第一章 #12

父親は、背を向けたまま黙っていた。


沈黙が支配したその空間は、声を殺して泣く昴の小さな嗚咽と鼻をすする音だけとなったが、涙のために費やす時間が今は無かった。

昴は服の袖で涙と鼻水をゴシゴシと拭くと、再び空き缶を拾い始め、全て拾い終えるとそっと部屋を出た。

そして洗面所で顔を洗うと、ダウンジャケットを羽織ってアパートを出て公園へ向かう。



公園には、一人でベンチに座る綺羅の姿があった。

「綺羅」

兄の声に反応した綺羅がパッと顔を上げると、「お兄ちゃーん!」と言いながら昴の元へ走って来る。


「あれ、制服じゃないの?」

昴の姿を見て不思議がる綺羅に、昴は咄嗟に言い訳をする。

「あ、えと、……早く帰れたから一旦先に家に帰ったんだ。来週から期末試験だし、少しでも勉強したくってさ」

「そうなんだ。頑張ってね」

何とか誤魔化せたようで、昴はホッとして綺羅と並んで歩き出した。



昴と綺羅がアパートの前に着くと、買い物帰りの管理人とばったり会った。

その瞬間、借りっぱなしの服の事を2人は同時に思い出し、「こ、こんにちは」と、昴はバツが悪そうな顔でペコリと頭を下げた。


「こんにちは。どう? ちゃんとご飯食べれてる?」

管理人は貸したままの服には触れず、2人の食事を気にしてくれた。


「大丈夫です、食べてます」

綺羅が作り笑いで返事をすると、管理人は手に持っていた買い物袋からキレイに粒が揃ったイチゴのパックを取り出して、綺羅に差し出した。

「良かったらこれ食べて」

「わぁイチゴ!」

両方の手の平でイチゴのパックを受け取った綺羅は、今度は本当の笑顔で喜んだ。


「困った事とかあったらいつでも相談してね。遠慮なんてしなくていいからね」

管理人は、念を押すように昴に告げた。



イチゴのパックを大事そうに両方の手の平に乗せた綺羅が、玄関から部屋の奥へと入って行く。

昴も後に続くと、綺羅の足が台所の入り口でふと止まる。

「どうしたの?」 

昴が綺羅の肩越しから前を覗くと、視線の先には、大量の空き缶の入ったゴミ袋が無造作に置かれていた。

(しまった!)

昴は慌ててゴミ袋の所まで行くと、腰を曲げて袋の口を縛り始めた。

「ごめんごめん。これは僕がさっきお父さんの部屋を片付けた時のゴミなんだ。こんなに沢山でびっくりだよね」


昴は、ハハハとカラ笑いしながら綺羅を見ると、綺羅は眉間に皺を寄せながら昴を見ている。


「……これはとりあえず玄関に置いておくけど、忘れないように次のゴミの日に出すからね」

平然を装い昴がゴミ袋を持って立ち上がると、綺羅がポツリと呟いた。


「お父さん、どうだった?」

「え? 別に、……普通だった、かな」

「普通?」

「うん、……普通……」


綺羅は、「そう……」と小さく呟くと、胸元までイチゴのパックを持ち上げて小さく微笑んだ。

「おやつと食後のデザート、どっちにする?」

「えっと、イチゴの話かな? じゃぁ、デザートかな」

「オッケー。じゃぁそれまで冷蔵庫に入れておくね。冷やした方が美味しいもんね」

綺羅は冷蔵庫へ向かった。


昴はゴミ袋を持って玄関へ向かおうとすると、背後から、ガシャっと鈍い音が聞こえ、振り返ろうとした昴の左腕に、綺羅がしがみついて来た。


「え? 綺羅、どうしたの?」

「冷蔵庫が」

「冷蔵庫?」


綺羅にしがみつかれたまま昴が冷蔵庫へ行くと、逆さまになって床に落ちているイチゴのパックが最初に目に入る。

昴がパックを拾うと、所々が潰れ、パックを覆うセロハンに赤い汁が飛び跳ねている。

「ごめんなさい」

綺羅が小さな声でつぶやいた。

「いいよ、これくらい大丈夫だから」


昴はイチゴのパックを食卓に置いて冷蔵庫の扉を開ける。

そして次の瞬間、目を疑った。


(え!?)


冷蔵庫の中は、食材が一か所にギュっと押しやられ、それ以外のスペース全てに缶ビールがびっしりと並んでいる。


昴が、扉を開けたまま愕然としていると、左手にしがみついていた綺羅がガクンと崩れ落ちた。

「綺羅!」


昴は慌てて両手で綺羅を抱き抱えると、自室のベッドへ運んで横にする。

「大丈夫?」

心配そうに昴が声を掛けると、綺羅はうっすらと目を開ける。

その綺麗な瞳はあっという間に涙で溢れ、目尻を伝って枕を濡らした。


「……お父さんはどうしてあんなにビールを飲むの?」

綺羅は、唇を震わせながら、絞り出すように呟く。

昴は、綺羅の目尻の涙を右手の人差し指でそっとぬぐうと、寂しそうに答えた。

「もしかしたらお父さんは、……お酒に逃げてるのかもしれない」

「何で逃げなきゃいけないの? ……意味分かんない」

「僕も分からないけど、お酒は飲んだら何も考えられなくなるんだって。先生が前に言ってた」

「じゃぁ綺羅も飲みたい」

「綺羅はまだダメだよ。お酒は20歳になってからだから」


綺羅は、体をゴロンと昴の方を向ける。

「……イチゴ……綺羅みたいだった」

「え?」

「場所が無かったの」

昴の眉間に皺が寄る。

「……なんでそんなふうに思うの? ここは綺羅の家じゃないか」


すると綺羅がガバっと起き上がって昴にしがみつき、大声で泣き始めた。


「お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん」


すると昴の目からもみるみる涙が溢れ出し、それを止める事が出来なかった。

「……綺羅……」

昴は、自分の胸にしがみついて泣く妹の小さな体をぎゅっと抱きしめると、声を殺して泣き始めた。


幼い2人の兄妹は、母親の死から一週間が経ってやっと、思い切り泣く事が出来た。

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