくれないかと。

 王妃を堕とし、王との不破を招かせ、政治の腐敗を狙う。全てが順風満帆と行くかは賭けだが、失敗したら王侯貴族諸共全て殺せばいい。完璧にこだわる必要はない。頃合いを見て乗っ取る方が好みなだけで、結果的にアリステラたちに後手に回ったと思わせられたなら策略は成功なのだから。

「悪趣味だな」

「悪趣味結構。私が羽織るのは魔王の役。それらしくするには卑怯な手段も正攻法だよ」

 街を破壊したり民間人を襲ったり。そういった定番の悪事を派手に行うのも大切だが、正義の味方に先んじて大きな策謀を巡らすのも定石だ。

「まあいい。俺はお前に従うだけだ」

「ありがとう」

 ほんの少し嘘が混じった返事に半分ぐらいしか従わないんだろうなぁと思いつつにっこりと笑う。

 コノエが数瞬視線を彷徨わせてから目を伏せた。

「お前の指示通り、王妃を籠絡して、国を掌握して――そうしたら、お前にやろう」

「へ?何を?」

「王冠。被せてやる」

 ぶっきらぼうな物言いは存外穏やかで、誠実さに溢れていて、言葉を失う。

 王冠なんていらない。そんなものが欲しいわけじゃない。恋が知りたいだけなのだと声高に訴えたい。

 だけど。

「……じゃあ、その時はお城も魔王城って名前を変えなきゃね」

 彼の優しさから出た本心からの提案を、否定したくなかった。

 無理矢理貼り付けた笑顔はきっと不恰好で、醜くて、ぎこちなかったけれど。

 その笑顔を見て、初めてコノエが笑った。見た目よりもずっと幼い、可愛い笑顔だった。

「お前は嫌いだ。素直すぎる」

「うるさい黙れさっさと行って!」

「はいはい」

「返事は一回!」

 照れを隠しつつ窓辺へとぐいぐい背中を押しながら注意をすれば、コノエが笑みを引っ込めた。途端に纏う雰囲気も退廃的なものになって、近寄りがたさと不気味さが戻ってくる。

「シャルディナ、手」

「ん。……何これ」

 素直に差し出した手に落とされたそれを見て目を丸くする。答えるのが面倒なのか、言葉を選ぶのが手間なのか、コノエは答えることなく窓枠の向こう側へ身を躍らせて去ってしまった。

 残されたのは、私と妖精だけである。

 深々と息を吐き出して、渡されたそれを観察する。一見それは、ただの指輪に見えた。宝石などの飾りはなく、特別に刻まれた紋様もない。輝きを失った銀色はつるりとした手触りそのものの温度で冷たく感じられる。

「転移魔法装置ですね。願うだけで会いたい人に会いに行けるオーパーツです」

 矯めつ眇めつ眺めていれば、それまで黙りを決め込んでいた妖精が口を開いた。

「初代聖女が祈りを込めて作り出した、世界に一つしかない古代遺産です。ですので失くさないようにして下さい」

「うん。でも、どうしてそれをコノエが?」

「さあ?」

 本当に知らないのか、すっとぼけているのか。

 はぐらかす妖精に嫌な予感が去来して、知らず眉が下がった。これは深掘りしたらロクでもない情報が出てくるに違いないと本能が警鐘を鳴らしている。情報が不足している今、一つでも多く懸念点は潰すべきなのだが。

 指輪を一番サイズが合う右手の人差し指に嵌めて、明かりにかざす。冷たく見えたそれも、こうして見ると普通に綺麗だ。そう、普通に。良くも悪くも普通で、一目で希少な品だと見抜ける人はいないだろう。何よりシンプルだからこそ、どのような格好をしていても調和できる。今後私が日常使いしても、誰も何も言わないに違いない。

「信頼の証……かな」

 何、という問いにコノエは答えなかった。

 どうして、と尋ねてみた妖精にはのらりくらりと交わされた。

 それでも、推測はできる。指輪が貴重な物で、転移装置で、互いの立場がわかっている同士だと理解していれば仮の答えは導ける。

 それが正しいか正しくないかは重要ではない。私がそう思った、それだけがはっきりしていたらいい。

 いずれ真意を知らなければならない日は来るのだろうが、全て本人の口から聞くべきだ。

「千早奏。今日はもう寝なさい」

 妖精が言う。結論を出すまでは待ってくれても無駄は一切看過しないらしい。いっそ冷酷ともいえる冷静さで有無を言わさずに布団へ押し込まれる。そればかりか灯りを消され、用周到なことにカーテンまで閉められてしまった。途端に周囲は真っ暗闇に包まれて、一寸先さえ見通せない。これでは眠くないと抗議することも難しい。

 諦めて寝具に転がり目を瞑る。眠気は一向にやってこなかった。

 無聊を慰めるように、視覚を奪われたせいで研ぎ澄まされた聴覚が虫の音を拾う。微かに混じる金属音は鎧の擦れる音だとして、ほう、ほうと鳴く声は梟だろうか。

 ここにきてようやっと、現状に心が追い付いた。異世界に来たのだと実感が込み上げてきて、言葉にできない感情で胸が詰まる。

 怖い、とは思わない。死ねと言われたに等しい配役を理不尽だとも思わない。間が悪かったなぁ、ぐらいの嘆きはあっても、対価を払ってもらえるなら構わないのだ。本当に。

 だからそう、これは感傷だ。戻らない日々を恋しがる子どもみたいな駄々だ。あれだけ平穏に飽いていたのに、失った瞬間名残惜しく思うのだから何ともまあ滑稽な話である。

 それでも、この痛みも明日にはきっと消えてなくなる。寝て起きれば、千早奏とシャルディナは同一の存在になって、泡沫の夢の泡沫にも似たこの郷愁は失われる。

 早く寝て忘れてしまおうと頭の中で羊を数える。だが残念なことに、一匹二匹と柵を跳躍して飛ぶ白いもこもこしたデフォルメ調の動物は、二百を超えても眠気を誘うことはない。

 それもそのはずだ。いきなり別人と魂を入れ替えられて魔王になれと言われた非日常が寝かせてくれるはずもないなど冷静に考えたらわかることだ。そんな簡単なことも見落とすほどに、私は現実を現実として受け止められていなかった。手慰みに開いた本を読む感覚で、或いはリアルな夢を散策する意識でこの世界と向き合っていた。

 まぎれもなく、私はここで生きているというのに。

「……私も、馬鹿だ」

 シャルディナのことを馬鹿にした口で自らを罵り寝返りを打つ。精神の高ぶりが原因ですっかり目は冴えてしまっていた。これではもう寝付くことはできそうにもない。よしんば眠れたとしても夜明け近くで寝不足に悩まされることに変わりないだろう。

 ならば、と目を開けてベッドから降りると窓辺へ忍び寄る。ゆっくりとカーテンを引くと大きな月が姿を現した。太陽の光を受け止めて優しく煌々と煌めくさまはどこまでも綺麗で、昔の文豪が愛の言葉に置き換えた理由がすとんと胸の中に落ちてくる。

 月がきれいですね。そう囁ける相手が欲しかった。同じ言葉を返してくれなくていいから、言葉の花束を捧げられる誰かと出会いたかった。

 ――そのためなら、私、死んでもいいわ。

 もう一つの愛の言葉を胸中に落として笑う。そのまま私は床に座り込んで壁に背を預けた。冷たい無機質な温度がじわじわと侵食してくる。

「私は魔王シャルディナ」

 その冷たさに促されて、事実確認を兼ねた呟きを落とす。

「神子アリステラの義妹。彼女を救世主に導く悪。世界を混沌に突き落とし、多くの命を奪う者」

 これから背負うことになる罪過を考えると気は重い。この手で命を刈り取ると想像するだけで恐ろしさを感じる。それでも、妖精と約束したから。誰も殺さない魔王は存在しないから。魔王の役を引き受けると、自分の意志で決めたから。

 私は私の手を血で汚す。四天王の手は極力汚させない。卑怯な手段は幾らでも使うしそのために仲間を利用する覚悟はあるが、誰かに罪を肩代わりさせる気は毛頭ない。

「……アリステラが救うなら、私が救っただけ殺してあげる」

 思い付きで口にしたその途端、視界が開けた。ふっと肩から力が抜ける。

 そうだ。そうなのだ。そう考えよう。魔王の役は、間引きだ。急速に増える人口を養いきれなかった世界が自滅の道を辿る前に、悪として君臨し、暴虐の限りを尽くしてちょうど良い数に調整する。定期的に現れる悪を歴史が許容している理由にスパイス以外の要素を見出すなら、それぐらいしかありえない。

 必要悪なのだと思うと、精神的にかなり楽になれた。

 アリステラが救っただけ、失われるはずだった者たちを殺す。シャルディナの愛した姉が救済をするほど、彼女に愛された妹として帳尻合わせを行う。命の天秤の傾いた秤を拮抗するまでに戻して、次第に亡者の数が生者を上回るように調整して、種の存続すら危ぶまれるまでに徹底的に追い込んで、そうして最後に笑って見せよう。

 私の心臓はここよ、姉様、と。

 その瞬間、アリステラの胸に去来する感情は悲しみだろうか。怒りだろうか。憎しみだろうか。特段興味は惹かれない。妖精が約束を果たしてくれさえすれば、それで構わない。

「(ああ、でも)」

 刺し貫かれる瞬間、何を思うだろう。刺した相手に、何を思うだろう。

 ――配下役を失った私は、どんなふうにアリステラに臨むのだろう。

 願わくば、見苦しくないといい。醜態を晒さないでいられるといい。

 勝手な願いだが、アリステラの記憶に残る義妹の最期は美しくあってほしかった。義姉を慕い続けて心を壊してしまったシャルディナとの思い出を、残酷なまでに鮮明に覚えておいてほしいから。

「コノエは正しい。私は悪趣味だ」

 今頃オイルを片手に困っているかもしれない姿を想像してくすくすと笑う。

 仲間を探すその裏で、まずは悪意の種を蒔く。各地に厄災と混乱を振り撒きながら、真綿で首を絞めるように徐々にこの国を腐らせる。

 そのための一手は打った。それが芽吹く日を思って、私は差し込む月明りに手を伸ばす。

 夜はまだ明けない。

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