第一章 #17

「うん、何?」

綺羅がまっすぐな目で昴を見る。


昴は、ダンススクールの封筒が入っている机の引き出しに手を掛けた。

だが、引き出しを開けようしても、なぜか手が動かない。


綺羅は、昴の話を待っている。


昴は引き出しから手を放すと、机の上にある食パンを手に取った。


「明日の朝はさ、これにしない? セールだったから賞味期限が明日までなんだ」

「いいけど、お兄ちゃん今日買い物に行ったの?」

「うん、クリーニング店に行ったついでにね。クリーニングはもらった無料券でとりあえずワンピースだけ出してきたよ」

「……そうだよね、早く返さないといけないもんね」


綺羅が、部屋の隅に置いたままの、クリーニングに出せていない喪服が入っている紙袋をチラっと見る。

昴はクリーニング店のチラシを机に広げて、綺羅に見せた。


「今日お店でチラシをもらったんだけど、曜日ごとに割引があるみたいなんだ」

綺羅がチラシを覗き込む。

「……ほんとだ。土曜日だとスーツが2割引きだって」

「じゃぁ次の土曜日持って行こうか。ワンピースは火曜日に出来上がるから、それは先に取りに行って管理人さんに返そう」

「うん」


手持ちの金は減ってしまうが、これで借りていた服が返せる見通しがついた。

昴は少しホッとした。


だがダンススクールの月謝代についてはまだ何も解決しておらず、引き落とし日まであと2日と迫っている。


(お父さんが外出した気配はない。もしお母さんの口座凍結の手続きがしてなければ、口座に22000円さえ残っていたら、今回は何とかなる……)


「お兄ちゃん?」

机に肘をつき真剣な顔で考え事を始めた兄に、綺羅が心配そうに声を掛ける。


「ん? あ、ごめんごめん。何?」

「どうしたの? 顔怖いよ」

「え? あ、えと、……夜ご飯の事を考えててさ」

「そうじゃん。どうする? 何食べようか?」


綺羅が、「何があったかなー」と考え始める。


「あ、じゃぁ僕が考えておくから、綺羅はその間にシャワーに入っておいでよ」


昴が取り繕うようにそう告げると、綺羅はじーっと昴の顔を見た。


「……何?」

「お兄ちゃん一人で大丈夫?」

「大丈夫だよ。ご飯はまだあるし、冷蔵庫か棚を見れば何か準備が出来る……と思うよ……多分……」

「……じゃぁ今夜は弟子に任せてみよっかな」


綺羅はニコッと微笑むと、パジャマを持って部屋を出た。




翌朝。

ベッドで眠る綺羅は、名前を呼ばれる声で目が覚めた。

「……綺羅。……綺羅」

だが二段ベッドの上から聞こえてくる兄の声は、いつもと違って弱々しく思える。


綺羅は慌てて起き上がると、二段ベッドの下段の柵の上に立ち上の段を覗く。

すると布団から出ている昴の顔の眉間には皺がより、苦しそうにしている。


「お兄ちゃん! どうしたの!?」


綺羅が驚いて声を上げた。


「……さっきから、お腹が痛いんだ」

「お腹!? 大丈夫!? お薬飲んだ?」

「まだ。……薬は……どこにあるか分らなくて。それに今は空きっ腹だし」

「大丈夫だよ! 待ってて、台所にあるからすぐ持ってくる!」


綺羅はピョンっと柵から飛び降りて、バタバタと部屋を出て行った。

すると昴は何事も無かったような顔になり、開けっ放しの扉の向こうから聞こえる、綺羅が台所でバタバタと薬を用意する音を布団で横になりながら聞いていた。


そして、手に薬の瓶と水が入ったグラスを持った綺羅が部屋に入ってくる姿が見えると、再び苦しそうな顔でお腹を抱える。

綺羅は梯子を使って二段ベッドの上段まで来ると、昴の顔の近くに座った。


「お兄ちゃん、これ飲んで」

「これは?」

「胃腸薬。お母さんが、これはご飯前でもたくさんのお水で飲めば大丈夫って言ってたから、飲んでいいやつだよ」

「お母さんが?」

綺羅がコクンと頷く。


(これは……飲むしかないか)


昴は起き上がると、綺羅からグラスを受け取った。

綺羅は瓶の蓋を裏返して薬を2粒入れると、昴の掌の上でクルっとひっくり返す。

昴はその薬を口に入れると、グラスの水をゴクゴクと全て飲み干し、ふぅと小さく息を吐いた。


「ありがとう。……綺羅は学校に行く準備して。僕は今日休むから」

「じゃぁ綺羅も休む」

「え?」


予想外の言葉に昴が綺羅を見ると、眉間に皺を寄せ、不安そうに兄の傍に座る綺羅の姿があった。


「僕は大丈夫だよ。薬も飲んだしすぐに良くなるから、綺羅は学校行きなよ」

「やだ! 行かない! 綺羅も一緒にいる」


綺羅は首を何度も左右に振る。


「綺羅……」

「お兄ちゃんだけ置いてけないもん! 綺羅もここに居る!」

綺羅の目に、みるみる涙が溢れてくる。


「……分かったよ。じゃぁ念のために綺羅は学校へ行く準備だけはしてくれる? その間に薬が効いたら僕も学校に行くから」


綺羅はコクンと頷くと、ベッドを降りて部屋を出て行った。


昴は綺羅が部屋を出たことを確認すると、頭から布団をすっぽりかぶり、ギュッと目を閉じた。


(綺羅ウソついてごめん。でもそうだよね。今の僕たちは病人を一人残して外出なんで出来ないよね)


しばらくして、水の入ったグラスを持った綺羅が部屋に戻って来ると、昴の机の椅子に座り両手を合わせた。

「いただきます」

綺羅は机にある食パンを1枚取り出し、黙々と食べ始めた。


昴はもぐった布団から少しだけ顔を出してベッドの上から綺羅を見て、グラスの中が水なのに気付いた。


(そう言えば、お茶もジュースももう無かったっけ)


視線を感じたのか、ふと顔を上げた綺羅と昴は目が合う。


「お兄ちゃん。……お腹はどう?」

「あ、うん。……だいぶ良くなったかも」

「ほんと!?」


昴は体を起こして布団から出ると、二段ベッドの梯子を降りて綺羅の横に立った。


「もう学校に行けそうだよ。ありがとう。心配かけてごめんね」

綺羅は、満面の笑みで「うん」と頷く。


「顔洗ってくるから、綺羅は先にご飯食べちゃってて」


昴は洗面所で顔を洗って歯を磨き、水で濡らした手で寝ぐせを直した。

そして台所で新しいグラスに水道水を入れると、自室の扉の前に立ってノックをする。

「綺羅ー、入ってもいい?」

中から「いいよー」と声が聞こえ昴が扉を開けると、私服に着替えた綺羅が自分の机でランドセルに教科書を入れていた。


昴はグラスを持ったまま自分の机の前に立つと、急いで食パンを食べ始めた。


制服姿の昴とランドセルを背負った綺羅が慌てた様子で玄関から出て来ると、昴は赤いリボンの先にある鍵を使って鍵を閉めた。


「ごめんね。僕のせいでギリギリになっちゃって」

「大丈夫。走れば間に合うよ」



小走りの昴と綺羅が大きな交差点に到着する。


「じゃぁ帰りは公園で待ち合わせね」


そう言うと、綺羅は青信号の横断歩道を渡って行った。

昴は綺羅の姿を手を振りながら見送ると、踵を返し、今来た道を走って戻り始めた。



走ってアパートに戻ってきた昴が、息を切らしながら鍵を使って鍵を開けそっと中を覗くと、たたきには父親のサンダルがあった。


昴はホッとして中へ入り、施錠をして部屋の奥へ入ろうとした時、静まり返った室内にピンポーンとインタ-フォンの音が響き渡った。


突然鳴り響いたその音に、昴はビクッと両肩が上がるほど驚き、恐る恐る振り向いて玄関の扉を見る。


(こんな朝からお客さん? 宅急便か)


昴は静かにその場で立ったまま様子を見た。

が、しばらく経っても父親が部屋から出て来る気配もなければ、扉の向こう側に人の気配も感じない。


(……帰った? 宅急便じゃ無かったのかな)


改めって昴が部屋の奥へ進もうとする。

するともう一度インターフォンが鳴り響き、扉がドンドンドンとノックされ、男性の声がした。


「すいません、清永さん。おはようございます。学生服の方、いらっしゃいますよね!」


(学生服? 僕の事か?)


昴は恐る恐る玄関まで行き、扉ののぞき穴から外を見た。

すると扉の前には、スーツ姿の男性が立っているのが見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る