武蔵野の彼

橘 泉弥

武蔵野の彼

 え、と思った。

 そうか、とも思った。

 井の頭自然文化園の彼が亡くなった事を、私はその日、知ったのだった。

 友達、ではなかった。知り合い、でもなかった。

 私は彼に一度しか会っていないし、あの時彼は、満足な夢の中に居ただろうから。

 彼の逝去をネットニュースで見た私は、彼について検索をかけた。

 分かったのは、一九九一年生まれである事、広島の動物園で孵化し、二〇〇二年に武蔵野へ来た事、全長は一メートルを超えていた事等だけだ。

 私が気にしていたのは、彼に名前があったのか、なのだが。

 名前を知れば、その名を呼ぶことができる。数多の個体の中から特定し、冥福を祈る事もできる。私は自然文化園の事情を知らないが、彼の名についての情報は、どうしても見つからなかった。

 三十年。まあ、大山椒魚の平均寿命ではあるだろう。

 私にできるのは、彼のごつごつした顔や、つぶらな瞳、身体に対して小さな手足と、滑らかな尻尾を思い出す事だけだった。


 そして最近、井の頭自然文化園に、新しい個体がやってきた事を知った。今度は、彼女だ。

 先代と同じく広島の動物園で孵化した彼女は、九歳という若さで、都内に数頭しかいない大山椒魚の一角を担う事となった。

 その大役に、彼女の押し潰されたような体躯が一層潰れないと良いのだが。


 冗談はさておき。


 動物園の大山椒魚は、死んでも代わりが来るらしい。一頭いっとう、大切に飼育されてはいるが、動物園の事情もある。

 人間はどうか。

 アメリカの大統領が暗殺されても、日本の元首相が撃たれても、代わりがいる。

 人間一人が死んだところで、世界は何も変わらない。

 でも。

 大山椒魚が一頭死んだだけで、私のセカイは少し変わった。物悲しさと寂しさを感じ、今まで避けていた「エッセイ」というコンテンツを書くに至った。

 私が死んでも、きっと世界は変わらないだろう。紀元前から続いてきた人間の営みは、何の問題も無く続いていくはずだ。

 それでも多分、私の死は私の周りにいてくれる人達のセカイを変える。多かれ少なかれ、影響を与える。

 そこに何を見出すかは、彼等の自由だと思う。ただ、それが良いものである事を祈りたい。誰かの人生に何かを遺せるのなら、私の命にも、意味がある気がするのだ。

 あの、武蔵野の彼のように。

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