第一章 #11

給食を終えた昴が学生カバンを持って席を立つと、同級生から「帰るの?」と声を掛けられる。

「うん、今日は用事があって。先生には許可を貰ってあるから。じゃぁね、お先に」


すれ違う何人かの同級生たちからも同じような質問を受けながら、昴は昼休みの生徒で賑わう校内を出た。



息を切らした昴がアパートへ帰って来た。

玄関を開け、たたきに父親のサンダルがあるのを確認すると、足音をたてないようにそっと自室へ入る。

そして急いで私服に着替えてリュックを背負うと、部屋を出て自転車に乗って走り出した。


前傾姿勢になってペダルを力強く漕ぐその姿は、昨日綺羅と連れ立ってまったり走った時とは全く違っていた。



ダンススクールに到着した昴は、1Fの駐輪場に自転車を駐めて入口へ向かった。


受付カウンターにいた昨日と同じスタッフが、入り口に立つ昴を見つけ驚いた。

「清永さん? こんにちは。どうしました?」

昴は、おずおずと中に入る。

「すいません。……昨日の書類とパンフレット、もう一度もらえませんか」

「昨日の? もちろん大丈夫ですよ。すぐ準備しますからどうぞ座ってお待ち下さい」

スタッフはもじもじしている昴を椅子に座らせると、ニコっと微笑んで準備を始めた。


「失敗しても取りに来なくてもいいように用紙は何枚か入れておきますね。あ、コース変更はここですぐに出来るから、そっちも遠慮なく声を掛けて下さいね。変更する人は結構いますから、全然気にしなくて大丈夫だから」


スタッフの優しい気遣いになんとなく居心地の悪さを感じながら、昴は小さく頭を下げた。


「お待たせしました。はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

昴は昨日よりも少し厚みのある封筒を受け取ると、伏し目がちに小さく一礼をして、踵を返す。

「またいつでも見学に来て下さいねー」と背中越しに明るい声が聞こえたが、振り返る事は出来なかった。


昴と入れ違うように、インストラクターの羽木が入り口から入って来た。


「おはようございます。ねぇねぇ今のって、綺羅ちゃんのお兄さん?」

対応したスタッフが、相槌を打つ。

「そうですよ。口座変更の用紙を取りに来てくれたんです」

「口座変更?」

「先生、綺羅ちゃんのお母さんが亡くなったのご存知ですか?」

羽木は眉間に皺を寄せながら「えぇ!?」と驚いた。

「知らない。いつ!? 昨日の綺羅ちゃんいつも通り明るく元気だったじゃない」

「だから昨日お兄さんが来たんじゃないですか? 私も昨日お兄さんから聞いてびっくりしたんです。詳しくは分からないけど多分急だったんじゃないですか? ここの月謝の事を聞かれたから、お母さんの口座から引き落としですってお伝えしたんですよ」

羽木は何度もうなづきながら、話を続けた。

「それで口座変更なのね。じゃぁ昨日用紙を渡してあげれば良かったのに」

「もちろん渡しましたよ。だけどもう一度欲しいって取りに来たんです」

「もう一度?」


羽木は急いで入り口を出て歩道まで行くと、キョロキョロと辺りを見渡したが、昴の姿はどこにも見えなかった。

「もう帰っちゃったか。……あの子たち大丈夫かしら」



アパートの自室に戻った昴が封筒の中身を確認すると、口座変更の用紙が3枚とパンフレットが2冊が入っていた。


昴は1枚と1冊だけを取り出すと残りは封筒のまま学習机の引き出しに入れた。

そしてパンフレットの料金ページを開いて、綺羅の通うコースの所に赤ペンで丸を付けると、変更用紙を挟んで閉じた。


時計を見ると2時30分を過ぎている。

(綺羅が帰って来るまであと1時間くらいか)


昴はパンフを持って自室を出ると、父親の部屋の前に立った。

「お父さん」

扉越しに呼びかけたが反応は無かったが、多分父親は中にいる。


昴は扉に耳を当てて中の様子を伺うと、微かに途切れ途切れのいびきらしき音が聞こえた。

(寝てる?)

昴は恐る恐るドアノブに手を掛けると、そっと回して少しだけ扉を開けた。

するとその隙間から流れ出た暖かくて重たいアルコール臭が顔面にぶつかってきて、思わず、うっと顔を背けると手の平で鼻と口を覆った。


改めて中を覗くと、暖房がついた部屋のベッドとドレッサーの間のわずかなスペースに、だらしなく寝ている父親と、転がる大量の空き缶が見えた。

空き缶は前にチラっと見た時よりも明らかに増えている。


昴は台所から大きなゴミ袋を持ってくると部屋の中にそっと入り、空き缶をゴミ袋に入れ始める。

音を立てない様に注意しながらベッドの傍に行くと、無造作にめくられた布団の隙間から、チラっと破られた紙の欠片らしき物が目に入り、布団をめくる。

するとそこにはビリビリに破られたダンススクールのパンフレットがあった。


(やっぱり破ってたか……)


昴は唇をかみしめながらそれらを全て全て拾い上げると、ズボンのポケットに押し込んだ。


床の上でだらしなく眠っている父親は、扉の隙間から流れ込んできた新鮮で冷たい空気を肌に受け、寒気を感じて目を覚ました。

そしておぼろげな視線の先に、空き缶を拾う息子の後ろ姿が見え、ムクっと起き上がった。

すると気配を感じて振り向いた息子の目からは、ポロポロと涙が流れていた。


だが父親は、無機質に呟いた。

「何をしている」


昴は服の袖で目元をゴシゴシと拭くと、父親の見た。

「空き缶を拾ってたんだ」

「……頼んでない。出てけ」


だが昴はその場を動かず、父親を見て話を始める。


「お父さんの顔、病人みたいだよ。もうこれ以上お酒を飲んじゃダメだよ」

「自分の金で飲んでるだけだ。黙れ」

父親は、首周りの筋肉をほぐすように首をコキコキしながら、冷たく言い放つ。


昴はギュッと唇をかみしめると、父親の前で膝立ちになり、ダンススクールのパンフレットの料金ページと口座変更用紙を見せた。

「この前話した綺羅のダンススクールのパンフレットです。お願いします。継続したいから口座変更届を書いて下さい」


父親は黙ったままパンフレットに視線を降ろすと、赤丸で囲まれた16000円と4000円の文字が目に入り、眉間に皺を寄せた。

「……2万? なんだこれ?」

「綺羅が通ってるダンススクールの料金だよ。ちょっと高いと思うかもしれないけど、このコースが綺羅にとって一番いいんだ。だからこの金額のまま口座変更をさせて貰えませんか。お願いします」


昴は頭を下げて真剣に訴えたが、父親は鼻先で笑い飛ばした。

「バカか。女子供騙くらかして儲けてる所に払う金なんて無い。さっさとヤメロ」


まるで相手にしない父親の態度に、昴はイラッとした。

「騙されてなんかないよ。昨日見て来たけど、みんな一生懸命頑張ってたよ」

「それが悪徳業者のやり口なんだ! アイドルなんてなれる訳ないだろ」

「なれるよ、綺羅はなれる! お父さんだって毎日歌を聞いてたでしょ!」

「煩い!」


もうこの話は終わりだと言わんばかりに、父親はベッドの上に寝転がると昴に背を向けた。

昴はベッドの傍まで行くと、パンフレットを布団の上に置いて頭を下げた。

「お願いします。中学を卒業したら、それからは僕がバイトをして月謝は払います。だからそれまでの間、あと1年くらいだけ、お父さんのお金で綺羅をダンススクールに通わせて下さい。その間の月謝代も、僕が働いて少しづつでも必ずお父さんに返すから、お願いします」


わずかな沈黙の後、父親は呆れる様に呟いた。

「何でお前がそんなに拘るんだ。たかが妹の習い事じゃないか」


昴は顔を上げると、目からポロポロと涙を流しながら訴えた。


「何でって……だってたかがじゃないからだよ。……お母さんが……、お母さんが綺羅の為に一生懸命探して、……綺羅の夢を応援するために選んでくれたダンススクールじゃないか! 綺羅はアイドルになるんだよ!」

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