第3話 かつていた君の、いらない置き土産
旦那様方がお待ちです。
その決まりきった文句と共に訪れたメイドに連れられて部屋を出た私は、先を歩く彼女の後をゆっくりと追いながら、それとなく周囲を観察していた。
飾られている花瓶や色彩豊かな花々、洒落た壁紙に誤魔化されそうになるが、公爵家にしては質素な内装だった。有体に言えば華美さに欠ける。豪華絢爛派手三昧だと下品だが、こうも無難にまとめ上げられると上品とも言えない。資金難にしては草臥れた部分は見受けられず、倹約にしては少しばかり華やか。
ちらと視線をメイドに向ける。彼女の服にほつれは見つからないからお給金はきちんと支払われている。一方で、彼女以外のメイドを先ほどから見かけない。執事一人とすれ違っただけだ。シャルディナの部屋の大きさ、廊下の長さ、公爵家という地位を考えるとこれはおかしい。人が少なすぎる。それにも拘わらず、どこを見ても掃除が行き届いている。人が足りている証拠だ。
「お嬢様」
メイドの声が思考に終止符を打つ。無言で視線を投げた私を、彼女が足を止めて振り返った。その顔に浮かぶ困惑と心配げな色は、きっと気のせいではなかった。
「何かございましたか?」
「……ごめんなさい。ちょっと、考えたいことがあって」
喋りすぎてはボロが出る。
慎重に言葉を選びながら返事をして、首を傾げる。口元に滲ませた笑みにメイドが微笑みを返してくれる。
たぶん、彼女とシャルディナは親しかった。何でも話せる間柄で、瑣末なことも報告して笑い合う相手だった。肌で感じる親密さがそれを教えてくれる。
だからここでの正解は、彼女の名前を呼んで笑う、だ。そうわかっていても、目の前にいる彼女の名前が咄嗟に出てこなかった。無難な返事をするので精一杯だった。
同調が不完全だと妖精は言っていたが、果たして原因はそれだけだろうか。アリステラに関わる知識はさほど意識しなくてもさらっと出てきた。もしかしたら直接役に関わりがない知識は思い出す優先順位が低いのかもしれない。役を演じる上で不都合な記憶や影響の少ない思い出は、泥に埋もれた芽のように今後日の目を見ないのかもしれない。役目を放棄されては困る妖精が意図的にそれらの説明を伏せたと考えるのが自然だった。
「大丈夫。寝たら、明日には治るから」
行こう、と。声をかけて促せば、納得したらしい。また先を歩き始めたメイドの後に続く。
数分前まで窓から差し込んでいた陽は沈み、夕焼けの明るさを残した空にぽつぽつと星が煌めき出している。空に浮かぶ月は十六夜で、その少し欠けた様が何とも言えない美しさを夜空に醸し出す。微かに聞こえる虫の音は穏やかで、宵に浮かぶ緑は優しい。あまりに平和な光景だった。平穏で、平凡で、ありふれた幸せだった。この手で終わらせることになるその景色を前に、不意に笑いたくなった。
こんなにも素晴らしく平和な世界なのに、その実とても不自由だ。誰もが役に縛られていると我が身を以て理解しているはずなのに、きっと私がシャルディナの役に従って予定調和に歴史を彩るスパイスを放り込めば皆恐慌を来すだろう。神子アリステラの存在が周知されているのに狼狽え逃げ惑う様を思えば、滑稽としか言いようがない。
「お嬢様、着きましたよ」
「ありがとう」
丁寧に開けられた扉をくぐる。ふわっと漂ういい匂いが鼻腔をくすぐる。
「シャルディナ」
どうやら最後だったようだ。先に席へ着いていたアリステラが嬉しげに名前を呼んでくる。その音があまりにも耳に心地よくて、密やかに息を呑む。
彼女は記憶の中よりも美しかった。明るい色彩を身に纏っているが故の優美さと、内面の美しさが滲み出ているが故の清廉さ。仕草一つに表れる優雅さは目の保養である。鏡で見たシャルディナの容姿も優れていたが、彼女は次元が違う。比較するのも烏滸がましい。アリステラの場合は、ただそこにいるだけで場が華やぐ。多幸感をもたらして見せる。他者の劣等感を刺激せず、心のうちに滑り込んで潤していく。
ただ座っているだけ。それだけで、こうも格が違うのか。
「……シャルディナ?」
ぼうっとしすぎたようだ。心配そうに顔を曇らせたアリステラが席から立ち上がって目の前まで来た。
「どうしたの?何かあった?」
何かあったと言えばあったが話せることではなく、さりとて墓穴を掘るリスクを減らすためには無闇矢鱈と虚言を弄するのは控えたい。虚実を交えるのが一番だ。しかし、内容の選別が難しい。果たすべき役がわかったと断片的に告げるのは詮索を呼びかねないので悪手だ。かと言ってそれ以上に踏み込まない答えでは、傾けられる気遣いを深くされる恐れが非常に高かった。
どう答えたものかと目を伏せて思案している間に、アリステラが手を伸ばしてくるのが見えた。伯爵令嬢らしく真っ白で嫋やかなのに、細かな傷の残る手だ。それが優しく頬に添えられる。
「熱はなさそう、かな。悩み事?」
「……いいえ」
悩んではいない。この美少女の敵となる未来を憂いることもない。ただ、説明に窮しているだけ。私は彼女の義妹ではないから、それだけのはずだ。
「お姉様こそ何かありました?今日は殊に嬉しそう」
無駄に考えるのはやめて、ひとまず会話を発展させる。僅かに戯けた調子で、揶揄うように。何か心囚われる他所ごとはあるけれど触れられたくはないのだとアピールする。
それだけで察しの良いアリステラは得心したらしい。席に着くよう促されて腰を下ろせば、同じく席に戻った彼女が手を胸の前で合わせ、にこりと笑みを浮かべる。
「貴女の編入試験合格通知が届いたんだ」
合格通知。何の。
「来週から同じ学園に通えるよ」
あまりにあんまりな新情報に心臓が跳ねた。嫌な汗が背中を伝う。
「私と一緒に学びたい、なんて言ってたのに魔法戦士科を選択していたのは驚いたけど、首席合格なんて本当にすごいよ。レナルト殿下も貴女に直接お祝いを伝えたいって言ってた」
にこにこと喜ぶアリステラはたいそう可愛らしい。弾む声音もくるくると変わる表情も心の底からシャルディナの合格を喜んでくれている。だが、私としてはそれどころではない。寧ろ動揺を表層に出さず、悲鳴を上げなかったことを褒めて欲しいぐらいだ。
レナルト殿下とは誰だ。
魔法戦士科首席とは何だ。
いや、それらはどうでもいい。アリステラと同じ学園という情報に比べたら、舞い散る塵の如き問題だ。
歳の差から考えて彼女は一学年上なのだろうが、その一年の差は大きい。同輩先輩と絆を育むには十分な時間で、思い出もたくさん積み重ねているだろう。明け透けに言えば敵陣営真っ只中である。そんな学園で過ごすなど、拷問以外の何でもない。
「お祝いと言われても……一生徒に殿下が声をかけるのは」
ひりつく喉を必死で奮い立たせて無難な返事を選ぶ。喜びを浮かべるには難しかったから、困惑しきりの顔で。アリステラが安心させるように笑った。
「そう言うと思ったからお断りしておいたよ。……殿下のお気持ちはともかく、経験則から言わせてもらうと王族絡みで目立ってもしがらみが増えるだけだしね。嫉妬も羨望も崇拝も、無縁でいられた方が幸せだよ」
「アリス」
「嘘はつけないよ、お父様。シャルディナが殿下の寵愛を欲しているのなら話は別だけど、そうじゃないでしょ?」
咎める伯父の言葉などどこ吹く風でアリステラが言う。澄んだ眼差しが羽毛のように軽やかな柔らかさを灯し、労わるように父母を見つめた。そこに軽蔑はない。伯爵令嬢である彼女は権威闘争も貴族の務めも十全に承知している。その上で、言うのだ。寵愛を望まないわたしたちに殿下のお言葉は無用だと。
「殿下にも他意はないしね。彼は自らが素晴らしいと思った人を称え、重用したいだけ。身分の垣根を越えて正当な評価を与えたいだけ。それ自体は立派なことで、自国民として誇らしくすら思う。でも、自尊心の高い方や優越思想の強い方の妬み嫉みの矛先が向けられる方は迷惑でしかない。だから、最初にはっきり意思表示をしておかないと」
アリステラ赤裸々に話しすぎだが、その指摘は間違っていないと朧なシャルディナの記憶が言う。
この世界の貴族社会のほとんどは既得権益で成り立っている。一代で成り上がる者も多少は存在するが、そもそも平民から立身出世を果たす役を与えられることが早々ない。それだけに貴族のプライドは無駄に高く、生活基盤を支える民に対して見下す者が多かった。文字通り、貴族とそれ以外とでは生まれからして違うからだ。
役がある限り変わらないこの世の真理。そのわかりやすい縮図が学園だ。箱庭に形成された社会は予行演習の場として用意されたものだったが、保護者から多大な影響を受けた大人になりきれない未成熟な青少年たちは創立当時の理念を忘れ傍若無人に振る舞った。
自身より位の低い者を従え、民を蔑み、嘲笑う。
その中にあって、最もカースト上位に君臨する王族が身分に囚われずに人を見る公平さを発揮するというのは致命的だった。もちろん、人柄だけで見れば非の打ち所がなく好ましい。まさに名君になれる器だと断言できる。ただし、それは守る力を持ってこそだ。現状、アリステラの評を信じるのであれば、レナルト殿下とやらは評価して重用するだけだ。身分による確執に無頓着なのかは知らないが、盾の役割は放棄していると見做していいだろう。つまるところ、名誉よりもリスクが勝る。明確な序列の存在する学園で殿下に目をかけられることは地獄でしかないのだ。
「人の心や生き方、価値観を変えるのは難しくて、普遍化した差別意識を正すのは政の改革に等しい。確かに殿下も他の方々もわたしたちと同じ学生だから仮に実害が出ても責任の所在を問うのは難しいし、泣き寝入りした方が楽だという方がいるのもわかってる。その判断だって一概に責められない。果ての見えない高い壁に挑むぐらいなら、権威に屈する愚か者になりたいと願う心を、わたしたちは尊重しなければならない」
「お姉様……」
貴族の義務だと言わんばかりに穏やかな調子で紡がれるそれは、決して人前で吐露されることのなかった心情なのだろう。思わず知れた学園でのアリステラの苦労に同情を覚えて彼女を呼べば、気を取り直したように口を開いた。
「とは言っても、これは現時点での話。もし貴女が殿下を好きになったなら、気兼ねしないで言ってね。その時は協力したいから」
「……うん」
貴族らしくない砕けた口調で紡がれるアリステラの言葉は真っ直ぐだ。綺麗な嘘も、汚い誤魔化しもない。花弁の如き唇からは、純粋な真意だけが宿る魂の籠った言の葉だけが紡がれる。
突くとしたらここだ――混乱の冷めてきた頭が囁く。
世界に混乱を齎して混沌を招く手筈は幾らでもあるが、魔王として君臨するにはそれだけでは足りない。真にアリステラと対峙して討たれるべき悪になるには、既に神子として活躍する彼女への信用を瓦解させ、国内外での地位を失墜させることも重要である。私が頑張って情勢を魔王討伐の流れに持っていけたとしても、彼女を引きずり出して殺意を抱かれなければ意味がないのだから。
シャルディナは、アリステラに討たれなければならない。他の誰かに殺されるわけにも、況してや彼女以外を聖者とさせるわけにもいかない。
誰から見ても明白なこの世の敵になる。私が殺さなければとアリステラに思わせる。そしてシャルディナの対はアリステラなのだと世界に認識させると同時に、彼女こそが紛うことなき世界の救世主だと信じられる世界にする。
その最たる手段が、光を影へと転じさせること。彼女の美点である高潔さを欠点に変えること。尊い者への敬慕を嫌悪に変貌させること。
時に真面目さが空気の読めない奴だと人々の反感を買うように。正しさが口うるさいと罵られるように。優しさが偽善だと蔑まれるように。
アリステラの発揮する善性は行き過ぎているが故に、些細な刺激で民衆の暗闇を暴発させる契機になる。
「……お姉様。私が殿下を好きになる日はこないわ」
「そうなの?」
「ええ、だって」
目を細めてアリステラを見つめる。
私は一度、この光を堕とす。徹底的に、完膚なきまでに。常人であればもう二度と立ち上がれないと打ちのめされるほど容赦なく高みから追い落とす。我欲とはかけ離れた善性を持つ彼女を私心で貶める。
けれど、一度堕ちた光が再び見出される時、その輝きは以前よりも燦然と煌めくものになっているはずだ。人々の醜さを知って、弱さに傷つけられて、それでも膝を屈せず唇をかみしめて立ち上がる様は、魔王の君臨に絶望する民衆を鼓舞するはずだ。
未だ少女然としたアリステラに、いずれ到達するはずの勇姿を想像で描き、重ねる。
その日が来るまでには、私は恋を理解できているだろうか。願わくば、そうであることを祈る。
「できる努力を怠りたくなくて。私はただ、お姉様を護る力が欲しかったの」
胸中に巣食う望みを殺して、シャルディナとして振る舞う。自然とほころぶ口元は、親愛を宿せただろうか。宿せていなくとも構わない。今日のシャルディナはおかしいのだ。明日になって昨日は調子が悪かったのと甘えれば、些細な違和感はたちまち消え失せてまた日々は巡るだろう。
そう、時は進む。私がシャルディナに成り代わっても変わらずに。誰に気づかれることもなくこの世界を去った哀れな少女の存在など、その程度の影響しか世界に与えない。
ちっぽけで、愚かで、可哀そうなシャルディナ。
貴女が与えられた役割に殉じられなかったがために、私は貴女の姿で貴女の愛した最愛を害する毒となる。
その第一歩を、アリステラの友が集う楽園から始めるのは良いことのように思えた。
無論、問題は多々ある。彼女の人から好かれる気質を反転させるのは無理難題で、味方探しと並行させるのは苦難の道に違いない。それだけでなくこの世界を脅かす毒牙を磨き、振るう必要がある。
「……シャルディナ」
偽りの吐露をアリステラは難しい顔で受け止めた。躊躇いがちに伏せられた睫毛の一本一本に至るまで光を弾いて美しい。
「わたしのことは護らないで。自衛の力はあるから」
「でも、」
「わたしの力になってくれる人もちゃんといる。だからあなたは、他の誰でもなく自分のために学園生活を送ってね」
それはつまり、そういうことだ。神子としての役割を担う彼女を守護し、やりたい道に邁進できるよう手助けする役を与えられた者たちがいるということだ。
それも、学園に。
それがどのような人物なのか具体的な仔細はわからないが、言葉通りの意味だけで十分脅威である。
この場に妖精がいたなら脇目も振らずに何てタイミングで魂交換をしてくれたんだと詰りたい気分である。
もっと早くに交換してくれていたら、受験などしなかった。敵陣に飛び込むような愚かしい真似はしなかった。こんなふうに悪態を吐かずに済んだ。
ああ、でも、だからこそ、だ。
だからこそシャルディナは絶望したのだと、朧げな記憶が少しだけ輪郭を取り戻し、悲嘆を私の心に届けてくる。
姉の力になりたくて勉学に励み、彼女を欺いてまで盾足り得る力を欲して受験までしたのに、課せられた役は望んだ立場とは程遠い悪役でしかなく、傷つけることしか許されていなかった。
悲しくて、苦しくて、恨めしくて……それ以上に、惨めで。
だけど最愛の姉が生きる世界を呪う強さも、反抗するための勇気も持っていなくて。
泣いて、泣いて、泣き疲れたシャルディナは麻痺した頭で最悪の最善を選んだ。自ら命を絶つことで、絶望から解放されようとした。
奇しくもそれが合否判定の日だったと言う、それだけの話。間が悪すぎると思ったが、きっと妖精や創造神は合格通知でトドメを刺されてはかなわないと判断したのだろう。既に自死を選ぶまでに追い詰められたシャルディナ本人がその通知を知ったなら、再帰不可能な精神的ダメージを喰らって廃人になってもおかしくない。
妖精に様子見する暇はなかったのだ。
「えっと、それじゃあシャルディナ、食べよっか」
すっかり冷めた料理を切り分けて美味しそうに上品な仕草で食むアリステラに苦笑う。相槌を打つのも億劫だ。
視線を手元に動かして、ナイフとフォークを手に取る。自然と体が動いた。テーブルマナーのテの字も知らなかったが、体に染みついた教養はやはり健在のようで粗相はせずに済みそうだ。
義母が笑う。義父が笑う。アリステラの話に、笑顔に、花を咲かせる。きっとシャルディナもその輪に入っていただろうから、その姿がありありと目に浮かぶから、私も微笑を浮かべて見せる。
苦痛だった。家族で食卓を囲む時間は何より平凡な幸せの象徴とも言えるものなのに、今はひたすら息苦しい。
サラダも、ソテーも、スープも、何を口に運んでも味がしない。砂を噛んでいるみたいだ。
だが、残したら心配される。気を遣われる。気分が悪いと偽ろうにも、そうしたが最後部屋にまで体調を窺いにくる恐れが格段に跳ね上がる。妖精と話したいことが残っている以上、それは避けたかった。
そっと息を吐きだして、無心で食べる。適度に話題に入って場をやり過ごす。
一夜明ければ同調は済む。それまでの辛抱だと言い聞かせながら。
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