第20話 蓬莱

 青山せいざんの戦いから十七日後。玉英ぎょくえい軍は青陰せいいんを攻めた。

 正確に言えば、謀計ぼうけいにより奪取だっしゅ制圧せいあつした。降伏こうふくした青淄せいし軍を用いたのだ。

 青東せいとう連合軍に追い立てられた……というていで青陰に助けを求め、三万余りで入城。あとは、青淄でやったのと同じである。ここでは青淄軍の降将こうしょう山克さんこくこうげた。――突雨とつう匹敵ひってきする体格の豪傑ごうけつである。

 青陰には十二万の兵が居たが、突然とつぜん城内じょうないで戦闘が始まる、と考えているわけもない。内城ないじょうで若干の戦闘は起きたものの、それだけだった。

 どれほどわずかな犠牲ぎせいであろうといたまないわけではないが、少ないにしたことはない。玉英にとっては、最上の成果せいかだった。


 青陰制圧後、軍の再編さいへんなど並行へいこうして降将こうしょう文官ぶんかんへ玉英のを明かし、民への布告ふこくについてはかった上で、燕薊えんけいでのものより幾分いくぶんこなれた演説えんぜつ施策しさくを各地で行って、青陰、青淄とその他青東せいとう半島内の民を味方に付けた。

 もとより『三つ子半島』の民は王位簒奪おういさんだつとその後の苛政かせいに反感を抱いており、がく家の支持も糧食りょうしょくの支援もあったため、円滑えんかつに進んだ。

 とは言え、半島をめぐって民の声を聞き、太水たいすい沿いで行っている以上の警戒網けいかいもうき終えて燕薊へ戻るまでには、ほぼ四月よつきを要した。



 暑い季節である。

 恵水けいすいや太水、劫海ごうかいの氷は既にけ、漁も程程ほどほどに行われている。――秋冬がしゅんの魚をぎぬようにと制限するならわしによる。

 その制限の範囲内でも、燕薊近辺では、一尺(約十八センチメートル)にも満たない魚――未成熟みせいじゅくではなくそういうしゅ――から五尺(約九十センチメートル)以上のものまでがり、漁師達が暮らしに困らぬ程度にはなっている。……と、玉英は葉網ようもうから聞いていた。

 燕薊帰還きかんの翌朝である。生憎あいにく模様もようということもあり、しんで舟の手入れをしていた漁師達をおとなったのだ。同行者は琥珀こはく子祐しゆうのみという、身軽な訪問である。

愚息共ぐそくどももご厄介やっかいんなってるってぇのに、あっしらまでご支援たまわっちまって、どうお礼もうげりゃあいいか――」

 漁師達が平伏ひれふそうとするのは「作業を続けよ」と止めてあったため、葉網は手を動かしながら器用きように頭を下げて見せる。

 漁師に限らず、民への支援は続けていた。――かなりの部分鎮戎公ちんじゅうこう領域の商隊およ輜重しちょう隊に頼っており、それゆえ限度げんどもあったが、この春から夏に掛けていくつかの作物が収穫期しゅうかくきむかえたことで、多くの民が燕薊豊かさを享受きょうじゅし始めていた。

「むしろ私の方こそ感謝している。葉棹ようたくは重大な役目をになってくれているぞ」

 むらの建設をまかせた茗節めいせつからの報告はいくつも上がっていた。それにれば、葉棹は三百数十名の少年達をしっかりとまとめ上げ、近隣きんりん各邑との関係も良好、とのことだった。

「いえ、そんな、おそれ多いこって……」

「良い。子の成長は素直に喜べ」

 玉英は微笑んだ。――九泉きゅうせんの下の父母をおもいながら。

 右腕に、琥珀が柔らかく抱き付くのを感じた。



 葉網との話を終えてからも、玉英等は各所の訪問を続けた。

 不在中ふざいちゅうの報告のうち、急を要するものへの対処たいしょは昨夜のうちに済ませてあったため、幾日いくにちか掛け、民の暮らしぶりを直接確認することにしたのだ。

 農民、きこり梓匠輪輿ししょうりんよ(家具や建具たてぐを作る木匠即ち大工だいくと、車台や車輪を作る者を纏めて指す言葉。)、陶匠とうしょう鍛冶師かじし、肉屋、料理屋、その他様々な商賈しょうこ、あるいは家のことに加えて機織はたおりをする女達……仕事は数多あまたあり、各々おのおのが各々の領分りょうぶんで一定の成果を出し、互いに支え合って暮らしが成り立っている。

 実のところ、農閑期のうかんきの農民が釣りをしたり、狩猟しゅりょう採集さいしゅうを――りょうと同じく一定の決まりのもとで――おこなったりと、必ずしも全ての民が一つの仕事で生計せいけいを立てているわけではない。

 自然、利害の対立からしばしばいさかいが起きるものの、葉網のような代表者が話し合うことでおおむね上手くやっていた。時折ときおり解決出来ずに長官――燕薊の場合は玉英――のところまで来る場合もあり、これに対しては極力きょくりょく公正こうせい裁定さいていを下すこととなる。裁定を通じて民を導くことはまつりごとの本質の一つであり、そのためにも、実地じっち見聞けんぶんを広めておくことは重要だった。



 割けるときは日によってながら、各所の視察をし続けて十日。

 幸い大きな問題は起きておらず、数日以内に対応たいおうを決定出来ることばかりだった。……が、いくらかすずやかな風が吹いた夕刻ゆうこく、重大な知らせが舞い込んだ。

 遼南りょうなんから使者が来た、と。


 燕薊の――劫海を挟んで――東にある遼南半島、その西側の付け根付近にあるのが『三つ子半島』第四の都市、遼南である。

 民の数、およそ四十五万。盛んな漁業ととの交易中継ちゅうけいによってさかえたが、大地の肥沃ひよくさも持ち合わせている。この地方には、遼南の西で劫海へ注ぐ大河――遼河りょうががあるのだ。

 遼河本流ほんりゅうは、河口からほぼ北東千七百里(約六百八十キロメートル)、国境付近の山中にたんはっする。河口へ向けて真っ直ぐ流れているわけではなく、最初はおおよそ西へ千二百五十里(約五百キロメートル)、次いで南南西へ六百七十五里(約二百七十キロメートル)――ここで北西七百里(約二百八十キロメートル)から流れ来る支流と合流する。合流後は南東へ三百二十五里(約百三十キロメートル)、南西へ同じく三百二十五里、で河口に至る。


 大河の例にれず、周辺地域はこの遼河をさかいにして大きくに分けられる。

 一つは遼北りょうほく。文字通り遼河の北側をい、東寄りの山岳以外は、寿原じゅげん西寿せいじゅを合わせたほどの広大な平原である。――だ。

 別の一つが遼南である。遼河本流にいだかれるように概ね南側ないし東側に位置し、遼北同様、西寄りの広大な平野部と、北東から南の遼南半島まで続く東部の山脈を内包ないほうする。

 残る一つは遼西りょうせい。西側、恵水に至るまでの地域であり、遼北並びに遼南とことなり燕薊の管轄下かんかつかにある。北西部で接する恵北けいほくから山岳さんがくして来ているが、海沿うみぞいは平坦へいたんであり、燕薊と遼南をつなぐ道となっている。

 そのを通って――結局は舟を使うことになるが――やってきた使者が、遼南のう。



 鬼族にはめずらしい程に痩身そうしんの男が執務室へ入って来て、視線を合わせることもなく平伏ひれふした。

おもてを上げよ」

「ハッ!」

 やや長めの黒髪、日に焼けてはだ、切れ長の目から黒い瞳がのぞく。

 鬼族らしい部分と部分とが混在こんざいしているが、やはりまさる印象だ。

 玉英と目が合った瞬間、また頭を下げてしまったため、

「面を上げよ」

もう一度命じた。

「ハッ! 申し訳御座いません!」

 いくらか高めの声と共に、男はげるように頭を上げ、今度こそ、かすかにふるえる瞳が玉英を見つめた。

 齢は四十にはなっていないだろう。

「玉英である。そなたの知りたかったことは知れたか?」

「ハッ、殿下でんか、どうかこの陶岱とうたいと遼南の民に、臣従しんじゅうをお許し頂きたく存じます!」

と言った勢いのまま、ひたいゆかたたき付けた。

へ知らせようとは思わなかったのか?」

幾度いくたびか試みましたが、全て失敗に終わり……」

 卑屈ひくつとも取れる声音。

あきらめた、ということか」

ほどわきまえるたちに御座いますれば」

 敵対行為の告白こくはくだが、ここは正直にほうが良い、と判断したのだろう。

「戦おう、とも?」

御覧ごらんの通り、わたくしは根っからの文官ぶんかんに御座います」

「将兵は精鋭であろう」

 遼南には熊族と戦った古参兵こさんへいが多いはずである。仮に遼南軍が精兵せいへい十万に農民、老兵ろうへい十数万を加えて燕薊へせれば、玉英軍は苦戦することになるだろう。軍の大半は各地の監視におもむいているのだ。遼南軍に対応しようとすれば、結果的にすきが生じることとなる。――無論むろんさくは用意しているが。

「皆、さきの長官をあつしたっておりまして、わたくしごときでは、どうにも……」

 前の長官は国境を長く任されていた。戦場を共にけた将兵が慕うのも無理からぬことだ。

「では、そなたは何を望む?」

「文官の端くれとしてお使い頂ければ幸いです」

「長官でなくても良いのか?」

「身に余ることと存じております」

 陶岱は顔を伏せたまま、身体を小さくしている。

 今この瞬間だけならば小心しょうしんにも見えるが、数名の護衛ごえいのみで燕薊へ来訪らいほうし、玉英の前ではらそこを見せた胆力たんりょくは相当なものである。

 しかも、そうした行動を選んだということは、限られた情報から現状をおおよそ把握するだけの智慧ちえそなえているものと思えた。

「面を上げよ」

 三度みたび命じた。

 陶岱はおそる恐る従う。

「陶岱、改めて、遼南長官として私に仕えよ。ただし、当然ながら、民を安んずること。また、遼南の視察に同行せよ」

「………………ハッ!」

 陶岱は目を見開いてしばらくほうけていたが、どうにか返事を寄越よこし、また頭を下げた。

「遼南のこと、そなたのこと、もっと私に教えてくれ」

 玉英が柔らかく言うと、

「ハッ! 光栄に御座います!」

陶岱は額を床にこすけた。



 遼南が自ら下ったことで、『三つ子半島』の支配は早々に確立した。

 光扇こうせん筆頭ひっとうとして送り出した使者達が百漁ひゃくりょう半島を含む麗羅れいら半島をまとめるのに、ほんの三月みつきほどで済んだのだ。

 とは言え、玉英自身もその以上の月日つきひを掛けて遼南、遼北、遼西を視察していたため、光扇から報告を受けたのは翌春よくしゅん、燕薊へ戻った後だった。


「西の王、『とう』の勇者ゆうしゃ、そして雨呼あまよびの姫巫女ひめみこ、か」

 夕刻、燕薊の執務室である。太水の氷こそ溶けているが、朝夕あさゆうはまだ燭台しょくだいの火が心地良ここちよい。

「ハッ。殿下に御足労ごそくろう頂くのは大変恐縮きょうしゅくで御座いますが……」

 いつも通り椅子いす光扇が、まゆひそめて言う。

 先に玉英が言及げんきゅうしたのは、麗羅半島の南ないし東にる長大な列島れっとう――蓬莱ほうらいに関するうわさだった。


 いわく、蓬莱西部をべる王がり、周華との交易を求めている、と。

 曰く、西の王のみやこから遠く東、天をかんばかりの高楼こうろうがあり、その門番もんばんは『神』に類する力を使う無双の勇者である、と。――高楼を『塔』と呼ぶのは門番自身にならったものらしく、玉英も一先ひとまず合わせた形だ。

 また曰く、蓬莱東部を統べる八松やまつなる王朝の姫巫女は自在じざい風雨ふううを呼ぶ、と。


 国家としての交易は是非とも成立させたいが――蓬莱でも良鉄りょうてつが出る、と近年交流が盛んだと云う麗羅半島南東部、那耶なや半島の者から報告が上がっている――それ自体は、条件をめるだけで済む。

 しかし、仔細しさい不明ふめいの勇者はかく、姫巫女は――もし本当に風雨を呼ぶのであれば――『神』ないし『神のごともの』に相違無そういない。その存在そんざいを知ったからには、会っておかねばならなかった。

 基本的に政治と関わろうとしない西王母せいおうぼ祝融しゅくゆうのことをまえれば、周華の『神』に謁見えっけんを求めるのは無謀むぼうとも思えるが、『神』のさわ危惧きぐいだいたまま交易をすすめるよりは、さきんじてれいくし、こいねがう方がであろう……というのが光扇や雲仁うんじんの出した結論であり、

「良い。私もそうすべきだと思う」

玉英の賛同さんどうするところでもあった。――元よりえにしのある祝融とて連絡相手にはを指定している。縁無き『神』であればなおこと、玉英自らがおもむ他無ほかない。とはそういうことだ。

警護けいごは子祐殿等どのらにお任せせざるを得ませんが……」

 仰仰ぎょうぎょうしく軍を連れて行くわけにはいかない。――それこそ『神』の怒りを買うであろうことは想像にかたくなかった。

「いつものことだ。むしろ身軽みがるで良い」

 玉英は目を細め、口角を上げた。

「……今回に関しては何も申し上げられませんが、平生へいぜいはその悪癖あくへきおさえて頂きたく、臣下一同しんかいちどう、伏してお願い申し上げます」

 椅子に座っておくことが命令である以上、実際に床へ伏せることは出来ず、ただ限界を超えて頭を下げる光扇。

「そなたの忠言ちゅうげんはありがたく思う。だが、燕薊を守ってくれている皆のことを、私は信頼している」

 突雨とつうによる太水沿いの監視、燕薊外城から内城に掛けての幾重いくえもの巡邏じゅんら並びに要所の衛兵、それに――

「何より、子祐が居るのだ」

 全幅の信頼が、そのまま笑顔に表れていた。

「ですが如何に子祐殿とて――」

 かばれぬ場面はありましょう、と続ける前に、

「いや、すまない。これは私の我儘わがままだ。……蓬莱から帰ったのち、警護の体制は見直すこととする。それで、勘弁かんべんしてはもらえぬか」

 眉尻まゆじりを下げる玉英。鍛錬たんれん甲斐かいあってか、日日ひび凜凜りりしさが増してはいるものの、こうした表情をするとまだ幼さが出る。

 よわい十八なのだ。が無ければ、王族としてのつとめは多多たたあれど、また如何いか兵法へいほうの才あれど、軍をひきいることすら無かったであろう、少女。

 最も気安きやすい琥珀と子祐だけを連れて歩きたい、というおもい自体は、九つ上の光扇にも察せられた。かつての光扇にも、欲求はあったのだ。

そうして頂きますからね」

 光扇はえて口調くちょうゆるめた。

「ああ、勿論もちろんだ。感謝する」

 笑みの戻った玉英を、光扇だけでなく、玉英のとなりの琥珀も笑顔で――玉英の左脇ひだりわきひかえた子祐はほとんど表情を動かさぬまま――優しく見つめていた。



 麗海れいかいと呼ばれる内海ないかいがある。

 西から北の遼南半島、北から南の――広義こうぎでの――麗羅半島、そして南西の青東半島で囲われており、西の劫海だけでなく南の東海とうかい(周華の東の海、の意。)ともつながっている。

 燕薊から蓬莱を目指す場合、地図上だけで見れば劫海、麗海、東海と出て、そのまま百漁半島、麗羅半島沿いに東へ行けば良さそうなものだが、外海がいかい危険きけんらすべく、光扇が麗羅半島との往復おうふくに用いた経路けいろと同様、ずは麗海沿岸部を舟でつたうこととなった。

 すなわち、燕薊を出て劫海を東進とうしん。遼南半島沿岸を進み、東岸へいたって北上。麗海最北部、遼南半島東側の付け根にある小都市番丹ばんたん補給ほきゅうし、今度は麗羅半島に沿って南下。麗羅半島の最大都市韓陽かんように立ち寄ることとなる、半島やや南寄りの城塞都市まち郡津ぐんしんで上陸し馬で南東へ。各都市での視察を含め、燕薊から数えて六十日で、沿岸都市那耶なや辿たどいた。


「――だもんで、明日には出航しゅっこう出来やす……ああ、いや、出来ると存じやす? 殿下」

「そなたが言い易いようにして構わない、金台きんだい

 首をかしげた鬼族の男――金台に、玉英は微笑ほほえんで見せた。

「へぇ! ありがとうごぜぇやす!」

 金台が満面の笑みを返す。作業する手は止めていないが、玉英はそれも許している。

 那耶の内城に隣接した一角、民の数五万という都市の規模からすればしんがたほどに広大充実じゅうじつした鍛冶場かじばを、玉英一行いっこうたずねていた。

 蓬莱への旅に同行したのは、琥珀、子祐、文孝ぶんこう梁水りょうすい伯久はくきゅう以下十五名の猫族、という最も古株ふるかぶ面々めんめんに、玉英麾下きかから雲儼うんげんれい田額でんがく及び選びぬかれた兵四名、茗節めいせつ相毅しょうき、そして上越一家の娘、大熊猫おおくまねこ族の琳琳りんりん――偽名ぎめいもとい愛称あいしょうだ――ともの十名。

 玉英を含めて四十名の一団だが、琳琳以下の十一名は舟旅を共にする以外は姿を見せず、猫族や田額以下の兵達はいくらか距離を置いて警護に当たっているため、この場に居るのは九名である。

 その九名の視線をかいさず鉄と向き合う金台は、那耶のおさでありながら鍛冶をしている方がしょううらしく、一日の大半を鍛冶場こちらで過ごしていると云う。

 春の終わりの昼過ぎ。盛大せいだいに火を使っていることもあり異様いように暑いが、金台はたきのように汗を流しつつ、玉英のどうよりも太そうな剛腕ごうわんを振るい続けている。齢十にもならぬうちから二十五年以上もはげめば、こうもなろうか。

「こちらこそ、いそがしいところ、手配てくばりに感謝する。また後程のちほど会おう」

「へぇ、殿下。と、ここを出て右へ行きゃあ井戸いどがありやすんで、どうぞお使いくだせぇ」

 豪気ごうきなようでいて、気配きくばりも出来る。こうしたところが、那耶の長としてしたわれる要因よういんだろう。

「ああ、ありがたく使わせてもらう。そなたも自愛じあいせよ」

「へぇ! ありがとうごぜぇやす!」

 玉英はうなずき、きびすを返した。



 金台の言った通り、三艘さんそうのやや大型の舟の準備は既に済んでおり、波の静まった翌朝、那耶を出た。

 対岸たいがんしょうしても良い位置の島、津島つしま北岸へわたるだけならば海の水の流れ――海流かいりゅうあらがいながらでも二日というところだが、西岸南方までとなると八日ようか掛かった。次の島である一支いきまでは海流に上手く乗れたとのことで一日。そして津島や一支とはまるで異なる規模の巨大な島――らしい――にある、華津かつというむらへ辿り着くのにやはり一日を要した。


 十日間の舟旅の終わり、極力同時に着岸ちゃくがんするよう調整した昼過ぎ、ようやく華津へ上陸したところで、

「どいつがかしらだ?」

低く落ち着いた、しかし良く通る声と共に、百を超える集団に囲まれた。距離は、一番遠い者で十丈(約十八メートル)というところ。砂浜すなはまもあるが、三つ数える間にはおどめる。

 玉英は前に出ようとする子祐を止め、歩み出て名乗った。

「周華の王女、玉英である。そなたが『西の王』か?」

 最初に声を掛けてきた、飛び抜けて大柄おおがらな男へ問う。――子祐よりも四寸半(約八・一センチメートル)は大きいだろうか。身体も格段かくだんあつく、に焼けている。周囲の者達と同様、犬族よりもやや丸みを帯びた耳、丸丸とした短めの尾が目立った。かみを含め、いずれも黒味掛くろみがかった褐色かっしょく。なお、以外の者の背丈せたけは、子祐と一尺(約十八センチメートル)差まで成長した玉英よりさらに六寸(約十・八センチメートル)前後は低く、を含めた多くの者がひげたくわえている。

たぬき族じゃな」

 背後で琥珀がささやいた。――玉英からは見えないが、茗節と相毅もかすかに頷いている。

 男はつぶらな黒い目で玉英を見つめると、はっ、と笑って、

西の王とそう呼ばれることもあるがな、大周華の王女殿下ににはまだ足らねぇ。だから殿下のお身柄みがらあずかって、とも思ったんだが――」

 子祐を筆頭ひっとうにした面々は既にっていた。――まるところ、玉英と琥珀をまもりつつ、男と周囲の者達をみなごろしにするかまえだった。

 琳琳とその手の者達はこうした闘争にはさほど向かないが、犠牲ぎせいになることをいといもしない。――ことが役割である。

「――ちとわりぃな。やめだやめ、お前ら、帰っていいぞ」

 男が「散れ」と言うように手振てぶりもまじえ、何か続けて言っているが、意味はわからなかった。蓬莱の言葉なのだろう。――先程さきほどは玉英に聞かせるために、えて周華の言葉をつかったのだ。

「これで、俺だけだ。……おっかねぇ気配けはいは引っ込めてくれよ、美貌びぼうが台無しだぜ、ねえちゃん」

 どうやら子祐に言っているようだ。が、当然子祐には一切いっさいひびかない。

「良い、子祐。あの男は力量差りきりょうさ見誤みあやまる者ではないらしい」

「ハッ」

 玉英はあらためて一行を率い、男のところまで進み、

「周華の王女、玉英である」

一悶着ひともんちゃくなど無かったかのように、名乗った。

「はっは、こいつぁ確かに王女殿下らしい。……裴泉はいぜんってもんだ、殿下」

「裴泉、良い関係をきずきたいものだ、が、先に確認せねばならぬことがある」

「なんだ?」

「蓬莱に、『神』は居るのか?」

 最も重要な点へ、こうから切り込んだ。



 その話をするなら、と裴泉が移動を提案ていあんしたため承諾しょうだくし、琳琳と手の者達は何処いずこかへり、田額以下の兵達は舟の番に残った。

 道中立ち並ぶ建物は、地に直接屋根をせたようなものから床を高い位置――地に立てた柱の上――に作ったものまで様々あったが、各々おのおのの大きさやた建物同士の配置には一つの意思による統制とうせいが感じられ、裴泉の統治の強力さがうかがれた。

 十六本の柱によって支えられた高床の巨大な建物――高さ九丈(約十六・二メートル)、床の位置でも二丈五尺(約四・五メートル)はある――を眺めていたところ、

めずらしいか?」

前を行く裴泉が振り向いて言った。

「ああ、華南かなんの一部には似たようなものがあると聞いているが、見るのは初めてだ。それに――」

 は読んで字のごとく、周部を大雑把おおざっぱに表す言葉だが、おおよそ双龍河そうりゅうが流域、と考えても良い。鬼族と竜爪族りゅうそうぞく、白虎族がそれぞれ一部を、鳥翼族ちょうよくぞくが残る大部分を支配しており、鳥翼族が極めて多くの氏族しぞくを持つことと南方の気候とが相俟あいまって、華南の民の暮らしは華北かほくとは大きく異なり、しかも多彩たさいなものとなっている……とかつて教わった。

「――稲作いなさくが非常に盛んなのだな」

 この点も、華南との共通点だった。華北ではあわきびひえむぎなど栽培さいばいが主であるのに対し、華南では稲作が主である。

 裴泉の屋敷は高台たかだいにあるらしく、坂を登っていく途中、周囲を見渡すと、植えられたばかりであろうなえ水田すいでん青々あおあおかがやいていた。

「鉄のおかげよ」

 裴泉が左の頬を上げる。

「那耶や弁津べんしんの連中には、おんてる」

 弁津は麗羅半島南部、那耶から見れば西にある小都市であり、那耶と同様、良鉄の産地だ。

「俺達もちまちま作っちゃあいるが、なかなか大きなものは出来ねぇからな」

 蓬莱の地には、周華では一般的となっているどう青銅せいどう。)や鉄をかしかたに流し入れて固める技術――鋳造ちゅうぞう普及ふきゅうしていないらしい。が、完全に鉄を溶かせずとも、土器どきを焼き上げるのと同程度の熱で無理矢理に作り上げる技術はあると云う。

「風の通る場所でな、まきの上に砂鉄さてつを集め、その上にまた薪を載せ、何日も燃やし続ける。するとくずれたような鉄のかたまりが出来る。勿論もちろんまだ完成じゃあねぇ。質もまちまちでな。良さそうなもんを熱しては叩き、熱しては叩き、と繰り返しゃあ、小さな刃物くれぇなら作れるってぇ寸法すんぽうよ」

 白虎族の邑で玄鉄げんてつが行っていた方法――鍛造たんぞうと似ているものの、玄鉄は専用のを使っていた。

「で、大周華じゃどうやってんだ?」

くわしくは知らぬが、もっと大きな設備せつびでやっておったな」

「大きな、ね……」

「すまぬな、私に経験があれば良かったのだが」

「いいや、殿下がやるこっちゃあねぇな、確かに」

 裴泉は声を出して笑い、玉英も微笑んだ。

 うそを、いた。だが、鉄は、国を支える力そのもの――その一つ――である。それも、玉英が持つのは西王母の邑で学んだ技術だ。軽々けいけいに他国の者へ教えるべきものでは無かった。

 対して、裴泉が簡単かんたんに技術を開示かいじしたのは、周華の者からすれば不要と知ってのことだろう。もう一段や二段上の技術を秘匿ひとくしていてもおどろきはしない。――その程度には油断ならぬ男として、玉英の【眼】には映っていた。

「――と、ここが俺の家だ」

 裴泉の屋敷やしきは、邑の中の邑、といった様相ようそうだった。

 高台をいた深さ二丈(約三・六メートル)ほど空堀からぼりとその内外に設置された木のさく。各方面を見張れるだけの物見櫓ものみやぐら。武器や糧食りょうしょくを蓄えるためであろうが複数並び、奥まった部分には先の巨大なに匹敵するものが一棟ひとむね。邑の外縁部がいえんぶを外城とした場合、内城に当たる、と言えるだけの施設が揃っていた。

「この高台は、俺がこの辺りへ来て最初に陣取じんどった場所でな」

 裴泉がどこか遠くを見るようにして言う。齢三十過ぎ、とすれば十数年前のことだろうか。

「万が一の備えとして残してる」

また、左の頬を上げながら振り向いた。

「『西の王』は気苦労きぐろうえぬな」

 建築物はなんであれそうだが、特に堀は、しばしば手入れしなければたもてないのだ。原因が何であれ、労力を掛ける必要がある、ということだった。

「大周華の王女殿下には到底とうていおよばねぇがな」

 笑い合い、大きな建物へ向かった。

 倉庫の類と思しき建物のかげに、少年が見えた。



 裴泉は最奥さいおうけ、入口から見て左側の奥へ横向きに座り、玉英は裴泉の正面へ座った。互いに胡坐あぐらである。

 十名は並んで座れるだろう広さだが、琥珀が玉英の隣へ座り、子祐が背後へ控えた以外は、外で待っている。

 一つ深呼吸をして、裴泉が切り出した。

「早速、『神』についてだが、殿下がう『神』ってなぁ、単なる英雄豪傑えいゆうごうけつのことじゃあねぇってことでいいんだよな?」

「ああ、無論だ」

 間髪かんぱつ入れずに頷く。

「そうか……ってこたぁ、俺はちげぇ、ってわけだ」

「何?」

「蓬莱では、何かをげた者が『カミ』を自称じしょうすることがある」

「そなたはこのあた一帯いったいおさめ、自称した、ということか」

「征服して、だな。『カミ』であった方が征服地の民も従い易い」

 左頬を上げて見せる裴泉。癖なのだろう。――この男の場合、何かの合図を隠すためにそう思わせたいだけ、ということも考えられるが。

随分ずいぶんはらって話すのだな」

「大周華の王女殿下相手に気取きどってどうする。殿下の一声で、俺の『クニ』なんぞ滅ぼせるんだろう?」

「必要ならば、そうだ」

 もしこの邑――玉英から見れば――が根拠地こんきょちに過ぎず、他に同規模の邑がいくつかあったとしても、せいぜい小さな城塞都市まち程度に過ぎない。それも民の数だけの話で、銅の武器すら行き渡らせられないらしい現状、相手になるわけもない。

「はっ、ありがとよ」

 必要ならば、と言ったことに対してだろう。やろうと思えば、ではない。玉英は、、と言ったのだ。

「だから俺としちゃあ、なるべくご機嫌きげんを取って、少しでも気に入って頂くのが最善さいぜん。……なら、こんなことで嘘を吐く意味も無い」

「それも、その通りだ」

「ご納得頂けて幸い、ってな。で、俺以外のカミについてだが……」

「うむ」

「ここから東へ行って、南へ行って、また東へ行って、少しばかり北……って辺りの島に『塔』ってもんがある」

「噂だけは聞いている」

「そうか、なら話が早い。そこの門番は、火に焼かれず、矢に当たらず、姿が掻き消えてはまた現れる……と、『カミ』みてぇな『ちから』があるってぇことだが、そいつは多分『カミ』じゃあねぇ」

「ほう、何故なにゆえそう言える?」

 裴泉が両の頬を上げた。

「殿下の謂う『神』ならどうか知らねぇが、本当に『カミ』なら、俺も俺の民も、無事で済んじゃいねぇ」

「戦ったのか!?」

 両眉りょうまゆを上げて問うた玉英へ、裴泉は眉間みけんしわを寄せて答える。

戦ったとそう言えるかどうか。……多少強引ごういんにでも『クニ』へまねこうと五十名送り込んだが、かえち、いや、全員がほぼ無傷むきずで帰された以上、なされた、と謂うべきか。何しろ、あっちは無傷だったってんだからな」

「それは……」

 子祐ならば、玉英が命じればやってのけるだろう。もし同等のことが出来るとすれば、『ちから』も含めてにせよ、勇者と呼ばれるに相応しいうでである。

だろ?」

 裴泉が、幾度目だろうか、左頬を上げた。

「そなたにとっては、が居なければその地に手を伸ばせる、か?」

 玉英は色を付けずに言った。

「おっと、戦をしよう、ってんじゃあねぇぞ。五十も送ったのは、敬意けいいはらったまでだ。大体、『クニ』としては、あの一帯も東の姫巫女様の影響下だしな――」

 裴泉は続けて本題に入った。――当たり前に考えれば誤魔化ごまかしているようにしか見えないが、手を出す気がない、というのは本心と思えた。

「――と違って、姫巫女様は、ありゃあ、本当の『カミ』……少なくとも『カミ』にちけぇ存在なのは確かだ。さからえば、舟がしずめられる」

 玉英に――周華に対してさえいだいていないおそれのようなものが、裴泉の剛毅ごうきな顔へ、確信と共に浮かんでいた。

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