第一章 #23

昴は、扉の前で待機していた看護師に案内され診察室へ入る。

診察机では年輩の医師がカルテを見ながら座っていた。


医師から背もたれがある椅子に座るよう促された昴は、「お願いします」と言って座ると、医師は自分の椅子をクルっと回して昴の正面を向いた。


「さて、今日はどうしましたか?」

「左の耳の奥が、昨日から痛くて、血も少し出たみたいで」

「血? 耳掃除でひっかいちゃったかな。ちょっと診せてね」

医師は検耳鏡で昴の左耳を覗く。


「傷は無いようだけど、……ん? あぁ、鼓膜だねぇ。どうしたの、これ」

「……ちょっとぶつけちゃって」

「ぶつけた?」

医師は検耳鏡を左耳から抜くと、昴の顔を反対に向けて右耳も診た。

「こっちは大丈夫そうだね」


医師は検耳鏡を机に置くと、カルテに何かを書きながら昴に質問を続けた。


「左耳は、昨日の何時頃、どうやってぶつけましたか?」

「……どうやって?」

昴は返答に困った。

(どうしよう。そこまで考えてなかった。なんて言えばいいんだろう)


すると医師は、顔だけ昴の方に向けると、「とりあえず、先に聴力検査をしましょうか」と告げた。



待合室の隅の席で、綺羅が膝の上の学生カバンを見ながら昴を待っていると、隣に女性がやってきて、座ったかと思うと「清永昴君の妹さんですか?」と声を掛けて来た。

綺羅が顔を上げると、そこには優しそうな若い看護師が、綺羅を見て微笑んでいた。


「ちょっとお話したい事があるから、奥のお部屋まで一緒に来てもらえますか」

綺羅は、構えながら眉間に皺を寄せた。


「……お兄ちゃんは?」

「お兄さんは今耳の検査をしてるところよ」

「じゃぁお兄ちゃんが終わるまでここで待ってます」

すると看護師は、パッと感心した振りをする。

「すごいわ、いい子ねぇ。外で知らない人に声を掛けられたら、今みたいに絶対について行ったらダメよ。でもここは病院で、私はここで働く看護婦さんなの。だから安心して一緒に来てもらえると嬉しいんだけど。お兄さんも終われはお部屋に来てくれるから」


綺羅は、看護師の顔をじーっと見た。

看護師は、綺羅に見つめられ、思わずドキっとする。


(この子めちゃくちゃ美少女じゃない。あー、こんな顔に生まれたかったわ)



看護師に連れられ、兄のカバンを抱えた綺羅が、ベッドが1台置かれた小部屋に入って来た。


「ランドセルはここに置くわね。お兄さんのカバンもここに置いていいわよ」


看護師が、持っていた綺羅のランドセルをベッドの上に置くと、綺羅も兄のカバンをその横に置いた。

そして看護師に促され椅子に座ると、看護師も近くに椅子に座った。


その小部屋には、椅子がもう一脚、あたかも今からもう一人ここに来ますと言っているように置かれている。

綺羅がその椅子を気にしていると、ガラガラっと引き戸が開け、昴を診た医師が入って来くとその椅子に座った。


「おはよう。君が清永昴くんの妹さんかな?」

綺羅は小さくコクリと頷いた。


「急にこんな所に連れて来られてびっくりしたよね。ごめんね。怖がらなくていいからね。僕はここの医者で横山と言います。今お兄さんの左耳を診察して、ちょっと聞きたい事があったから妹さんにも来てもらったんだよ。まずはお名前を教えてもらえるかな」

「……清永綺羅です」

「綺羅ちゃんね。ランドセルって事は笹川小学校の生徒さんでいいのかな」

「……はい」

「今日は君たちだけで来たそうだけど、お母さんやお父さんはお兄さんが耳の事は知ってるのかな?」

「……」


綺羅は口をギュっと閉じ、何も答えなかった。

医師はそんな綺羅を見て、言葉のニュアンスを変えて質問を続けた。


「今日、お母さんやお父さんはどうしてるの?」

「……お母さんはいなくて、お父さんは家にいます」

「じゃぁ、お父さんには言わずに来たのかな」


綺羅がまた黙り込む。

すると看護師が、綺羅の横に来て膝をついてしゃがむと、優しく手を握った。


「大丈夫よ、何を聞いても怒ったり治療を止めたりしないから」

「あの、……お兄ちゃんの、痛いのと気持ち悪いと目まいは治りましたか?」


綺羅が不安そうに看護師を見ると、その質問に医師が答えた。

「お兄さんはね、今痛みと気持ち悪いのと目まいを押さえる点滴をしているよ。だからじきに収まってくるから安心して。お兄さんは我慢強い子だね。一晩よく頑張った」


綺羅が少しホッとするのを見て、医師は質問を続けた。

「それで、お兄さんはどうして耳を怪我したのか、綺羅ちゃんは知ってるのかな?」

綺羅は、恐る恐るポソッと呟いた。

「……ぶつけました……」

「どこにぶつけたか知ってる?」

「……分かりません。学校から帰ってきたらお兄ちゃんはもうケガしてたから」

「その時、家には誰が居たのかな?」


綺羅は何も答えなかった。

綺羅の前でしゃがむ看護師が、心配そうな顔でチラッと医師を見る。


するとガラガラと引き戸が開き、「綺羅?」と呼ぶ声がする。

綺羅が顔を上げると、そこには昴が立っていた。

「お兄ちゃん!」

綺羅は昴の元に掛け寄ると、右腕にギュッとしがみついた。

「どうしたの?」


心配そうに綺羅を見る昴の傍に医師が来ると、頬に手を添えクイっと顔を上げて、昴の顔を見た。


「うん、顔色も少し良くなってきたかな。抗生剤と耳に塗る薬を出しておくから、土曜日にもう一度来て下さい。その頃はもう学校は終わってるよね?」

「はい、明後日が終業式なので」

医師は「じゃぁお大事に」と微笑むと、部屋を出て行った。


看護師が、昴と綺羅を待合室まで案内する。

「じゃぁここでお会計をお待ちください」

「ありがとうございます」


昴はペコリと頭を下げると、腕にしがみつく綺羅と一緒に椅子に座り、顔を近づけて小声で話し始めた。


「どうしてあそこに居たの?」

「お兄ちゃんがどうしてケガをしたのか聞かれたの」

「え?」


驚く昴に、綺羅は両手を胸の前で振って否定する。

「大丈夫だよ。ぶつけたってだけ言って、他は何も言ってないから」

昴はホッとした。

「ごめんね、怖かったでしょ」

「ううん、大丈夫。それよりお兄ちゃんは? 耳はどうだったの?」

「やっぱり鼓膜が破れるって」

綺羅が眉間に皺を寄せて悲しそうな顔になる。


「でも、治る事が多いから、僕も多分大丈夫なんじゃないかって」

「……ほんと?」

「ほんとほんと」

すると受付から「清永昴さーん」と呼ばれ、昴と綺羅は受付へ行く。


「お会計は300円です」

スタッフからそう告げられ、明細書と処方箋と保険証を渡される。

「300円?」

あまりの安さに昴と綺羅がキョトンとすると、スタッフが説明をしてくれた。


「M市では小中学生の医療費は一律300円なんですよ。これはどこの病院でもそうだから、体調が悪い時は我慢せずに病院に来て下さいね。あ、それと、お薬はお隣にある薬局でこの処方箋を渡して下さい。お薬代は無料ですからね」



昴と綺羅が病院を出て、隣にある薬局へ向かった。

「私たち、M市に住んでて良かったね」

嬉しそうに綺羅が言った。

「ほんとだね。知らなかったよ、病院代がこんなに安いなんて。これならお母さんから貰わなくても全然大丈夫だったね。綺羅も何かあればすぐに病院に行くんだよ」

「分かった。で、お兄ちゃんの耳はどう? 少しは良くなった?」

「うん。点滴のお陰かな。動いても目まいはしなくなったよ」


綺羅は、「良かったね!」と昴の右腕にギュッとしがみついた。



病院の診察室では、診察机でカルテを書く医師に、看護師が小声で話し掛けた。

「先生は、あの子たちどう思われました?」

「何も話してくれなかったから何とも言い難いけど、もしかしたら平手打ちをされて鼓膜が破れたかもしれないね」

「ですよね。親からの虐待じゃなければいいんですけど…」


医師はカルテに「虐待」の「虐」の字を書きかけて止めると、看護師を見た。

「しばらく通院が必要だし、経過観察しながら様子を見よう。あの子たちが来院した時は異変が無いか、注意深く見る様にしてあげて」



昴と綺羅が、薬局から出て来る。


「じゃぁ今日は綺羅が中学校まで送ってあげるね」

「え、いいよいいよ。小学校は目の前なんだし、一人で行けるから」

「……ほんと?」

昴は綺羅を見て、ニコっと微笑む。

「うん。お医者さんも言ってたでしょ。それに薬ももらったし大丈夫だよ。今日はついて来てくれてありがとう。遅刻になっちゃってごめんね」

「当たり前じゃん、そんなの。お兄ちゃんも無理しないで、辛かったら保健室で寝てるんだよ。じゃぁまた帰りは公園でね」


綺羅は、ランドセルを揺らしながら小走りで校門へ向かった。

そして校門に着くと、綺羅を見送る昴に向かい、両手を上げて大きく振る。


それに応える様、昴が胸の前で右手を振ると、綺羅は踵を返して中へ走って行った。

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