第一章 #10

父親は不愛想な顔で、自分の胸元くらいの身長の息子を無言で見下ろした。

昴は、目の前に立つ別人のような父親を見て、体中に緊張が走った。

「綺羅のダンススクールの月謝の話なんだけど」

昴が恐る恐る口にすると、父親の右の目元がピクっとする。


「お母さんの銀行口座から引き落としみたいで、それで、スタッフさんが口座変更して欲しいって言ってて」

昴はここで一端、父親の反応を待った。


だが父親は昴を見下ろし無言のままだった。

昴は恐る恐るまた話を続けた。


「それで、口座変更届をもらってきたから、お父さんの口座に変更をして、もらえませんか……」

昴は左手に持っていたダンススクールの封筒を両手で持ち直すと、父親の前に出して頭を下げた。


昴が震える手で差し出したその封筒を父親は少しの間見つめ、その後何も言わずに受け取ると、パタンと扉を閉める。


顔を上げた昴は、扉越しに中にいる父親に声を掛けた。

「あの、お父さん。変更、してもらえますか?」


すると室内から、ビリビリと紙を破る音が聞こえる。

その音を聞いた昴は、泣きそうな顔で俯くと、肩を落としてトボトボと自室へ戻って行った。


自室へ戻った昴の目から、我慢できずに涙がポロポロ流れる。

そして二段ベッドの上段の布団の中に全身をすっぽり入れると、声を殺して泣いた。


「綺羅、ごめん。……ごめんね、綺羅」



どれくらいの時間が経ったか分からずに、昴は虚ろな目で真っ暗な布団の中で丸まっていると、玄関のインタフォンが鳴る音が聞こえた。


ハッとした昴はガバッと布団から顔を出すと、辺りはすっかり暗くなっており、時計は夕方7時を過ぎていた。

昴は慌ててベッドから出て玄関へ行くと、扉ののぞき穴から外を見る。

そこには綺羅の姿があった。


昴が扉を開けると「お兄ちゃん、ただいまぁ」と、寒そうな笑顔で綺羅が入ってくる。

「お帰り。ごめん、帰りの約束してなかったね」

昴が申し訳なさそうに言うと、綺羅は「大丈夫だよー」と部屋の奥へと歩いて行く。

昴は扉を施錠すると、綺羅の後へ続いた。


自室に入った綺羅が明かりを点けて改めて昴を見ると、ギョっとした顔になる。

「どうしたの!?」

「え?」

「目、パンパンだよ!」


そう言われて昴が鏡で顔を見ると、確かに両目の瞼がボヤっと重くなっている。


「……泣いてたの?」

背中越しに綺羅の心配そうな声が聞こえ、昴は苦笑いしながら振り返る。

「違う違う、寝てただけ。帰ってからすぐ今までぐっすりでさ。インターフォンの音で起きたんだ」

「……ほんとに?」

「本当だよ。うつ伏せで寝ちゃってたみたいだから、きっとそのせいだよ」

「ならいいけど」


綺羅はリュックを降ろすと、中から水筒を取り出して昴を見た。

「水筒洗った? まだなら一緒に洗うよ」


綺羅が台所で2つの水筒を洗っている間、昴は洗面所で顔を洗った。

冷たい水が腫れた目に気持ち良く、タオルで拭きながら鏡を見ると、少しだけ目元がすっきりした感覚があった。


昴が台所に戻ると、綺羅が炊飯器を覗いていた。

「どうしたの?」

「ご飯が減ってないの。お父さん食べてないかも」

父親の心配をする綺羅に、昴は素っ気なく返事をした。

「そんなのどうでもいいよ」


昴の口調が少し乱暴に聞こえ、綺羅はシュンとして炊飯器の蓋を閉めた。

その姿を見て、昴は慌てて取り繕う。

「ご、ごめん。別に綺羅に怒ったんじゃないんだ」

「……ううん」

「もう夜ご飯の時間だね。何食べる? 綺羅疲れてるだろ。僕が準備するよ」

一瞬の間の後、綺羅がポツリと呟いた。

「……あったかいのがいいから、……カレーかお茶づけ?」

「じゃぁ、お茶づけにしようか」

「うん」


シンクの水切りには、洗い終えた2人分の食器が並び、炊飯器には新しい白米がタイマーでセットされている。


台所で昴が濡れた手をタオルで手を拭いていると、シャワー上がりの綺羅がで頭にタオルを巻いてやって来た。

「お兄ちゃん、もうお米の炊き方覚えたの?」

綺羅が感心したように昴を見た。

「これくらいはね」

「明日の朝ご飯はどうする?」

「献立ならもう決めたよ。お味噌汁と白米」

昴はインスタントの味噌汁を手に取ると、綺羅に見せた。


「今日も先に帰った僕が準備考しておけば良かったのに、気が利かなくてごめんね。明日の夜はさ、冷凍庫にあるお肉を解凍してお肉料理にしないか」

「うん! お肉久しぶりだね。どんな料理にするの?」

「それはこれから考えるよ」


昴はシャワーを浴びながら、自分を見下ろす父親の顔を思い出していた。

(もう一度、ちゃんとお父さんにお願いして書類を書いてもらわないと。お父さんが立ち直るまでは、僕が綺羅を守らないといけないんだから)


昴が自室に戻ると、明るい部屋のまま綺羅が二段ベッドの布団の上にコロンと転って眠っている。

その手に握られたスマホには、今日の自主練の動画が流れていた。


昴は綺羅の手からスマホをそっと取って動画を見ると、そこには楽しそうに仲間からダンスを教わる綺羅の姿があった。

(いい顔してるなぁ)


動画の閉じ方が分らない昴は、スマホと格闘して何とか操作を終えると、綺羅を布団の中に入れてスマホも枕元に置いた。

そして部屋の電気を消してデスクライトを付けると、明日の学校の準備を始めた。




翌朝。

綺羅が自室で急いで身支度をしている。

台所では学生服姿の昴が洗い物をしていた。


昴が自室に戻ると、丁度綺羅の準備が出来た所だったので、2人は一緒に部屋を出た。


昴と綺羅が大通りの交差点に差し掛かると、綺羅が手を振りながら横断歩道を渡って行く。

昴は綺羅を見送ると、踵を返して歩き始めた。



中学校に着いた昴は、教室ではなく職員室へ向かった。


廊下から中を覗くと、朝の準備で忙しない先生たちの中に担任の後姿を見つけると、入り口で一礼してから中へ入った。


数人の先生と挨拶を交わしながら、昴は担任の元へ到着した。

「先生、おはようございます」

「え? あぁ清永君おはよう。どうしたの? 朝からここに来るなんて何かあった?」

不意の生徒の訪問に驚く担任に、昴は申し出た。


「急ですいませんが、今日午後から早退させて下さい」

「……もちろんどうぞ。というか、まだ忌引き中だから無理して学校こなくて大丈夫だからね?」

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