第一章 #8
食卓には、見るからに焼き過ぎで白身が焦げて黄身も硬そうな目玉焼きが2つ、1皿にくっついて乗っていた。
「ごめん。美味しそうに出来なかった」
昴が申し訳なさそうに謝ると、綺羅が「そうかなー」と言いながらソースを掛けて、パクリと食べる。
「大丈夫。全然美味しいよ」
白米と一緒にパクパク食べる綺羅を見て、昴もソースがたっぷりかかった目玉焼きを口へ運んでみる。
昴は、素材の味とソースの力は偉大だと思った。
今朝の綺羅は、よくしゃべった。
「これからは綺羅も料理の勉強するね。お兄ちゃん何が食べたい?」
「そうだなぁ。まずは今冷蔵庫にある物を使いたいかな。卵、チーズ、魚、かまぼこ、野菜、梅干し。ダメにしたらもったいないからね」
「分かった。考えてみるね。……お父さんのご飯はどうしよう」
昴は、食卓に残されていたままになっていた綺羅のメモを思い出す。
「お父さんは大人だから自分で何とか出来るから気にしなくていいんじゃない? お金だって持ってるし」
「そう? そうだよね。大人だもんね。綺羅たちは自分たちの事を考えればいいよね」
昴と綺羅は、これからは父親に頼らなくても生活が出来るようにならなければと、お互い言葉にしなくても分かっていた。
日曜日。
目覚めた昴が二段ベッドを降りて行くと、下の布団に綺羅の姿は無かった。
昴は慌てて自室を出ると、食卓で、頬に米粒をつけた綺羅がおにぎりを握っている。
「あ、お兄ちゃん。おはよー」
「おはよう。おにぎり作ってるの?」
「うん、お弁当用でね。お兄ちゃんの分もちゃんと作るからね」
綺羅が一人で台所にいられたのは、母親が亡くなって以来だった。
今日ダンススクールに行けるのが本当に嬉しいんだと、それだけで伝わって来る。
白米を握る綺羅の手は米粒だらけで、手を水でぬらせば米粒が付きにくい事を知らない綺羅は、乾いた手で一生懸命に白米を握っていた。
「朝ご飯はあっちに用意してあるからね」
綺羅が顔をシンクに向ける。
そこには殻のままの卵が2つと醤油さしが置かれていた。
「あれは、ゆで卵?」
「ううん、生卵。朝は卵掛けご飯がいいかなと思ったの。これで卵は終りだし、丁度いいでしょ」
綺羅は、頬に米粒を付けたドヤ顔で昴を見る。
昴はそんな綺羅がかわいく思え、久しぶりに和やかな朝だと感じた。
リュックを背負って自転車に乗った昴と綺羅が、ダンススクールに到着した。
建物は3F建てで、1Fは受付と駐車場になっている。
「ここが綺羅の通ってる教室なんだ」
「2Fと3Fがスタジオなんだよ」
綺羅と昴は1Fの駐輪場に自転車を駐めると、建物の中へ入って行く。
受付では2名の女性スタッフが忙しそうにしているが、綺羅を見つけると、「綺羅ちゃんこんにちは!」 と笑顔で声を掛けてくれた。
「こんにちは。あの、今日は兄が見学したいんですけど、いいですか?」
いつもお兄ちゃんと呼ぶ綺羅が兄と言っている。
綺羅も大きくなったなぁと、昴は少し感動した。
「お兄さまでしたら大丈夫ですよ。綺羅ちゃん案内してあげてくれる?」
スタッフからロッカーキーを受け取ると、綺羅はスマホを機械に当てる。
するとチャリンというメロディが流れ、受付完了となった。
「お兄ちゃん、こっちこっち」
綺羅に連れられて階段を上り2Fへ行くと、続く廊下の壁際には長椅子が置かれ、スタジオ側の壁は上半分が窓になっていて中が見える様になっている。
昴が窓からスタジオを見ると、前面は一面鏡張りになっていて、何人かの少年少女の生徒達がストレッチをしている。
開脚して胸が床につく人、股割が床にペタっとつく人など体が柔らかい人が目につき、前屈で手が床に届かない程に体が硬い昴に、ここは別世界に思えた。
「お兄ちゃんは中に入れないから、ここから見ててね。つまんなくなったら帰っていいから」
「あ、うん、分かった。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
綺羅が、「おはようございまーす」と言って中に入って行くと、ストレッチをしていた生徒たちが笑顔で挨拶を返してくれた。
スタジオの入り口の横に、カーテンで仕切られた男女別の更衣室があり、綺羅はシャッとカーテンを開けるとそこに入って行く。
そしてトレーナーとスウェットに着替えて出て来ると、その横に置かれていたロッカーに、先ほど受付でもらった鍵を使って荷物を入れると、空いているスペースに立ってストレッチを始める。。
だがその体は、他の生徒たちと比べると明らかに硬かった。
(綺羅頑張れ!)
昴は心の中でエールを送りながら、窓越しに熱心に綺羅の姿を見ていた。
すると横から「こんにちは」という声が聞こえ、昴が声の方を見ると、そこには長い金髪をひとつに結んだ、やけに姿勢の良い女性が立っていた。
「あら、初めて見る方ですね。どなたのお連れ様かしら」
「あ、すいません。僕は清永綺羅の兄です。いつも妹がお世話になっています」
昴が慌ててペコリと頭を下げると、その女性は満面の笑みで昴の傍まで来た。
「綺羅ちゃんのお兄さんですか。こんにちは、初めまして。インストラターの羽木です。どうぞどうぞ、お兄さんでしたら大歓迎ですので、ぜひ綺羅ちゃんの頑張る姿を見てあげて下さい」
羽木がスタジオの中に入って行くと、生徒たちがスクっと立ち上がり、「おはようございます!」と全員揃って挨拶する。
「おはようみんな、今日も素敵なダンス日和ね」
そう言いながら羽木はスマホを操作して、スピーカーから音楽を流した。
「さぁみんな、始めましょうか! まずは準備運動がてらいつものステップから! 4.3.2.1!」
掛け声と曲に合わせ、生徒たちが一斉にステップを踏み始める。
その中に混じっている綺羅も、一生懸命、そして楽しそうに手足を振り回している。
(すごい。想像してたより全然ガチじゃないか)
昴は、生き生きと踊る綺羅の姿に釘付けになった。
しばらく綺羅の姿を夢中で見ていた昴が、ふと我に返る。
今日ここに来た目的が別にもう1つある事を思い出し、階段を降りて1Fの受付へ向かった。
「あの、すいません」
恐る恐る昴が受付スタッフに声を掛けると、一人が笑顔で対応してくれた。
「はい。綺羅ちゃんのお兄さん。どうされましたか?」
「レッスン代の事で教えて欲しいことがあるんですけど。あ、清永綺羅のレッスン代です」
「レッスン代のどういったことですか?」
「あの、値段といつまで月謝が支払われているか教えてもらえませんか」
スタッフは、笑顔で「ちょっとお待ち下さいね」と言うと、PCのマウスをカチカチ鳴らし始める。
そして綺羅の情報を見つけると、PC画面を見ながら話し始めた。
「綺羅ちゃんのお月謝は、日曜日の月4回各2時間のレッスンと、スタジオ使い放題のオプションがついて、月20000円プラス消費税ですね。お支払は翌月分を前月20日の引き落としなので、今度は12月20日に1月分が引き落としとなります」
(2万円!?)
昴が小学3年生の時、少しだけ通っていたそろばんの月謝は4000円だった。
それよりは高いだろうとは想像をしていたが、想像以上に高くで驚いた。
「あの、引き落としはどこからですか?」
「……どうかされましたか?」
スタッフが訝しみながら昴を見た。
昴は(もしかして変な事を聞いたのかな)と戸惑ったが、いずれは分る事だろうと思い、事情を話すことにした。
「実は急に母が亡くなってしまって、月謝がどうなっているか分からなくて」
「……え!?」
スタッフは驚きながらお悔やみの言葉を言うと、母親名義の銀行口座をメモに書き、一緒に引き落としの口座変更の用紙と一緒に封筒に入れて昴に渡した。
「こちらが引き落とし口座なんですが、お母様名義の銀行なんです。ご本人が亡くなると口座は使えなくなるので、口座変更をしていただかないといけないので、申し訳ないのですが、一度お父様と相談をしていただけますか」
「……分かりました。ありがとうございます……」
昴は一抹の不安を感じながら、封筒を受け取った。
昴は2Fに戻ると、壁際の長椅子に座って窓からスタジオを見た。
中では一生懸命に綺羅が踊っている。
(こんなに頑張ってるのに、辞めさせられる訳ないよ)
昴は思った。
だが、母親は反対する父親を説得してダンススクール代を捻出するためにパートを増やし、その帰り道で事故に遭った。
そして今の父親の態度から、綺羅のレッスン代を出してくれるとは思えない。
どうしたらいいんんだろう。
昴は膝の上に置いた封筒を見た。
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