かつて、私たちは愛のために殺し合った

言ノ葉紡

序章


 雪が降る公園に、はしゃいで駆け回る幼い子どもがふたりいた。血を分けた姉妹なのか双子なのか。目鼻立ちに微妙な違いこそあったものの、瓜二つと言ってもよい面差しをしていた。弾む声は喜色に彩られ、寒々しく白一色に染まった冬景色を暖かなものに変えている。

 降り積もる雪の音すら溶け込む空間に、きゃあきゃあと響く幼子の声ふたつ。

 ふたりの他に、公園には誰もいなかった。しばらく前まで彼女たちの面倒を見ていた母親は、我が子に乞われて近くの自動販売機へ暖かい飲み物を買いに行っていた。ものの善悪を知らない幼い子どもたちだけが、そこに残されていた。

 程なくして、ふらりとした足取りの人影が公園に現われた。覚束ない足取りをしているが、まだ年若い少年だ。血の気の引いた蒼白な顔に弱々しい表情を浮かべ、苦しげに眉を顰めている。一見すると老人のように草臥れて見えたが、その雰囲気を帳消しにしてしまえるぐらい――そう、言うなれば、美醜にうるさい者ですら見惚れるほど整った顔立ちをしている。世界的に人気を博す俳優ですら、この少年を前にしては不戦敗を認めるだろう。

 ふらふらと歩を進めていた少年は、人気のない公園をぐるりと見渡した。声に導かれるようにして、無邪気に駆け回るふたりを目に留めると、しばしその姿を視界にいれた。真っ白だった頬に、僅かに血の気が戻る。

 時間にして数分あまり。寒さを忘れた様子で、じっと遠目に子どもたちを眺めていた少年は、かじかんだ唇を震わせた。音にならなかった声が、しんしんと降り積もる雪に溶けて消えていく。

「――――っ」

 もう一度、少年は唇を動かした。やはり、寒さと言葉にならない感情のうねりは、音になることなく消えていく。その事実が少年の気を逸らせたらしい。もどかしげに彼は唸ると、発したかった言葉をぐっと呑みこんだ。気を取り直すようにして頬を軽く叩いてから、足音ひとつ立てずに子どもたちへ近づいていく。

 片方が、少年の接近に気づいて顔を上げた。それとほぼ同じタイミングで、もうひとりは何かに導かれるようにして、きょとんとあらぬ方向を見やると、やにわに片割れを置いて駆け出した。

 少年はそれを特に気にする様子もなかった。彼の意識は、残った子どもにあった。静かにその子の前まで歩み寄ると、膝をついて視線を合わせた。

「……おにいちゃん、だあれ?」

 目線が近くなったのが嬉しかったのか、子どもはあどけない笑顔を満面に浮かべていた。きらきらと輝く瞳は楽し気で、屈託なく伸ばされた手は無邪気そのもので、純粋な好意だけが満ちている。

 その小さな手を取って、少年は寂しそうに微笑んだ。

「あなたに誓いを捧げた者」

 今度は、しっかりと音になった。それが嬉しくて、哀しくて、少年は笑みを深める。

 子どもがこてんと首を傾げた。

「ちかい?」

「そう」

 逢いに来た。

 逢いたいと願っていた。

 そう笑う少年の目じりから、一筋の涙が零れ落ちた。



       ******



 呼ばれた気がした。誘われた気がした。

 それは現実に「声」として子どもを呼んだものではなかったが、確かに名前を呼ばれた気がしたのだ。

 だから、片割れを放り出して駆けていった子どもは、前方にしか注意を払っていなかった。前へ前へ走ることしか考えていなかった。

「…………め」

「きゃあっ!」

 故に、不意に後ろから腕を引かれて、悲鳴をあげた。有無を言わさず背後から覆うようにして抱きしめてくる温もりに体を震わせたのも、当然の反応だった。

 視界を奪う黒に溺れまいと仰ぎながら必死で踠く。じたばたと動かした足は覆う黒を何度も蹴り上げたはずなのに、解放されるどころかますます抱きしめる力が強くなるだけだった。

「…………だ、れ?」

 湧き上がる恐怖に囚われて、子どもは藻掻くのを諦めた。代わりに背後から包み込む温かなぬくもりに縋り付きながら、正体を見極めようと目を凝らした。黒の中に、相手の輪郭を見出そうとした。

「――――あ」

 ぱたりぱたりと雨が子どもの頬を濡らしたのは、その瞬間だった。

 泣いている。子どもを抱きしめている誰かが、声もなくただ涙だけを流している。

 ほろほろと。子どもの頬にも涙が伝った。なぜだかむしょうに悲しかった。泣かないでと慰めてあげたくなって、抱きしめてくる腕を優しく叩く。

「……ひ、め」

 感極まったような声がした。ひめ、ひめ、と泣き続けるその声に滲む切なさに、目を閉じる。

 悲しい。嬉しい。会いたかった。でも、会いたくなかった。

 押し寄せる感情の波が、全身を走り抜けた恐怖を押し流していく。

 最後に残ったのは、泣きじゃくる誰かを慰める腕が欲しいという、些細な願いだけだった。

 


        ******



 永らく続いた仮初の眠りの果て。

 目覚めの胎動が運命の始まりを告げた時、例外なく彼らは世界を縛る秩序の無慈悲さに怒りを覚えた。

 禁忌を犯した者たちが悪いのだと頭では理解していても、八つ当たりめいた怒りは呑み下せなかった。生まれてくる命に最後まで死ねと言えなかった周囲の者たちが悪いのだとわかっていても、悲しみは世界に向いた。

 世界に向けるしか、なかった。


 ――姫、と。誰もが呼んだ。


 それが免罪符であるかのように。



        ******



 笑っていた。

 花があふれる楽園の世界で。幸せを約束された花園で。

 咲き乱れる花にも負けないぐらい、八人は楽しそうに仲よく笑っていた。

 ずっとこのままで。

 ずっと一緒に。

 そんな儚い約束を交わしていた。

 叶わない夢はないと信じていた。

 もう還らない、遠い、遠い、昔の記憶。

 幼いままでいられた頃の、一番幸せだった記憶。



 だから、時折夢に見る。



 壊れてしまえばよかったのか。

 忘れてしまえばよかったのか。

 今になってはわからないけれど。

 それでも、確かに愛していたから。

 壊してしまえばよかったのか。

 忘れさせたならよかったのか。

 正解のない袋小路にはまりながら。

 耳の奥で木霊する懐かしい声に、涙を零す。



 ――優しい世界が欲しかった。

 ――――ただ、それだけだったの。

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