第5話 献上品は装飾と言う名の

 誰かにとっての幸せは、誰かにとっての不幸である。そして誰かにとっての不幸が人を喜ばせることもある。

 遠い昔、まだ言葉も覚束なかったころ。虐められていたコノエに手を指し伸ばしてくれた誰かは穏やかに微笑みながらそう言った。コノエを突き飛ばした者たちを悉く地に伏せさせて、その体を踏みつけて、不釣り合いなほど柔らかな笑みを浮かべていた。

 長い髪が、綺麗だった。澄んだ声が美しかった。神に身を捧げる者のみに許された法衣がくすむほどに、彼の人は超越していた。

 受け売りですよと茶目っ気たっぷりに付け足された言葉の軽やかさが好ましかった。だから、尋ねた。この恩をどう返せばいいと聞いてみた。別れたくなかったのだと、振り返った今ならわかる。世界を呪うばかりだった幼いコノエは、あの日、初めて差し伸ばされたぬくもりが嬉しくて、つながりがほしかったのだ。

 その人はきょとんと大きな目を丸くして、それからしぃっと人差し指を唇にあてた。そして内緒話をするように潜められた声が、それを詠った。

 いつか、同じ人に仕える日がきます。共にその方を支えましょう、と。

 だから、役を理解した日、涙があふれた。残酷な運命だとは思わなかった。悪役になる悲運よりも、思い出のあの人と再会できる喜びが勝った。虐げてきた連中を殺せるほの暗い悦びの方が強かった。

 そして、同時に、あんな幼い時分から役を知って受け入れていたであろう彼の人の目に宿る輝きの強さの意味を知った。

「……俺は冠を手に入れる」

 告げられた彼女は戸惑っていたが、それはもう決定事項だ。魔王役を割り振られた哀れな少女の頭にこの国の王冠を捧げて城主とし、正道を征く救世の乙女を阻む壁とする。蝶よ花よと愛された記憶を持つ平凡な魂を、この世で最も畏れられる恐怖の象徴へ昇格させる。

 それが彼の人の目指す道であり、コノエが唾棄する世界に正攻法であげられる叛逆の狼煙だった。

 五月蝿い月明かりを避けるようにして隠れ家に滑り込んだコノエは烏の行水を済ませてから、脱ぎ散らかした服のポケットにしまっていた瓶を取り出した。

「こんなもの」

 腹の足しにもならない貴族の嗜好品が淡く輝く。一週間で効果が出るような代物には到底見えなかったが、王妃を籠絡する誘蛾灯になれと言外に告げた彼女はひどく真面目な顔をしていた。

 色仕掛け。この自分が。最も忌み嫌われる階層の出身者が、最も高貴な血筋に名を連ねる者を落とせると、本気で彼女は思っているのだろうか。

「――いや、あれは信じる目だった」

 宝石めいた目に宿っていたのは、どこまでも純粋な信望の眼差し。貴方なら無理難題もやり遂げられるでしょうとひたむきに寄せられた想いの塊だ。

 魔王なら傲岸不遜に命じれば良いものを、彼女は祈りすら込めて望みを託す。彼の人は、そういうところを好ましく思ったのかもしれない。

 とりとめのないことを考えながら、コノエは瓶の蓋を開けて粘性のある液体を掌に広げると、それを温めてから髪に塗布した。するすると延びて髪に絡みつく液体は絡まりのひどい髪すら指通り滑らかにしていくようで、満遍なく塗り終わる頃には見違えるほど柔らかな質感へと変貌させた。あまりの効果にコノエは絶句しながら部屋の片隅に置いてあった鏡を取り上げて無言で覗き込む。

 鏡には、妖しい雰囲気の男が映っていた。不揃いながらも艶めく白髪も、草臥れて見える瞳も、滴る水滴の一つをとってもミステリアスだ。ともすれば幽鬼のようにも見えるその男は、それ故にスリルを求める者の心に鮮烈な印象を残すだろう。私が繋ぎ止めようと、思わせるだろう。

 貢ぎ、支配し、支配されて。蜘蛛の巣に絡め取られる獲物の如く。

「……ふはっ」

 あの少女の言いたかったことが本当の意味で理解できてくつくつと笑う。

 顔が良かった自覚はなかったが、なるほど、確かにこれは強力な武器だ。王妃が引っ掛かってくれるかはさておき、一定数の女は誑かされてくれるだろう。仮に誰一人虜になってくれなくても、本業で心を射止める自信はある。どれも失敗に終わるようであれば、添い寝ぐらいはしてもいい。

「ああ、不愉快だ」

 免罪符は手に入れた。大義名分も期せずして得られた。仕えるべき王は未熟でこそあるものの役割を果たすだけの覚悟を秘めていて、最期の時までコノエたちを見捨てることはないだろう。

 長年苛烈に燃え盛る憎悪という名の獣を飼い慣らしてきたが、もう我慢する必要はないのだ。

「俺は俺の復讐譚を始めよう」

 彼女に従って死ぬのではない。コノエはコノエの意志で役に殉じ、この生を永眠するまで謳歌する。妖精と約定を交わした彼女と同じだ。目的を果たしたその末に破滅が待つなら本望なのだ。

 だから、血塗られた玉座の主人が粉骨砕身する配下に心を砕く必要はない。コノエは自分のために生きているのだから。




 目が覚めて、初めに襲ってきたのは悲哀だった。

「……うっとうしいなぁ」

 同期が済んでいない昨日も薄々感じてはいたが、魂に馴染んだその感情の強さは想像を超えている。油断すれば私の覚悟を凌駕しそうだ。本当に、アリステラに対するシャルディナの執着には恐れ入る。

 寝起き早々虚脱感に見舞われながら、すっかり硬くなってしまった節々を伸ばす。やはり床で寝るのは体に悪い。自業自得ではあるがあちこちが痛んで仕方がない。寝不足のせいで瞼は重いし頭の回転は鈍っているしで踏んだり蹴ったりである。

「おはようございます、シャルディナ」

 昨晩の行動を悔いつつ立ち上がった私の眼前で妖精が笑う。唐突に現れた彼の衣服は昨日と変らない。浮かぶ笑みも、かけられる声音も、何もかも同じだ。それでも違って聞こえたのは、真に私がシャルディナの記憶を継承したからだろう。

 彼女の目や意識を通して感じる世界は、透明感が増していた。肌に触れる空気は柔らかく、鼓膜を打つ音は華やかに、鼻をくすぐる香りは儚さを秘め、色彩豊かな世界は視覚を楽しませる。

 巨匠が描いた出来栄えの良い絵本を直接歩いているような感覚に肌が粟立った。感受性の豊かさが仇となった実例を、初めて知った。

「おはようございます」

 昨日から幾度も込み上げる憐憫を無理矢理呑み込んで、晴れやかに笑い返す。

「支度をするから少し待っててください」

「わかりました」

 公爵家ともなれば専属侍女の一人や二人付いて身嗜みを整えてくれるイメージが強かったが、どうやら違うらしいと頭の中にすっと入ってくる知識から知る。朝からこの部屋を訪れる人はいない。過去にはいたが、一人で準備くらいできるからと固辞したシャルディナの自由意志を尊重して、一人また一人といなくなった。お嬢様と呼ばれることは許せても、過分に世話になることは許せなかったのだろう。若しくは実の父母と暮らしていた頃はかなり慎ましい生活を送っていたのもあって、お嬢様扱いには慣れなかったのかもしれない。

 机に移動する傍ら、ふと鏡面に映った見慣れない面差しが引っかかって足を止めた。じっと見つめ返してくる双眸の深い感情の揺らぎがやけに印象的だ。何度見ても見飽きることのない美貌を際立たせる深い色合いは、昨日見た時よりも明るく見えた。恐らく、私と言う魂が身体に馴染んだせいだろう。それがシャルディナらしさの象徴である気高さや高貴さを薄れさせ、より感情的に――悪く言えば軽薄に双眸を染め上げている。ともすれば、変貌したと思われるほどに。

「(気をつけないと、ね)」

 魔王役は誰でもいいわけではない。代役が可能だったのなら、妖精は魂交換なんて暴挙に手を出さなかったはずだ。

 今回創造神が編纂しようとしている歴史は、神子を主軸に置いた王道の冒険譚。唯一無二の救世の使命を背負う少女が、私欲を捨てて公的利益のために生きるお話だ。或いは異世界版ジャンヌ・ダルクといったところだろう。神の言葉を賜った聖なる乙女が予言と言う名の役に殉じて戦うさまは、さぞかし人の心を打つに違いない。ジャンヌ・ダルクと異なるのは、討たれるのが善ではなく悪であるということと、敵対するのが血縁者であることだ。そしてそれこそが、魔王役を他に変更できなかった理由でもある。

 単純な勧善懲悪の物語であれば、悲劇はいらない。涙を誘う話は感銘を与える一方でノイズにもなる。読後感良く終わるために必要なのは爽快感であって、お涙頂戴な背景ストーリーではないのだ。

 悪は悪のまま散ってこそ美しく、悍ましい。実は悪名高いあだ花は哀れな境遇の持ち主でした、など後味が悪すぎる。

 しかし、今回私が渡された演目の降板表は、姉に討たれる妹と言う文脈が歴史のうねりの中で一際輝くと判断して組まれている。悪は悪、善は善と断絶させた上で、誰の目にもわかりやすい悲劇を作り出そうとしている。

 救世の神子を悲劇のヒロインとして輝かせるために。

 後世歴史を学ぶ者たちがアリステラの名を歴史に翻弄された聖女として記憶し続けられるように。

 だからこの役は、あくまでシャルディナであることが前提の役なのだ。義姉夫婦に引き取られ一身に愛を受けたはずの少女が厚顔無恥にも恩を仇で返す。その構文が求められているのだ。

 故に、何があっても私が彼女ではないと悟られてはいけない。疑われてはならない。悲劇は悲劇のまま終わらせて、幕引きとしなければならない。

 私が別人であると知ってもいいのは、運命共同体である四天王役の人たちだけだ。

「シャルディナ?」

 どうやら思考の海に沈み過ぎたようだ。訝しんだ様子で眼前へ現れた妖精に曖昧な笑みを浮かべる。

「どうしようかなって」

「記憶にありませんか?髪なら遊ばせていましたよ。服なら適当でした。メイクはしていませんでしたし、特に何も考えずに準備をすれば、それでいつも通りのシャルディナが完成します」

「そう」

 頓珍漢な相槌は軽く流して鏡の前から離れると、今度こそ歩みを止めずに机へ向かい、椅子に腰かける。昨夜も実感したことだが、つくづく愛は毒だと実感する。

 服越しに伝わる柔らかな材質は、シャルディナが享受してきた愛情そのものだ。かけられたお金の量は、目に見える家族の証だ。息が詰まるほどの愛の証明を目の当たりにするたび、背負った役の名を忘れてしまいたくなるほどの辛苦が押し寄せてくる。彼らが背負うであろう今後の苦悩を想えば呼吸をするのが難しくなる。

 そして、それこそがこの世界の仕組みが欲した色だと知って、魔王役を割り振られた彼女に対する同情が顔を覗かせる。

 愛のぶんだけ悲劇は重厚な旋律を織りなして、歴史の渦の中で燦然と煌めく一等星を生み出す。そのための礎の嘆きなど、誰の耳にも届かない。

「櫛は」

「手前の引き出しですよ」

 そこ、と指示された場所を開けると、古びた櫛と手鏡が出てきた。化粧をしていなかったという言葉に偽りなく、下地道具一つ入っていない。若い時分にする過度な化粧は毒に等しいが、さりとて何もしないのは柔肌を傷つける。

 気が向いたときに揃える物を脳内でリストアップしつつ、櫛を手に取って髪を梳く。さらさらと絡まることなく流れる射干玉の髪は、梳くほどに艶を増し、光を弾いた。絹糸のように繊細で、惚れ惚れするほど美しい。しかしこの美しさすら悲劇を彩る一要素に過ぎないのだとしたら、素直に感嘆するわけにはいかなかった。

「ああでもせっかくですから、貴女がシャルディナであると自認するためにも、今後は髪留めを留めても良いかもしれませんね」

「持ってた覚えがないんですけど」

「それくらいなら用意しますよ。少し待ってもらうことになりますが」

 どうでしょうと窺ってくる妖精に、まさかどうでもいいとは言えず、それならばと調達を依頼する。そこからは早かった。頼まれたのがよほどうれしかったのか、喜色満面に飛び立っていった妖精はものの数分ほどで戻ってきた。その手には、ベルベッドのリボンが握られている。真紅の生地に朱鷺色のレースの縁取りと金糸で縫われた薔薇の刺繍が華やかなそれは、どちらかと言えばアリステラに似合いそうな意匠だ。

 いったいどういうつもりでこんなものを持ってきたのだと見上げた私に、妖精は素晴らしくお綺麗な笑みを湛えた。

「実は、出てすぐにユリアナに行き会いまして。貴女への献上品だそうです」

「………………は?」

 想像の斜め上を行く返答に乾いた声が零れた。

 ユリアナ。それはコノエと同じくシャルディナに仕える配下役の者の名だ。それ以外で知っていることはない。どこに住んでいて、どのような見目をしていて、どうしたいと望んでいるのか。何一つとして私は知らない。知っているのは、少なくとも昨夜は近くにいなかったはずだということ。近くにいたのであれば、コノエと同様近くにいると察せたはずだ。

 どうして今朝になって妖精とばったり出くわすような距離にいたのか。そもそもなぜ妖精がシャルディナと関係ある者だと判じたのか。

 次から次へと湧き上がる疑問の波に呑まれつつ呆気に取られた面持ちで見上げた私に、妖精は目線を少々上にさまよわせてから口を開いた。

「ユリアナは、そういう人です」

 暴論だった。納得するにはあまりに端的すぎ且つ適当すぎる言葉に頬が引き攣る。

「これは、その人の趣味?」

「どうでしょう。あの人はシャルディナを知らなさそうでしたから」

「平民?」

「エルリア教皇庁所属の人です」

 さらっと投下された爆弾に息が詰まった。

 エルリア教皇庁。それは神聖エルリア皇国にあるエルリア神殿にて、創造神アレクシアを唯一神として仰ぎ、教義を説くこの世界最大の宗教機関のことだ。教皇フランソワを最高権力者としていて、その権威は現エルリア皇帝レオンすら凌ぐ。その恩恵でエルリア教皇庁に所属する者たちも一目置かれており、下手な貴族や王より権力を有していた。

 そんな教皇庁に、まさかの配下役がいる。それも今朝手土産を手に近くまで来ていたとは。

「冗談がきつい……」

 もちろん、仲間が教皇のおひざ元に最初からいるのは大きなアドバンテージだ。コノエのように偉い身分の人々に取り入る算段をそれほどつけずともよいわけだし、事を起こせば神殿は率先してアリステラを救世主として掲げる代表となるだろうから情報も入ってきやすくなる。内部から盛大に攪乱してもらうのもいいし、口利きを頼んで潜入させてもらうのも面白そうだ。

 だが、それほど強力な切り札を使いこなせるだけの才覚が私にはない。シャルディナにはあったのかもしれないが、ごくごく平凡で一般的な家庭育ちの人間にはこうしたらいいだろうなと想像するのが関の山。キングは躊躇いなく使えても、ジョーカーを使うに適した瞬間を見極められるはずもなく、負の自負だけが強くなっていくばかりだ。

「勝手に動いてくれないかなぁ」

 自主判断でやってきてリボンの手土産を妖精に預けていけるだけの行動力の持ち主なのだ。あれこれ指示を出さずとも臨機応変に場をひっかきまわしてくれたならそれだけで助かるのだが。

「無理でしょうね」

 卑屈さから口をついて出たぼやきは妖精にばっさりと切り捨てられる。

「先入観を持ってほしくはないので聞き流してもらっても結構ですが、他の三人ならいざ知らず、ユリアナは教皇庁の人間であり、教義を説く側に立つ人として十分だと判断されるほどに生粋の信徒でもあります。役を蔑ろにするはずがありませんよ」

 つまり魔王役を差し置いて活躍する気も暗躍する気もなく、ただ従順に命令に従う狗になると、そういうことらしい。信心深いのも困りものである。

「(清廉潔白、ではなさそうだけど)」

 妖精から視線を逸らしてリボンを撫でる。これは目印だ。彼の人こそが仕えるべき主であるとユリアナに教える物であり、同時に貴女に仕える者はここにいると存在を主張する物だ。魔王役を遂げる覚悟の是非を問う品でもある。

「会いたいですか?」

「……最後でいいです。直接渡しに来なかったっていうことは、そういうことでしょう?」

 興味を惹かれなかったと言えば嘘になる。アリステラに似合いそうな代物だったとはいえ、わざわざ土産を持参してすぐそこまで来ていたのだ。為人を知りたかったし、話してみたかった。次にコノエと会う時の話の種もほしかったし、できれば一堂に会する前に個人的に顔合わせを澄ませておきたかった。

 だが、ユリアナは妖精にリボンを預けて去ってしまった。目と鼻の先まで足を運んでおいて、帰ってしまった。今は会う時ではないと判断したのか、それとも別の思惑があるのか推し量る術はない。ただ対面する気がなかったのだけは如実に知れる。

「千早は少し、聞き分けがよすぎますね」

 あくまでユリアナの意思を尊重する意向を告げた私に妖精は幾度となく顔に張り付けている穏やかな笑みを湛えた。

 頑是ない子どものように駄々をこねられても困るだろうに、この妖精は私にどうあってほしいのだろう。

「妖精さん。もうその名前は呼ばないで。私はシャルディナの役を――魔王役を引き受けたんです」

 これまた何か言われそうだと思いつつ指摘すれば、妖精は湛えた笑みを深めた。

「千早奏。名前は捨てなくてもいいんですよ」

「そうじゃないです。シャルディナが私に名前をくれたように、その名前は彼女にあげたんです」

 そう。捨てたわけではない。私には三十余年千早奏として生きた記憶があり、これからはシャルディナの人生を全うする。彼女から役を、名前を引き継いで生きていく。同じように、シャルディナも千早奏の残りの人生を歩んでいく。お互いに望んだ結果ではなくても、名を、存在を、個を交換したのだ。過去の名前を手放してあげないと、今の名前が可哀そうだ。今の名前をくれた相手にも失礼だ。私をシャルディナと認識している人たちに、あまりにも不義理だ。

「……やはり貴女は、今までの方たちとは似ても似つかない」

「おほめにあずかり恐悦至極です」

 それよりもとリボンを妖精に押しつける。

「これ、どうやって結ぶの?」

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