第一章 #22
お兄ちゃん、お兄ちゃん。
ベッドで眠る昴は、どこからか聞こえるうっすらとした声で目を覚ますと、すぐ目の前に綺羅の顔があった。
「……綺羅……?」
「あ、起きた。おはようお兄ちゃん」
「おはよう……」
昴は綺羅に支えられながら体を起こす。
綺羅は枕の上に敷いてあったタオルを見た。
「良かったぁ。もう血は出てないね。耳はどう? まだ痛い?」
「……まだ少しチカチカする、かな」
「じゃぁ早く準備して病院に行こ。朝ご飯は昨日のおかゆさんの残りでいい?」
「うん、ありがとう。歯、磨いてくるよ」
歯ブラシを口に咥えた昴は、洗面台の鏡で顔を横にしながら左耳を確認した。
(見た目じゃ分かんないんだよなぁ。ほんとに鼓膜が破れてるのかなぁ)
すると、急におぇっとえずいてしまい、慌てて歯ブラシを口から取って下を向き、暫くして落ち着くと、顔を上げて、ふぅぅっと一息ついた。
(ダメだ。気持ち悪いのもまだ治ってないみたいだし、さっさと顔を洗おってしまおう)
歯磨きを終えた昴が台所へ行くと、食卓には、薬と、おかゆが入った茶碗と水の入ったグラスが向かい合って二人分用意され、綺羅が椅子に座って昴を待っていた。
「お待たせ」
昴は椅子に座り、「いただきます」と手を合わせると、スプーンでおかゆを一口食べた。
「あれ? 昨日のと味が違う」
昴の顔をじっと見ていた綺羅の顔が、パッと明るくなる。
「そうなの、味変してみたの。昨日は何も入れなかったんだけど、今日は塩を少しだけ入れてみたんだ」
「そうなんだ。違うおかゆさんみたいで美味しいよ」
「良かった。食べたら薬も飲んでね」
「うん、分った」
食事を終え、綺羅がシンクで食器や空になった炊飯釜を洗っている。
昴は自室で扉を開けたまま、パジャマから学生服に着替えていた。
そして着替えが終わると机の中から財布を取り出し、中から2万2千円を抜いて、引き出しの中にあるノートの間にそっと隠した。
すると背後から「お兄ちゃん」と声がして、昴が振り向くと、その拍子で左耳がジンと痛み、思わず顔がゆがんだ。
「ったぁ」
「あ、ごめんね、大丈夫!?」
綺羅は慌てて昴の横まで来て、心配そうに顔を見る。
「ううん。こっちこそ驚かせてごめん」
綺羅は、昴の腕にしがみついて顔をうずめた。
「どうしたの?」
「昨日洗った枕カバーがね、今見てきたら血が取れてなかったの」
「枕カバー?」
綺羅がコクンと頷く。
「いいよそんなの。沢山ついてた訳じゃないし、全然気にならないから」
「やだ。……新しいの買おうよ」
「まだ使えるんだから勿体ないよ。そんな事より綺羅は学校に行く準備出来てるの?」
「うん。お兄ちゃんは? お金と保険証は持った?」
「持ったよ。ほらこれ」
昴が財布とカードケースを見ると、綺羅は昴の腕から離れ、急いでコートを着るとランドセルを背負う。
「じゃぁ出発しよう。お兄ちゃんも急いで」
昴は、「はいはい」と言いながら、机の横にぶら下がる鍵を首に掛け、ダウンジャケットを羽織った。
耳鼻科に到着した昴と綺羅がおずおずと待合室に入ると、中は多くの患者がいた。
その人の多さに気後れした綺羅が、昴の腕にしがみつく。
昴は綺羅に小声で「大丈夫だよ」と言うと、ゆっくりと受付へ向かった。
受付では事務員の女性が忙しそうにしている中、腕にしがみつく綺羅を連れた昴が恐る恐る声を掛けた。
「あの、すいません」
「はい、どうされましたか」
カーディガンを羽織った若い女性が昴に気づき、顔を上げる。
「耳が、痛いんですけど」
「耳ですね。耳のどこが痛いんですか?」
「どこ? えーっと、奥というか中というか」
「耳の奥ですね。他は大丈夫ですか? お熱はありますか?」
「熱は多分無いと思うんですけど、他には気持ち悪いのと目まいが少し……」
「分かりました。ではこの問診票を書いていただけますか? 体温はこれで測ってもらって……」
そう言いながら、クリップファイルに挟まれた問診票と体温計を昴に渡そうとした事務員の手が、ふいに止まった。
「保護者の方はどちらにいらっしゃいますか?」
昴の腕を掴む綺羅の手に、ギュっと力が入った。
その感触で綺羅が動揺しているのを感じた昴は、わざと平気な振りをした。
「僕たちだけで来ました。保険証もお金も持って来てます」
昴が保険証をカウンターの上に置くと、事務員が手に取った。
「ごめんなさいね。念のために、お名前と生年月日を教えてもらえますか?」
「……清永昴。……2010年7月8日、です」
「ありがとうございます。じゃぁ保険証はこのままお預かりしますので、問診票は書けたらここに持って来てもらえますか。診察は8時30分からなので、時間になったら順番にお呼びしますの少しお待ち下さいね」
事務員はサクサクと話を進めた。
昴は内心ホっとしながら頷きながら受け取ると、綺羅を連れて待合室の隅へ行き、並んで椅子に座った。
昴の脇から、ピピピピピっと体温計が鳴る。
昴が脇から体温計を取り出すと、綺羅が横からヒョイとそれを取って体温を見る。
「36.7だって。良かったね、平熱だよ」
「そうだね」
昴は問診票の体温欄に、36.7と記入すると、綺羅が「書く所いっぱいあるね」と問診票を覗き込んだ。
「……あ、そうだ、綺羅」
「なに?」
昴は綺羅の耳元に顔を近づけて、「耳はぶつけたことにするから」と告げると、綺羅はコクリと頷いた。
受付に問診票を提出した昴は、綺羅と並んで座ったままで待ち続け、9時を過ぎてやっと「清永さーん、お待たせしましたぁ」と名前を呼ばれた。
「じゃぁ綺羅、ちょっと待っててね」
昴は綺羅に学生カバンを預けると、立ち上がって診察室へ向かう。
綺羅はその後ろ姿を不安そうに見つめ、姿が見えなくなると、俯いて膝の上にある兄の学生カバンを、右の人差し指でなぞりながら兄を待った。
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