第一章 #19
床に倒れ込んでいた昴は、痛みを堪え立ち上がろうとするが、立ち眩みがして、真っ直ぐに立てなかった。
仕方なく昴は四つん這いになると、這いずるようにその場から離れた。
やっとの思いで自室に戻ると、二段ベッドの梯子を上ち、頭まですっぽり布団をかぶると体を丸め、ふぅぅぅぅぅっと大きく一息をつく。
叩かれた左頬に加え、壁にぶつけた右側の側頭部や首や肩、尻餅をついた尾てい骨などがジンジンと痛む。
特に左耳の奥が熱を持ったようにチクチクと痛み、これは以前頬を叩かれたときに感じなかった痛みだった。
争い事とは無縁で静かに暮らしていた昴は、今までは暴力とは無縁だった。
だが母親が死んでから、今回で父親から2回、頬を殴られている。
最初は、管理人さんに借りた服をクリーニングに出すためにお金が欲しいと言った時。
そして今回は、施設の近藤さんの名前を出した途端だった。
「何で叩かれたの……?」
父親が自分に手を上げた理由が分からない昴は、思考と感情がごちゃまぜになり何が起こったのか理解出来ないまま、体を丸めて痛みに耐えた。
小学校の4年2組の教室。
机を並べ給食を食べる生徒たちの中に、綺羅の姿があった。
(お兄ちゃん、ちゃんと給食食べたかな。お腹痛いの治ってたらいいんだけど)
周りの生徒たちは来週に迫るクリスマスの話で盛り上がってる。
そんな話を小耳に挟みながら、綺羅は家族4人で楽しく過ごした去年のクリスマスを思い出す。
(今年は……お兄ちゃんと2人のクリスマスかな……)
目頭が熱くなるのを感じた綺羅は、誤魔化すためにパクっとコッペパンにかじりついた。
(違う違う。お兄ちゃんも一緒に吾朗君のお家に集まってクリスマスパーティするんだから。それが綺羅たちの今年のクリスマスだもん。早く土曜日が来ないかなぁ)
アパートでは、布団の中で痛みと目まいに堪えていた昴がそっと起き上がると、ゆっくりと梯子を下り、自室の扉を少しだけ開周りを見渡した。
そして父親の姿が無い事を確認すると、ふらつきながらトイレへ向かった。
用を足した昴は、台所でグラスに水道水を入れて一口飲む。
すると急にひどい吐き気に襲われ、再びトイレに駆け込んだ。
目の前がグルグルする中、空の吐き気だけが続いた。
そしてしばらくして落ち着くと、昴はヨロヨロと自室のベッドに戻り、布団に丸まった。
(なんかヤバイ感じだな。頭の打ち所が悪かったのかな)
同級生と下校中の綺羅が、大きな交差点に差し掛かった。
「じゃぁ綺羅ちゃん、また明日ね! バイバーイ」
「うん、バイバーイ」
綺羅は同級生と別れると、小走りで先を急いだ。
息を切らした綺羅が公園に着くと、兄の姿が無い。
公園に設置されている時計を見ると、3時20分を過ぎた所だった。
「やった! 今日は綺羅の方が早かった!」
綺羅はいつものベンチに座ると、兄を待った。
しかし、しばらく待っても昴は来ない。
時計は3時45分になっていた。
「もしかして、今日は公園に来ないのかな」
綺羅はベンチから立ち上がると、走って公園を出た。
綺羅がアパートの前に着くと、丁度昴が部屋から出て来る姿が見えた。
(あ、お兄ちゃんだ!)
「お兄ちゃん! ただいま!」
綺羅は昴目掛けて走り、ドンと抱き付いた。
すると、その拍子で体勢を崩した昴が、ヨタヨタと座り込んでしまう。
「え? お兄ちゃん大丈夫? ごめんね。思い切り過ぎちゃった?」
綺羅が驚いて昴を覗き込むと、昴が顔を歪めながら綺羅を見た。
「ううん、そうじゃなくて、ちょっと気持ちいんだ」
「えぇ、大丈夫!? やっぱり朝の治ってなかったの?」
「朝とは別、かな」
「別って何? とにかく早くウチに入ろう」
昴は綺羅に支えられながら立ち上がると、家の中に入った。
綺羅が心配そうに見守る中、昴は二段ベッドの梯子を上って布団に入る。
そして横になると、ふぅぅっと大きく息を吐く。
「大丈夫? 薬は飲んだ?」
心配そうな綺羅がランドセルを机に置きながら昴に問うと、昴は「飲んでない」と短く返事をする。
「じゃぁちょっと待ってて。今お水持ってくるから!」
綺羅は台所からグラスに水道水を入れて持ってくると、机の上にあった胃腸薬の瓶を昴の枕元に置く。
そしてグラスを持って慎重に二段ベッドの上まで行くと、昴の顔の近くに座った。
「はい。お兄ちゃん、これで薬飲んで」
だが、昴は綺羅をチラっと見ると申し訳なさそうに首を振る。
「ごめん。……水を飲んでも吐きそうなんだ」
「え、気持ちも悪いの? ご飯は? もしかして給食も全部吐いちゃった?」
「……」
何も食べていない昴は返答に困り、黙ったまま目を閉じると、体の向きを変えて綺羅に背を向けた。
昴が背を向けた事で頭の位置がずれ、綺羅は枕にポツポツと赤い汚れが付いている事に気付いた。
顔を近づけてよく見ると、それは血が付いたような染みで、それが数か所もあった。
「お、お兄ちゃん!? 枕に血が付いてない!? どうしたの?」
驚いた綺羅は、昴の肩に手を置いて体をグイと自分の方へ向ける。
その動きで左耳の痛みが強くなった昴は、「痛いから触らないで」と呟く。
「あ、ご、ごめんね。でもどこが痛いの? 頭にケガしたの?」
「頭? 痛いのは頭じゃなくて左の耳だよ。綺羅はオーバーだなぁ」
「オーバーじゃないってば! お兄ちゃん少し起きれる? 枕見てみてよ」
綺羅に促され、昴は渋々体を起こして枕を見ると、確かに血の染みが数か所あった。
「え? 何これ?」
「だから綺羅がそれを聞いてるの! お兄ちゃん、耳のどこが痛いの? 気持ち悪いのもそれが原因じゃないの?」
昴は左耳に手を添えると、不安そうな顔で綺羅を見た
「ここを、お父さんに叩かれたんだ」
叩かれたと聞き、綺羅の体が強ばった。
「叩かれたって……いつ?」
「今朝、……実は学校に行かずに家に戻ったんだけど、その時に」
「何で? 何で家に戻ったの? もしかしてそんな事でお父さんはまたお兄ちゃんを叩いたの?」
綺羅の目からポロポロと涙が流れ出す。
「僕も……何で叩かれたか分からないんだ」
綺羅は服の袖で涙をぬぐうと、昴を見て言った。
「お兄ちゃんスマホ貸して」
「スマホならカバンの中だけど」
綺羅はすぐに梯子を降りて昴の机の上にグラスを置くと、横にあった学生カバンの中からスマホを取り出し、『耳、血、叩かれた』と入力して検索をした。
「がいしょうせい……、あーもう漢字が読めないって!」
綺羅はスマホを昴に渡すと、「なんて書いてあるか読める?」と尋ねる。
昴はスマホを受け取り画面を見ると、『外傷性鼓膜穿孔』と書かれていた。
「がいしょうせいこまくせんこう、かな」
「鼓膜? 鼓膜がどうなってるの?」
焦る綺羅を、昴は不安そうに見た。
「もしかしたら、鼓膜が破れたのかもしれない」
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