『北へ 』― アムシェルたちの逃避行 ―


家が燃えていた。母と妹の声が、炎の向こうで細くちぎれた。


それからの記憶は、靄の中にある。私は裏山を越え、誰も通らぬ林道を這うようにして、北を目指した。屋敷を出る直前、かすかに聞こえた父の「ロッテルダムの別荘へ行け」の言葉を胸に。


だが、革命の炎は国じゅうを包み、行く先々で火薬の匂いと怒号が交じっていた。農民は領主の館を焼き、都市では貴族が晒され、町から町へと逃れる者たちは野犬のように群れをなしながら、疑心と飢えに満ちていた。


途中で何人もの死体を見た。

その中にはサラと同じぐらいの少女もいた。


生きたまま炎で焼き殺されるのと、男たちに乱暴された末に殺さるの、果たしてどちらがマシなのだろうか。


私は、もう限界だった。


倒木に腰をかけ、水袋の残りを舐めたそのとき、影がひとつ、草むらをかき分けて現れた。


「……坊ちゃんですか」


その声に振り向くと、そこに立っていたのは、ジモンだった。


巨大な体躯。肩幅は人の二倍、腕は太鼓のように分厚い。エルフィニア人の長い耳、、鼻と顎はドワン人の特徴そのものだった。たしか我が屋敷の地下貯蔵庫を管理していた男だった。


「坊ちゃんが生きていて、本当に良かったです。このジモン、以前から旦那様に頼まれていました『なにかあったらアムシェルを頼む』と」


私は声を出せず、ただ立ち尽くした。


ジモンは私を背負い、小さな洞窟まで運ぶと、魔法によって火を起こしてくれた。


その夜、私は泣いた。声を押し殺し、父の名を、母の祈りを、妹の唄を思い出しながら。


旅は過酷だった。


ジモンは、都市の道を避け、森の中の獣道を進んだ。時に密輸人の手を借り、時に古代のローマ街道を辿りながら、私たちは北へ北へと向かった。


ある晩、フランドルの廃村にて。


「坊ちゃん」


ジモンが焚き火越しに呟いた。


「坊ちゃんは、神をまだ信じていますか?」


私は答えられなかった。


信じたいのに、信じられなかった。もし神がいるなら、なぜあんな仕打ちを受けねばならなかったのか。ジモンは笑った。


「ふふ、この火を見てください。神が我々を見捨てているのなら、とうに魔法すら使えないでしょう。人間のように詠唱なく魔法を使える、これこそ主から我らエルフィニア人に与えられた祝福なのです」


彼は純血のエルフィニア人でなかった。エルフィニア人と同じ、人間たちから迫害されてきたドワン人の血が入っている。彼らは火と土を操る種族であった。我らと別の神を信仰していたが、ジモンは熱心なエルフィニア教徒であった。


私はその夜、久しぶりに、眠る前に祈った。


それは教会で行うような格式に縛られた祈りではなかった。魂の深いところから湧いた、自由な祈りだった。


1790年春、私たちはようやくオラニエの国境を越えた。そこには、風車と運河が広がり、オルレアンの混乱から離れた別世界があった。


ロッテルダムの港近く、運河に面した白い別荘があった。父が若い頃、商用に使っていた場所だという。中は埃にまみれていたが、確かに「生きる場所」がそこにあった。


私はその日、ようやく靴を脱ぎ、湿った石の床にひざまずいた。


ジモンは、玄関の前で私に跪いて言った。


「ここが坊ちゃんの“始まり”となるのです、アムシェル様。終わりではありません。わかりますね?」


私は頷いた。


たしかに、ここから何かが始まる気がした。


父が進んだ世界。母が守ろうとした信条。妹が夢見た空。


私は、それを語り継ぐ者として、生きねばならない。


疲れているはずなのに眠くはなかった。

火のない暖炉の前で、私たちは埃被った毛布のなかに互いの身を寄せ合った。


この旅路の記録は、私の中で燃え続けている。

炎に焼かれなかった祈りが、いまも私を支えている。

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BOND SHORT 華麗なる一族の勃興 雪風 @katouzyunsan

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