第18話 燕薊軍

 恵陽けいよう付近のしんから恵水けいすいを東へわたると恵北けいほくに入る。

 恵北はそこから北へ扇状おうぎじょうに広がっており、民のらしを支える塩池えんちを抱えている。

 そのまもるべく、恵北側の津から東、伝令ならば一日の距離に、恵陽で最も信を置かれる将軍──雲鍾うんしょうが、二万の兵をひきいて駐屯ちゅうとんしていた。

 よわい三百三十。鎮戎公ちんじゅうこう雲理うんりの次男である。

 恵北の責任者でもあり、営舎内えいしゃないの一室へいずれも大型のつくえ椅子いす、地図、燭台しょくだい、それに数多あまた竹簡ちくかんを持ち込んで執務室しつむしつとしていた。

 炎に照らされつつ椅子へかる山のごと体躯たいくは兄雲仁うんじん以上に父に似るが、短く切り揃えた頭髪とうはついずれにも似ず、明るい緑色。

 その髪へ指を突っ込んで三度みたびいてから、雲鍾は伝令がもたらした命令を確認した。

「引き付けられているりで良い、と」

「ハッ!」

撃滅げきめつでも殲滅せんめつでもなく、むしろ引き付けておけ、と言ったのだな?」

「ハッ!」

「うむ、うむ。わかった。兄者あにじゃしたがおう。万事ばんじ了解りょうかいした、と伝えてくれ」

「ハッ!」

「良し! 外の従者に言って肉を受け取っていけ」

「ハッ! 心より感謝申し上げます!」

 頭を下げる若い犬族。このとしで重大な伝令をまかされたのだ。雲仁に期待されているのだろう。

 雲鍾が「もう行け」と手振てぶりでしめしたため、犬族はもう一度礼をしてから素早すばやく去った。

 外はくらいが、即座そくざに恵陽へ戻るに違いない。肉は、せめてもの心付こころづけだった。

「しかし、この俺きで決戦とはな……賢弟けんてい愚弟ぐていだけではらぬはずだが、殿下でんか余程よほど御方おかたか」

 雲鍾のつぶやきは、燭台の影にけた。



 雲鍾軍駐屯地からほぼ真南、恵水けいすい中流域へ西からそそぐ川がある。

 孟水もうすいである。

 孟水は太東たいとう北東部を半ばかこうようにして流れ、恵陽をかなめとしたへ広がる扇──恵南けいなん形作かたちづくっている。

 南東部、およそ二百二十五里(約九十キロメートル)四方の一角いっかくは、高原こうげんから先にあるため名目上めいもくじょうは鬼族領域だが、実質的には鎮戎公ちんじゅうこう領域とされる。

 この一角では東の恵水と南の孟水、双方そうほうに対してしんが整備され、必然的に対岸の一部も鎮戎公の影響下にあった。


 玉英ぎょくえいの恵陽到着から二日経った深更しんこう

 突雨とつう率いる熊族騎兵五千は、その圧倒的なはやさをかし、孟水に到達とうたつしていた。

「まだ、かどうかぁわからねぇが、敵はねぇな」

 夜目よめく。軍を見落とすことは無い……つもりである。

 津の者達も、竹簡と亀符きふを火で照らしつつ確認し、「いけます」と胸を張ったため早々に渡渉としょう。南側へわたってから半数ずつ休み、昼過ぎになって出発した。

 目標は恵水沿いの監視所かんしじょである。

 たして、周華しゅうか騎兵ならば三日掛けるところを二日でけ、そのままのいきおいで奇襲きしゅう

 一切の抵抗ていこうを許さず制圧した。



 突雨が孟水へ着いた日から六日後の夜。

 同じ恵南ながら恵水へ面した津に、玉英、琥珀こはく子祐しゆう雲儼うんげんれい以下の一行いっこう──麾下きか歩兵一万、騎兵一千に加え、恵陽軍歩兵三万五千が到着とうちゃくした。老兵一万五千を含むが、亀甲族のいて益益ますますさかんな特性上、十分じゅうぶんに頼りになる。

「ここのふねは大きいのう」

 琥珀は歩をゆるめた愛馬皎月こうげつの背から見渡みわたしつつ、感嘆かんたんの声を上げた。

「恵水をくだり、劫海ごうかいへ出ることを視野に入れた舟……だったな、雲儼」

 夕照せきしょうの首をでつつ、玉英が話を振る。隊列先頭は、相変わらず左から玲、雲儼、玉英、琥珀の順だ。

「ハッ! 大兵力を青東せいとう半島へ迅速じんそくに送り込むことを目的としております」

 青東半島は『三つ子半島』の一つであり、遠く京洛けいらくから見れば東北東の海上へ突き出ている形だが、その南方は竜爪りゅうそう族領域。

 まるところ叛乱はんらんへのそなえである。

「ふむ。何故なにゆえ竜河りゅうがではこれを使わぬのじゃ?」

 一つうなずき、新たにいた疑問をぶつける琥珀。

水深すいしん調査が不足しているため、と聞いております」

 言われてみれば、見えている部分だけでも船底ふなぞこの形がことなる。大きさの差と合わせて事故が起こりやすいのだろう。──その上、恵水とは比べ物にならない竜河の長大さである。想像を絶する調査が必要となるに違いない。

「竜河の調査、舟の改良、共に進めて参ります」

 雲儼が馬上ばじょう、頭を下げた。

 鎮戎公の後継者として期待されている立場上、として受け取ったのだ。──偉大なる兄達はよわいが父に近過ぎるため、『後継』とはもくされていない。

「うむ! 竜河を下るのも楽しみじゃのう!」

 琥珀は無邪気むじゃきに笑う。

 玉英も琥珀に柔らかい笑みを返し、

「玲も楽しみだ!」

玲はさけぶように賛同さんどうした。

 玉英の視界の端に、背後で考え込む梁水りょうすいうつった。



 年の暮れ、麒麟きりんの月に入っている。

 恵水は一月もせずにこおり付き、北辺の地は雪におおわれる。

 戦をする季節ではなくなるのだ。──戦を知らぬ者であれば、疑いもしない。

 その点、『三つ子半島』代官だいかん董蕃とうばんは、「此処ここねらい目」と考える程度には戦を知っていた。

 いな、冬と、自らの種族を知っていた、と言うべきかもしれない。

 適切な設備と装備、十分じゅうぶん糧食りょうしょくさえ用意すれば、はださえ凍りそうな冬の北辺でも戦える。そう確信していた。

 強健きょうけんきわまり無い鬼族軍なのだ。

 脱落する者も一部は出るだろうが、

──自身の弱さをうらめ。

 董蕃は馬上、白髪しらがじりの黒髭くろひげ一房ひとふさ、右手の指二本でつまみ撫でつつ、口角こうかく右端みぎはしだけかすかにゆがめた。

──足らざれば、雪を恨むが良い。

 本来呼び付けようとしていた遼南りょうなん(『三つ子半島』の一つ、遼南半島の主要都市。燕薊えんけいから北東方向。)軍が、夏には疫病えきびょう、回復した頃には早過はやすぎる豪雪ごうせつはばまれたため、両軍での速攻そっこう断念だんねんせざるをなかったのだ。

 そこでく頭数だけでも揃え、敵の予期せぬであろう攻撃を決めた。

 目標は

 推定兵力は五万、臨時徴兵りんじちょうへいがあったとしても九万。それを、

──波舵はだが二万でも引き付けられれば、恵陽攻撃こちら力攻ちからぜめ(兵力まかせの攻撃。)も可能となろう。

七万まで減らすことを見込んでいた。──波舵は董蕃配下で最も安定した力を発揮する将軍であり、恵北けいほくうかがう位置に三万で布陣ふじんしている。

 対して燕薊軍本隊は九万。

 これだけでは城攻しろぜめには全く不足だが、当初とうしょ後続こうぞく輜重隊しちょうたいとして運用する兵を加え、までふくれ上がる予定だった。

 秋の収穫しゅうかくを待って十二万の兵をあつめた結果である。

 大半は農民、残るは老兵。としてはかくとしては調練ちょうれん不足の数合わせに過ぎないが、がりなりにも、城攻めに必要とされるを満たすはずだった。

──恵陽へ取り付き、二月ふたつきで決する。

 伝令でんれいが恵陽近隣から朔原さくげんけ、朔原軍が恵陽へ辿たどくまで、長くても二月半。より慎重しんちょうに考えるなら二月以内が限度だ。

 伝令の出発を少しでも遅らせるため、本隊は隠密性を重視し、太東を行く。

 太東を調素通すどおりも可能と思われたのだ。

 距離だけで言えば孟水を渉り恵南、恵陽と進む方が短いが、大軍での渡渉にはときを要する上、そもそも孟水周辺は鎮戎公の手の者が多い。恵陽へ近付いてもいないうちに通報されれば、猶予ゆうよが半月は失われるだろう。

──ずは太東たいとうを駆け抜けることよ。見事恵陽をおとし、陛下へいか御恩ごおんむくいてげるのだ。

 董蕃は燕薊から遼南へと続く道沿みちぞい、の家の三男に生まれた。

 熊族相手に戦っていた若き日、幼少の麒角きかくに武才を見出され、以来二十五年つかえて、『三つ子半島』代官という諸侯しょこうぐ地位にまで取り立てられた。

 おんは大きく、忠誠ちゅうせいは深い。

 董蕃は鼻息はないきあらく笑い、十一尺二寸(約二百二センチメートル)の身体を伸ばし、山を見上げた。

 みがき上げたどう青銅せいどう。)のかぶとが夕日を反射してきらめく。

 山道の始まりだった。



「最大の懸念けねん払拭ふっしょくされたか」

 恵陽を出て十七日目の昼過ぎ、雲仁は誰にともなくこぼした。

 眼下がんかでは長く狭い山道に数万の敵兵がひしめいており、その後ろには更に数倍の兵が続いている。──後者は斥候せっこうからの報告である。

 太東から鬼族領域へつながる東の道沿みちぞい、東定とうていと名付けられた熊族のむらの一部が、とりでとして機能していた。

 まもるは近隣きんりんから集めた二万数千に、雲仁の私兵五千。……と言っても、一度に動くのは最大で五千程度。山道の隘路あいろ存分ぞんぶんかした構造である。

 雲仁は改めて各所へ目を配った上で伝令兵を呼び、命じた。

雲観うんかん雲超うんちょうへ伝令。敵本隊は九万ないし十万。深入ふかいりせず、所定しょていの行動を取れ。以上」

 十名が揃って復唱ふくしょうし、る。 

「どうにかこちらも、殿下の天運てんうんあやからせて頂きたいものだ」

 雲仁はゆっくりと深く、溜息ためいきいた。



 高原へ至る前にまとまった数の軍と遭遇そうぐうするとは思ってもみなかった。

 高所こうしょを取られており、しかも簡易かんいとりでまである。

 春に調べさせたさいは、もっと奥へ行かなければ小さな邑さえ無かった。

 巡邏じゅんらたぐいも見当たらない。そう報告を受けた日の会心かいしんが、今は逆に董蕃の心をささくれたせていた。

「ええい、忌忌いまいましい! 誰でも良い、あの防備ぼうびを抜けぬのか!?」

 滞陣たいじん三日目の夜。軍議ぐんぎ用の幕舎で、董蕃は居並んだ諸将しょしょうへ不満をたたけた。

 この三日間、あらゆる攻撃をかえされている。

 そもそもが隘路であり、大軍の利をまるで活かせていないのだ。──昼夜ちゅうや別無べつなく攻め掛かれはするが、地の利をいた攻撃でどれだけの効果があるか、やらせておきながらもはなはだ疑問だった。

 何しろ少数で守れてしまうため、まず間違いなく敵も兵を入れ替えている。疲弊ひへいに期待するのは難しい。

「何かさくのある者は!?」

 董蕃の怒号どごうに全体が萎縮いしゅくする中、幕下ばくか(配下。)で最も若い将軍が手を上げた。

茗節めいせつか。発言を許す」

寛大かんだい御言葉おことばまこと有難ありがと御座ございます」

と、鬼族男性としては平均より一寸いっすん(約一・八センチメートル)ばかりおとる身で深く一礼し、茗節めいせつは続ける。明るい褐色かっしょくの髪と目が目立った。

献策けんさくいたします。……董将軍、ここは軍を分け、南から攻めては如何いかがでしょう。わたくしに五万の兵をおし頂ければ、必ずや奴等やつら後背こうはいいて御覧ごらんれます」

「ふむ……」

 南西には、太東へ入るもう一方の山道があった。むしろ、そちらの方が整備されている。太西を通るに近いためだ。

 と知りながらこちらの道を選んだのは、隠密性おんみつせいを重視してのことである。……が、既に会敵かいてきしている以上、その点は考慮こうりょする必要も無くなっており、九万もの大軍を遊ばせておく理由も無い。

「良かろう。一万の兵と四十日分の兵糧ひょうろうを与える。もとの軍と合わせて二万、期待にこたえて見せよ」

「ハッ! 有難ありがたき幸せ!」

 茗節は姿勢を正し、再度深く一礼した。



 軍議ののち自身の幕舎へ戻った茗節を、若い将校しょうこうが出迎えた。

 黒髪黒目。背丈せたけ黒貂くろてん族としては相当に大きいが、茗節から見れば七寸(約十二・六センチメートル)は小さい。

「茗将軍、如何いかがでしたか」

 単刀直入たんとうちょくにゅうとはこのことだ。口調だけは落ち着いている。

 しかし、茗節は気を悪くせず、椅子へ乱暴らんぼうに身体を預けながら答える。

「てんで話にならん。確かにって言ったんだぜは! それをだとよ!!」

「一万ですか……兵糧は?」

「確か……あれだ、四十日分っつったな」

「四十日分も! 茗将軍、よくぞやって下さいました! これで茗将軍の地位は安泰あんたいです!」

 若い将校は熱を感じさせる笑みを見せた。

「そうか? そりゃ良かった。後は頼んだぜ、相毅しょうき

「お任せを」

 相毅の笑みが、自信をたたえたものに変わった。

 実を言えば、茗節の軍議での発言、どころかその話し方にいたるまで、この相毅の進言に形だったのだ。

 そも、今回だけのことではない。ここ数年相毅の進言に乗り続けた将軍にまで上がれた……と茗節は思っている。

 茗節は齢二十九。将軍としては破格の若さだが、副官の相毅に至っては十九だ。そのくせ数年前には既に将校だったため、

──大夫たいふ、もしかしたらけい(上級貴族。)のか。

と茗節はんでいるが、本当のところは知らない。聞きたくもなかった。

 茗節自身はの生まれ、それも遼北りょうほく(周華北東部、遼南に対しての遼北。熊族領域等との国境付近。)東部、山中さんちゅうの寒村から出てきて運良く引き上げられた身に過ぎない。『三つ子半島』ではだとかで身分の別が強くなかったおかげで出世出来たが、他の鬼族領域であれば最高でも百、普通ならせいぜい十かそこらを率いて終わる身分だったのだ。……が、それはそれとして。

「で、俺はどうすりゃいい?」

 気楽にたずねる。

「先ずは命令に従って南へ。兎に角ここを離れるべきです」

「今すぐか?」

「少しでも早く」

「良し、わかった。おあつらきに、追加される一万は後方こうほうの軍ってことになってる。輜重もな。……挨拶回あいさつまわり、行って来い」

 茗節は立ち上がり、命じながら相毅の背を叩いて送り出す。

「ッ……はい!」

 相毅はなつっこい笑みを返してから出ていく。

 茗節は、生まれの差はあれど、また頼り切りなれど、どこか弟に対するような気分だった。



 軍議から七日後の夕刻。燕薊軍本陣は騒然そうぜんとなった。

輜重しちょうが届かぬだと……!?」

 董蕃は普段は細い目をいた。

 軍、特に大軍を長期間支えるには、通常編制に含まれる輜重隊以外に後方からの継続的な輸送──別途の輜重隊を必要とする。

 その別途の輜重隊、わば軍の命綱いのちづなが、切れたかもしれない、という報告だった。

 兵站へいたんを任せているせこけた老将ろうしょう趙敞ちょうしょうは、状況に似付につかわしくない緩慢かんまんな口調で続ける。

「はい。本来であれば、本日昼に、来着らいちゃく予定の隊が、現れず、現在、確認させて、おりますが……」

 原因すら不明、と。

 輜重隊とは言っても、今回の場合は一隊につき一万五千の兵である。賊徒ぞくと如きにおくれをることは断じて無い。

 仮令たとえ一部がやられようとも、全体は負け得ないのだ。伝令も出せたはずである。つまり、

──敵だ。

 それは一瞬でわかった。

 わからないのは、いつ、どこから、どうやって、だ。

 仮に燕薊軍が山道へった段階で発見されていたとして、敵が輜重隊をおそうにはどんなに甘く見積もっても九日半ここのかはんしかなかった。

 それ以上後になれば燕薊軍本陣に近付き過ぎ、付近を行軍中だった茗節軍と接触……少なくとも発見されることになったはずだ。

 とすると、眼前がんぜんの砦から伝令が発したとしても、間に合わないのだ。

 兵が、恵陽から。

 伝令のように少数ならばまだしも、一万五千の兵を殲滅出来る程の──必然単位の軍ともなれば、替え馬にも限度がある。

 はやさであれば別だが……埒外らちがいだ。

──燕薊軍こちら仕掛しかける前から軍を動かしていた、か。

 砦の存在だけであれば、あくまでも備えに過ぎなかった、とも考え得たが、今回の襲撃でことが確定した。

 前提を、変える。

 敵軍は準備万端で、燕薊軍こちらつぶしに掛かっている、と。

 董蕃は深呼吸の後、なけなしの空気をしぼすように、鼻でわらった。

──獲物えものねらう者こそが獲物となる。わかっていたはずだったが、な。

 遼南、遼北の猟師りょうしに伝わる箴言しんげんである。

 伝令を呼んだ。

「茗節へ伝令。至急しきゅう帰陣きじんせよ。山道の東にとどまり警戒けいかいを継続。我が軍見えざれば燕薊へ帰還すべし。以上」

 五名が素早く去った。四日以内に追い付くはずだ。

 軍を再び合わせた上で、撤退てったいする。

 敵のわなを、やぶるのだ。

 董蕃は癇癪かんしゃく持ちではあるが、生涯しょうがいの半ばは熊族との戦に明け暮れた歴戦の将軍である。

 決断は、早かった。

 翌日には全軍で反転。二万を殿軍でんぐん(最後尾で敵の追い討ちを食い止める役目の軍。)として徐々じょじょ退かせたが、積極的には追われなかった。

 やはり砦の兵力そのものは数万程度なのだろう。敵軍本隊は、別に居る。

 輜重隊にも伝令は出してあったため、帰還途上だった二隊も合流。全軍で十万となって五日目の深更には平野部へ。改めて陣を組み、茗節軍を待った。が──


 茗節軍

「軍どころか、動く者すら見当たりませんでした」

「こちらも、同じく」

 董蕃が幕舎で聞いたのは、状況をかんがみて直直じきじきの斥候を任せた高堅こうけん高策こうさく兄弟の報告だった。

 いずれも五十手前、背丈では董蕃をわずかに上回る将軍達である。

 董蕃は一つ息を吸って、

「そうか、わかった。ご苦労。早速で悪いが、進発する。わしの後に続け」

「「ハッ!!」」

 茗節軍はものと判断し、進軍を再開した。

 背後に砦から出てきた騎馬隊の気配はあったが、追ったところで罠に掛かるとだんじ、無視した。



 太東の東、寿原じゅげん

 七百五十里(約三百キロメートル)四方しほうに近い、極めて肥沃ひよくな平原である。

 北に孟水、北東に恵水、南に太水と水には事欠ことかかず、燕薊の存在する南東部では劫海ごうかいめぐみまでも得られる。

 太東の山際やまぎわを南西へ抜ければ、ほぼ同等の広さの平原──西寿せいじゅに至り、その北西部からも太東へ入ることが出来る。

 茗節が軍議で進言し命じられたのは、この経路での侵入しんにゅうだった。

 しかし茗節軍はその道を途中で引き返し、燕薊軍本隊と合流もせず、寿原南部から中央に向かっていた。

 歩兵一万五千、騎兵五千。太東の陣をはっして二十一日目、年が明けて五日目である。

「相毅、お前の読みじゃ今日始まるんだよな?」

 二万の兵の先頭。茗節は朝日に目を細めつつ、右を行く相毅に尋ねた。く息が真っ白にくもっている。

「はい。昼過ぎには斥候同士が接触し、開戦。明日、我等われら介入かいにゅうすることで事実上けっします」

「かぁ~っ、あいわらず、お前の頭ん中で何が起こってんのかてんでわからねぇ」

 天をあおぐ茗節に、

「斥候の報告を組み合わせているだけですよ」

相変わらずの懐っこい笑みで答える相毅。

「それがわからねぇってんだよ」

 相毅の方を向き、両の眉尻は下げつつ両の口角を上げる茗節。

「ご心配無く。私が思った通りの御方なら、これが最も高く売り込める形のはずです」

 笑顔を深める相毅。

「そこだけは言い切らねぇんだな?」

 からかうでもない、純粋に疑問、といった声。

 まゆまぶたも上がっている……否、上げている。

「ええ、おに掛かったことが御座いませんので」

「会ったことありゃあわかるってか?」

 続けて──今度はからかうように問われ、相毅は目を丸くして三つ数える程の間考え、吐息を漏らすように笑って、

「はい、わかります」

また、懐っこい笑みに戻った。



 冬晴れの朝。

 寿原中央やや西寄りを、玉英一行は西進んでいた。

 率いる軍は麾下の歩兵一万、騎兵一千と、恵陽歩兵一万五千、それに輜重隊撃破げきはの任をこなしてから合流した雲観、雲超の騎兵三万五千──合わせて歩兵二万五千、騎兵三万六千である。

 恵陽歩兵二万は。……正確には、ふくした老兵四万も、だ。

 燕薊は、正面で守将しゅしょうの気を引き、裏手うらての港から二万五千の兵が攻め寄せる、という手で陥落かんらくしていた。

 城塞都市まちの規模に対して明らかな守兵しゅへい不足の結果でもあり、燕薊近辺の頃合ころあいを最大限活用した結果でもあった。──既に遼南方面の海は凍り付いていたのだ。

 本来は前者の状況を作り出す──兵を釣り出す──ことから始めるつもりだったが、相手の方から大軍で攻めてくれたおかげで随分ずいぶんと楽になった。 

「想定では、今日だったな」

「ハッ、昼過ぎには、おそらく」

 玉英の問いに左で頭を下げたのは、八日ようか前に合流した雲観である。

 雲理の四男──兄弟の中では三番目に当たる。父に似た暗緑色あんりょくしょくの髪を伸ばし、頭の後ろで纏めていた。

 十二尺八寸(二百三十・四センチメートル)にやや届かない程度の背を、黒水馬こくすいば鞍上あんじょう極力きょくりょく小さくしようとしている。──黒水馬は『三つ子半島』の更に北東、熊族すら立ち入らない極寒の地に生息せいそくする、速度は劣るが圧倒的な体格と力を誇る馬である。生息地と生息数の都合上周華ではほとんど用いられていないが、雲理とその息子達の年長組はあまりにも大きく重いため通常の馬には乗れず、どうにかこの馬を手懐てなづけて繁殖はんしょくも行っていた。

進言しんげん通り、初手はそなたに任せるが、他に何かあるか?」

 雲観、雲超隊の攻撃を、というのが雲観の進言……献策だった。無論むろんについても軍議は重ねてある。

「昨夜の繰り返しとなり大変恐縮きょうしゅくで御座いますが、殿下にかれましては、どうか先走さきばしられぬよう、してお願い申し上げます」

 一段とかしこまって言い、再び頭を下げる雲観。

 昨夜の、どころか燕薊で合流して以来ずっと言われ続けている内容だった。

 勿論もちろん雲観からすれば玉英は如何いかにも頼りない少女に見えようが──やっと十七になったところだ──それだけでは無い。

 比較対象が悪い……いや、優れ過ぎているのだ。

 玉英一行の中で雲観が完全に認めたのは子祐と突雨のみだった、という一事いちじだけでも、そのほどは知れる。──調練ちょうれんと手合わせの中ではるか年少の弟、雲儼の評価もいくらかは上げたようだが、まだまだ不足らしかった。

「わかっている。忠言ちゅうげん、感謝する」

勿体無もったいなき御言葉」

 雲観が三度みたび頭を下げた。

「雲超の武運ぶうんいのろう」

「ハッ、有難き幸せ」

 雲観が、一層深く頭を下げた。



 同日、昼過ぎ。

 果たして恵陽軍と燕薊軍、双方の斥候隊の一部が接触。──否、奇襲した恵陽軍の斥候隊が敵を殲滅した。

「なんだぁ、こんなもんかぁ」

 巨躯きょくの亀甲族がつぶやいた。

 たけ十六尺と一寸(約二百八十九・八センチメートル)余り。

 雲理すら優に超えるまさしく大山たいざんごとき肉体を、やはり巨体中の巨体であろう黒水馬の上で伸ばしている。

 雲理の六男──生きている中では四番目──にして、雲観がこの世で最も信頼する将である。

「まぁ、次だなぁ、次ぃ」

 を終えてもう一つ呟くと、駿馬しゅんめに乗った十名の犬族を連れて、のっそりと歩き出した。

 綺麗きれいげた褐色かっしょくの頭が、陽光をかえしている。



──ついに来た。

 敵である。

 と言っても姿すがたが見えているわけではない。

 帰り着くべき斥候が、大半戻って来なかったのだ。……味方が消えたなら、そこに敵が居る。

 既に夕刻だが、早々に陣形を整え直した。


 前軍左 高堅──歩兵一万七千五百、騎兵二千五百。

 前軍右 高策──歩兵一万七千五百、騎兵二千五百。

 中軍 董蕃──歩兵三万、騎兵一万五千。

 後軍 趙敞──歩兵一万、騎兵五千。

 計──歩兵七万五千、騎兵二万五千。


 歩兵は全体に方陣ほうじん(正方形に近い陣形。五名が五列で二十五名、といった具合。)、騎兵は当初左右や後方に置き、各将軍が直接率いて動く。──趙敞のみ、騎兵を副将ふくしょうに任せている。

『三つ子半島』は熊族領域に接しているため、対抗たいこうの都合上他の鬼族領域と比べれば騎兵が多くなっている……が、鎮戎公領域とてそれは同じこと。否、鎮戎公領域あちらの方が程度は大きいだろう。

 その点での優位は無いものと考えるべきだった。

──夜襲もあろうな。

 油断ゆだんはしなかった。

 董蕃自身が、冬に戦を考えたのだ。

 そこへ先手を打って来た程のが、斥候という『軍の目』を潰した好機こうきのがすはずも無い。まして、亀甲族は夜目よめく。


 寿原にも、ちょっとした起伏きふくはいくらでもある。

 せめて東の小高い位置に布陣しようと移動していた燕薊軍を、夜闇よやみの中、南北から騎馬隊が襲った。

 鬼族も夜目が全く利かないわけではないが、個個ここの差が非常に大きい。──気紛きまぐれな『神』、麒麟きりん加護かごの差、とでもうべきか。

 さいわい董蕃はかなり方だが、その視界では、味方歩兵への突撃に横槍を入れようとした高堅、高策の騎馬隊が一蹴いっしゅうされていた。それどころか、

──高堅が一合いちごうも保たぬか。

先頭を駆けていた高堅の首が飛ぶのが見えた。高策は、兵を減らしつつも一旦離れている。

──あの敵には、当たれぬ。

 高堅を倒した巨漢は明らかにだった。

──うわさに聞く『亀甲族最強』の──『武』に相違無そういなかろう。

 輜重と歩兵で無理にでも動きを止め、対応し切れないだけの弓矢で殺す、あるいは弱らせてからつしかない。

 董蕃はそう見切みきって、高軍へ突入した敵に残る全軍を向けた。

 緒戦しょせんである。先ず『武』と決戦出来るだけの状況を作るべき、と判断したのだ。

 高策軍は早くも数千は減らされている気配だが、董蕃、趙敞の歩兵を加えて厚みを増し、敵を受け止めさせる。

 その間、董蕃自らが騎兵の先頭に立ち、敵将を狙った。

──『最強』の片割れ、智謀ちぼうの兄は、武にはさほどすぐれぬと聞く。……ここで、斬る!

 両輪りょうりんの片方でもけば、戦車はまともに走れなくなるのだ。

 麾下の騎兵一万五千は北方での実戦経験もある燕薊軍最精鋭。董蕃の動きにも手足の如く付いてくる。

 高策軍の右を通り、前へ。

 敵騎馬隊が味方歩兵の壁をやぶってくる位置を予測し、回り込んだ。

 董蕃のかんわたっていたらしく、燕薊軍前方へ突き抜けてくる敵将を迎え撃つ形になった。

 おそらくほぼ同数の騎馬隊同士。正面からぶつかりに行く。

 敵将は、『武』の巨躯と比べれば三尺(約五十四センチメートル)以上おとろうが、董蕃よりは一尺六寸(約二十八・八センチメートル)近く優れる。

──それがどうした! 武は、研鑽けんさんてにこそあるのだ!

 自らをふるい立たせ、右手の長剣を渾身こんしんの力で敵将の首へたたける。

 敵将も、背丈に合わせてか通常より大振りではあるが、長剣。

 見事みごと打ち合わせる形でふせがれて、互いに獲物を後続の軍とした。

──噂とは、当てにならぬものよ。

 届く範囲の敵兵を斬り捨てつつ、心中しんちゅう独白どくはくする。

──儂と、同等ではないか。

 口角の右端が、意図せずして歪む。

 右手のしびれが、何故か心地良ここちよかった。



──思ったよりは、やるな。

 戦場をあとにしつつ、雲観は認識にんしきあらためた。

 最初に突っ込んだ軍、歩兵の半ば以上は無理に徴兵ちょうへいした者達に違いない。如何いかに鬼族といえども殆ど話にもならなかったが……後から来た騎兵はなかなかのものだった。

 全力で当たれば勝てるつもりだが、雲観軍こちらも相当血を流すことになる。

 そうさとって、敵騎馬隊の背後へ抜けた勢いのまま南東へ退いたのだ。

 敵は追ってこなかった。伏兵を警戒したのだろう。

 玉英へ伝令を出し、転じてしばしののち──

兄貴あにきぃ、どうだったぁ?」

雲超が合流。雲観の左に付いた。

 互いの下では黒水馬同士が並び、親しげに声を上げる。互いの乗騎も一つ違いの兄弟なのだ。──組み合わせはだが。

「無事で何よりだ、雲超」

 答える前に一言ひとことはさんだ。

 今回は一撃いちげきして離脱りだつするようふくめてあった。敵の全軍に囲まれ、馬の足が止まるようなことがあっては如何に雲超とてことだ。

 騎兵突撃は数倍の歩兵に匹敵ひってきする威力いりょくを誇るが、それはあくまでも衝撃力しょうげきりょくの話。足の止まった騎兵は存外ぞんがいもろい。

「指揮官とその麾下はなかなかだったぞ」

「なかなかってぇ、どれぐらいだぁ?」

「軍としては私が優勢。やつと一対一なら互角、あるいは紙一重かみひとえ負けるかもしれん」

きたえないからだぞぉ?」

 弟に溜息を吐かれた。

 大抵の場合は体格と経験の優位ゆういがあり、長い生で困ったことは無いが、仮にとやり合えば数合すうごうたずに斬り捨てられる自覚はあった。

 そう、例えばまえの弟、雲超のような相手だ。

 おそらく定命じょうみょうの者の中では周華一の体格。そこへき武への探究心たんきゅうしんまで宿たどっているのだから、まさしく天賦てんぷである。

「お前のようにはなれぬのだ、雲超。何より──」

 雲観は幼い頃から武への興味がうすかったものの、それが決定的になったのはこの弟の天賦に気付いたためだ。──亀甲族としてはおさない部類に入る十代の頃に、七つ年下の弟に完膚無かんぷなきまでに敗北すれば、いやおうでも気付かされる。ゆえに──

「──私はお前を通して戦えれば良いんだ」

雲観は、雲超を最大限活かしてやることに傾注けいちゅうした。

 あまりにも一個の武に直向ひたむきなせいで軍略ぐんりゃくを学ぼうとしなかった弟のため、自身がそれを補完ほかんすることにしたのだ。

 数十年も経つ頃には、雲観、雲超が揃って戦場に出れば、兄達にもまさる成果を出せるようになっていた。

 三百年近くもそんなことを続けたため、副次的ふくじてきに雲超も最低限の軍略は身に付けてくれたが、あくまでも「兄貴が言ってたからぁ」という類で、しんから理解しているわけではない。

「でもよぉ、俺には兄貴がぁ、必要だけどさぁ」

──兄貴が本気出せばぁ、俺は要らないだろぉ?

とは、言わせなかった。

「私にも、お前が必要だよ、雲超」

 先に、言ってやる。いくつ齢を重ねようと、これが兄のつとめだ。

──自身の天賦のほどに気付けない、おろかな弟よ。

明日あすも、お前にしか頼めぬことがあるのだ」

 ひげも髪もない赤子のような顔を満面の笑みに変え、雲超がこたえる。

「あいよぉ兄貴ぃ。どうすればぁ、いいんだぁ?」

 雲観は口角を上げ、一つずつ伝えた。



 一万以上はたおされていた。

『武』に蹂躙された高堅の軍だけで七千。高策の軍で四千。補助に入らせた歩兵は敵に届かず、董蕃の騎兵は敵将の騎馬隊と痛み分け、といったところだった。

──見切られたな。

 恵陽軍本隊がであれ、厳しい戦いになるだろう。少なくとも、太東の砦から追ってきた軍も合流するのだ。

 今晩のうちに可能な限り削っておきたかったが、撤退する敵を一定以上に追いはしなかった。

 夜に襲い来て一撃、離脱した敵の行く先など、罠があるに決まっていた。──相手は『最強』の『智』なのだ。

 敵は二隊共南東へ向かったが、それすら怪しく思えてくる。明日は北から来る、と想定すべきか……いや、そう考えることすら術中じゅっちゅうかもしれない。

 実戦は様々なことが判然はんぜんとしない中で決断するものだが、それにしても、後手に回ったつらさがみた。

空堀からぼり土塁どるい、輜重を用いて陣を組む。位置は──」

 おかとすら言えない程の小高い一角を、弓と防禦ぼうぎょに活かす。

 幸い、編制内外の輜重隊が数万規模で居るのだ。こうした作業の道具には事欠かず、適宜てきぎ兵を休ませつつ、どうにか朝までには最低限の備えを終えた。



 朝日が昇り、まだ昼には至らない頃、恵陽軍──あるいは玉英軍──は燕薊軍を遠巻とおまきに囲んでいた。


 北、雲超軍、騎兵一万八千五百。

 東、雲観軍、騎兵一万五千四百。

 南、玉英軍、歩兵二万五千、騎兵一千。

 計、歩兵二万五千、騎兵三万四千九百。


 全軍で六万弱だが、この場の兵力ではまだおよんでいない。燕薊軍は九万近いのだ。

 騎兵の差もあり、真っ向から当たれば勝てるつもりではあるが、犠牲ぎせいが大きくなる。

 ましてや相手は、簡易とは言え陣地じんち構築済み。危険ですらあった。

「ここまではか」

 玉英の呟きに、唯一ゆいいつう子祐はいつも通り、応えない。

 高さ十一丈(約十九・八メートル)。多くの車輪を取り付けた、移動式の物見台ものみだいの上である。明華めいか発案はつあんで鎮戎公軍全体に取り入れられているとう。──なお、現地での僅かな調整のためのであって、長距離移動の際には分解した状態で持ち運ぶ。

 玉英は相手陣地を見つめ続け、五つ数えた頃、

「見たいものは見た。子祐」

「ハッ!」

 梯子はしごである。子祐は後に昇り、先に降りることをゆずらず、玉英も素直に受け容れていた。──これも、いつものことだ。

 何事も無くへ着き、

「雲観、雲超へ伝令。万事予定通りに。……以上。頼んだぞ」

「「ハッ!」」

 待ち構えていた二名の若い犬族が、尾を激しく振りながら駆け去った。

「さて、雲超の勧告かんこく、楽しみだな」

 玉英が子祐を見上げながら笑い掛けると、子祐もかすかに口角を上げ、目を細めて頷いた。



 董蕃は眉間みけんしわを寄せた。

「燕薊が……陥落?」

 昼前。遠目にも『武』とわかる巨漢の、恐ろしいまでの大音声で伝えられたのだ。──降伏勧告である。

 兵達に動揺が走る。当たり前だ。彼等かれらの家、家族、あらゆる大切なものが燕薊にある。

 もっと言えば、彼等が兵として従っているのは、そのに過ぎない。

──やられた。

 燕薊軍こちらからでは、真偽しんぎは確かめようがない。

 しかし、燕薊を出てから四十日近く経つ。敵にほぼ包囲されている状況も相俟あいまって、

──兵には事実としか聞こえぬだろう。

「兵を落ち着かせろ! 偽報ぎほうだ! ここで負ければ本当に陥されるぞ!」

 、声を張り上げて命じたが、

──無駄むだやもしれん。

 陣地にこもることで大半の兵が密集しており、情報も動揺も瞬時に広まった。

「兵ええええぇぇ~~~以外はああああぁぁ~~~無事いいいいぃぃ~~~だぞおおおおぉぉ~~~」

 民が、家族が丸ごとしちになったと思い込まされた……あるいは疑念を抱かされたのだ。の頃から従っている董蕃麾下は兎も角、他の兵が董蕃の命令に従う理由りゆうは……あまりにも薄れている。

 勝手に飛び出さないだけだが、惰性だせいでその場にとどまっているだけの軍に、どれ程の力があろうか。

──せめて、もう一軍。茗節の軍さえ無事ならば……。

 董蕃の願いは、その夜、半ばだけかなえられた。



「良くぞ戻った! 良くぞ!」

 幕舎の外、董蕃は茗節を出迎えた。篝火かがりびがあるにもかかわらず、夜空の星がまぶしく感じられる。

 西から合流しようとした茗節軍が、さえぎるように出てきた南方の敵騎兵一千を。燕薊軍陣地まで辿り着いたのだ。

 一見すると西方は包囲されていないようだが、見せ掛けだと実証じっしょうしたことも大きかった。──もし本隊が西からだっそうとすれば、太東の砦から追ってきた軍が出てくるのだろう。

「申し訳御座いません、董将軍。遅参ちさん致しました。西寿への道中、敵の騎兵一万と遭遇そうぐう、どうにか撃退した頃には御下命ごかめいに背くこととなっており……」

 深深ふかぶかと頭を下げて釈明しゃくめいする茗節。だが董蕃にはもはやどうでも良いことだった。

「良い、良い。今ここへ駆け付けたことで不問ふもんとする。して、兵は如何程いかほど残っておる?」

 董蕃は茗節の肩を自ら起こし、問うた。

さき前で、騎兵三千、歩兵は四千余り……お借りした兵は殆ど失いました。どうか、この首でおゆるし下さい」

 項垂うなだれる茗節。

 騎兵ニ千、歩兵一万一千の損害である。の際、更に一千以上は脱落しただろう。

──さもありなん。

 もし『智』の麾下にいくらか劣る騎馬隊だったとしても、茗節の麾下では抑えられず、元は董蕃麾下だった歩兵一万が奮戦ふんせんしてやっと勝負になった程度のはずだった。

 その上、は動きからして精鋭中の精鋭。董蕃麾下や『智』の麾下よりもに見えた。──たった一千という少数だからこそ出来るき、と思われた。

「良い。今は、この苦境くきょうだっすることが先決せんけつだ。力をくせ」

「ハッ!」

 姿勢を正す茗節。

「では、早速だが、明朝みょうちょう、もう一度西を突破、南の敵の裏へ回ってくれ。おそらく歩兵の後ろに本陣があろう。そこを狙うのだ」

承知しょうち致しました。ただ──」

 よどむ茗節。

「良い。言うてみよ」

「ハッ! しかし、ここでは……」

 幕舎の前である。将兵の耳目じもくがあった。

「わかった。入れ」

 共に幕舎へと入る。

 董蕃と茗節だけである。

「これで良かろう?」

 茗節は一度見廻して頷き、声をひそめて言った。

「申し上げます。実は兵の中に、あの騎兵一千に……『王族を見た』と言う者が居ります」

「何っ!?」

 思わず声をあらげた。

「董将軍、どうか、お声を……」

「……うむ。して?」

「董将軍の前で粗相そそうがあってはなるまいと、我がとどめておりますが、御許可ごきょか頂けるなら──」

「良い。儂が行く。案内あないせよ」

「ハッ!」

 もし、逃げ延びた王子か王女ならば。

 もし、とらえたならば。

──敵軍はろうせずして瓦解がかい。陛下にもより遥かに上等な献上品けんじょうひんとなろう。

 敵軍の多さ、先手を取って攻めて来たことの辻褄つじつまう。

 王家に最も忠実とされる鎮戎公が、至高しこう旗印はたじるしを得たためだ、と。

──だが、前線へ出したのが運の尽きよ。

 南方の敵騎兵は一千のみ。如何に最精鋭であろうと、一千は一千。対して燕薊軍こちらは茗節軍を加えて騎兵二万数千。

 最速で当たれば、燕薊軍こちらの歩兵がついえる前に決着を付けられよう。

 董蕃は高鳴たかな鼓動こどうに突き動かされるように、ともも付けずに陣地外の茗節軍へと向かった。


此方こちらで御座います」

 茗節が右手で幕舎を指し示し、頭を下げる。茗節自身の幕舎を、兵の監禁に使ったらしい。

「儂だけで話す。良いな」

「ハッ!」

 暗い幕舎へ入り、鬼族男性としては平均程度の大きさの影を認め、極力声で、

「『三つ子半島』代官、董蕃である。そなた、王族を見たと──」

 瞬間、董蕃の意識は途切れた。



 よいけ、三つの月がほこるようにかがやいている。

 玉英の幕舎も、月明かりを受けて白く輝いていた。


 その、幕舎の中。

 椅子に座った玉英の前へ、子祐がやや大柄な鬼族をてて来た。

 口には布がまされ、両腕は背中側で何重にもしばられている。

「これなるは『三つ子半島』代官、董蕃に御座います」

 董蕃をさえけつつ、子祐が頭を下げる。

「良くやってくれた。無事で何よりだ、子祐」

「有難き御言葉」

 一層頭を下げる子祐。押さえる力は、ゆるめない。

 玉英は頬を緩めて頷き、

はなして良い」

「ハッ!」

 子祐は玉英の──玉英から見て──左脇ひだりわきに立った。更に左前には雲儼が控えている。反対側、玉英の右にはやはり琥珀が椅子に座っており、琥珀の右脇みぎわきでは文孝ぶんこう伯久はくきゅうに備えていた。

おもてを上げよ」

 董蕃は身体を伏せたまま、従った。最初は火を吹くような目付きだったが、玉英と視線が交わった瞬間、一度目を見開いてからしばし閉じ、再び開けた時にはいた。

「玉英である。一応いておくが、董蕃、そなた、私に仕える気はあるか?」

 視線はらさず、頭を横に振る董蕃。

「そうか、残念だ。……特に言いたいことがなければ、このまま首をねるが」

 董蕃が何やら声を発した。──当然だが、くぐもっている。

「外してやれ」

 文孝が慎重に布を取り、下がった。

殿数手すうて御教示ごきょうじ頂けませぬか?」

「良かろう。なんだ?」

「いつ、進発なさいました?」

「先々月の二十二日、だった」

「やはり、燕薊軍われらよりも早く……では、恵水を、舟で?」

「そうだ」

「今一つ。茗節の内応ないおうは、いつ?」

「先月の二十日、と聞いている」

「陣を離れて……八日目ようかめ

 董蕃はわらってから続ける。

「殿下、御注意下さいませ。あれはとんでもない食わせ者ですぞ」

「忠告、感謝する」

 玉英は小さく頷いた。

「いえ、こちらこそ、死出しで土産みやげ、心より感謝申し上げます。大変御無礼ごぶれいつかまつりました」

 頭を下げた董蕃に、

「そうそう、ところでそなた、京洛での一事には加わっておったか?」

「ハッ」

「叔父上の目的は、聞いておらぬか?」

「ハッ、いいえ、儂ごときには、何も」

「そうか、感謝する。……では、さらばだ」

「ハッ、有難う御座いました」

 地にひたいこすけた董蕃を、雲儼が引っ立てていった。



 雲儼等と入れ替わるようにして、子祐よりニ寸(約三・六センチメートル)ばかり小さい鬼族と、玉英よりニ寸ばかり大きい黒貂くろてん族が入って来て自ら地にせた。

「面を上げよ」

 両者共、ゆっくりと顔を上げる。

「玉英である。……茗節。此度こたびは良くやってくれた。そなたがちゅうを尽くす限り、あつもちいよう」

「ハッ! 有難き幸せ」

 頭を下げる茗節。

「何か望みはあるか?」

御心みこころのままに」

 茗節は更に深く頭を下げた。

「良かろう。では将軍として今後も私を支えてくれ」

「ハッ!」

 玉英は頷いて、黒貂族へ目を向けた。

「そなたは光扇こうせん係累けいるいとか?」

 光扇は、かつて玉英が会ったことのあるがく家の娘である。

「その弟、名はじょあざな相毅しょうきに御座います」

 相毅がうやうやしく一礼する。

「相毅、は見掛けなかったが」

熱発ねっぱつし、静養せいようしておりました」

「そうだったか……の者達も息災そくさいか?」

「父は先年病を得て亡くなり、姉が皆を率いております」

「そうか……冥福めいふくを祈る」

「心より感謝申し上げます」

 再び頭を下げる相毅。

「うむ。……光扇とそなたは、私に力をしてくれるか?」

 楽家の影響力は大きい。『三つ子半島』では、特に。

「姉も私も、『藩屏はんぺいたれ』と育てられました。臣下しんか末席まっせきにおくわえ頂ければ、さいわ至極しごくに御座います」

「感謝する。頼りにさせてもらうぞ」

「ハッ!」

 三度、頭を下げる。

 玉英は頷き、

「相毅、望みはあるか?」

「お許し頂けるなら、このまま茗将軍の副官を続けたく存じます」

「ほう……良かろう。では改めて茗節軍副官として任ずる。はげめよ」

「ハッ!」

 玉英は静かに深呼吸して、切り出す。

「さて、両名にはかりたいことがある。面を上げよ」

「「ハッ!」」

「残る燕薊軍について、何か策はあるか?」

 茗節、相毅の目を順次見つめる。

「茗節より申し上げます」

「許す」

「有難き幸せ。……残る将軍は趙敞と高策のみに御座います。趙敞は万事ばんじ無難ぶなんを良しとする老将ゆえ、再度降伏を呼び掛ければくだるでしょう」

「ほう、高策の方は?」

 玉英が僅かに目を見開く。

「高策は直情径行ちょくじょうけいこう。兄、高堅のかたきを取ろうと息巻いきまいております」

 茗節が一瞬相毅の方へ視線を動かした。

、雲超殿が一騎打ちを呼び掛ければ、応じるかと」

「ふむ、良くわかった。相毅、何か意見はあるか?」

「いえ、茗将軍の策が宜しいかと存じます」

「そうか。そなたの進言に感謝する。下がって良い」

「「ハッ!」」

 茗節、相毅は一礼し、更に幾度いくどかの礼を経て、去った。

一先ひとまず、朝まで軍は動かさぬ。皆、ご苦労だった。下がって良い」

「「「「ハッ!」」」」

 子祐、雲儼、文孝、伯久が幕舎を出て行った。──子祐は幕舎の外に立った。


「面白い奴等じゃったのう?」

 琥珀が微笑ほほえみながら首をかしげた。

「わかった?」

 玉英は眉尻を下げて笑った。

「うむ。何故なにゆえ花を持たせようとするのじゃろう」

「多分、燕薊軍ではああやって出世来たんだろうね」

 才気さいきあふれる者の処世術しょせいじゅつの一種、それに……親愛だろうか。

「言ってやらんのかや?」

「どっちの方が楽かな?」

「ふむ。……早いうちに伝えてやった方が良いような気がするのう」

「ん~、うん、そうだね。もし言ってこなかったら、頃合いを見て伝えてみるよ」

「うむ。わらわも同席しておる日にの!」

 明らかに楽しむ気だった。

「うん、勿論もちろん。ありがとう、琥珀」

──相談に乗ってくれて。……いつも、隣に居てくれて。

 玉英が満面の笑みを見せると、

「当然じゃ!」

琥珀も笑いながら、胸を張った。



「なあ、相毅」

「なんですか、茗将軍」

 既に軍営ぐんえいは抜け、馬上である。

 子祐が董蕃の意識をうばった後、董蕃の命令といつわって燕薊軍の陣地を脱出、そのまま玉英軍の裏手へ来たため、南東に置いてきた──歩兵一万一千、騎兵ニ千を迎えに行くのだ。

「殿下ってなぁ、こえぇ御方だなぁ?」

「それはまた、どうして?」

「だってよぉ、ありゃあ、俺がお前の策のまんま話してるって、気付いてただろ?」

 茗節自身、相毅の方を盗み見てしまったことは自覚していたが、

「あの一瞬だけじゃあねぇ。最初っからなんか、包み込むみてぇな気配でよぉ……」

 茗節は唇の中央を上げて視線も上へ逃がし、戸惑とまどいを

「そうですね。少なくともでは、隠し事は出来

 先王せんおうの【麒麟の眼】について、相毅は当然父から聞いていた。玉英がいでいる可能性があることはわかっていてためしに押し通してみたが、

──それすら見透みすかして

 わざわざ最後に「そなたの進言」などと言ったのだ。心構こころがまえをさせてくれるつもり、

「まあ、本当にわりぃ気分ってわけじゃあなかったけどよぉ……」

 見透かされたことによる居心地いごこちの悪さと、謂わば悪戯いたずらを許されている状態が噛み合わない

「次にお目に掛かることがあれば、平身低頭へいしんていとうあやまってしまいましょう」

で、か?」

「素で、です」

「それはそれで怖ぇなぁ」

「大丈夫ですよ。必ず赦して下さいます」

ってか?」

「まだですが、これについては、はい」

 相毅は、いつものように笑った。



 翌早朝。

 燕薊軍陣地は騒然となった。

 総指揮を執っていた将軍が消えたのだ。

 最初に気付いた董蕃の従者が少々者だったため、趙敞が知った頃には手遅れだった。

「趙敞殿! 入らせて貰う!」

 返事も待たずに幕舎へ踏み入ってきたのは高策。序列では趙敞より下だが、背丈は五寸(約九センチメートル)ばかり上。声と態度も大きかった。

「聞いたか!」

──お前の耳に入ることなら、儂の耳にはうに入っているよ。

とは言わず、

「高策。董将軍の、ことか」

いつもの通り、緩慢に尋ねた。

「無論だ!」

 座っている趙敞の眼の前、小さな机を高策の右手がたたいた。

「その机は、気に入っていてね。乱暴に、扱わないでくれ」

 年長者らしい笑みを見せる。

「む、それは、すまなかった……だが、一大事だ!」

 言ったそばからまた机を叩きそうになり、辛うじて途中で止めた高策。

──おろかだが、悪い奴というわけではない。惜しいな。

「そう、一大事、だ。……高策、お前、どうする気だ?」

「どうするも何も無い! 昨夜茗節軍を見ただろう! あの若造わかぞうが裏切ったに違いないのだ! こうなれば死ぬまで戦うしかあるまい!!」

 逃げ出した、というのは董蕃の不在を見方みかたに過ぎないが、それ以上に、ここまで追い込まれて「死ぬまで戦う」などと──

──愚かさも過ぎれば救えぬ、か。

「わかった、高策。お前が、そう言うなら、良かろう。前は、任せる。董将軍の兵も、高堅軍も、お前が、率いろ」

おうよ! 流石趙敞殿、話がわかる! では急ぐゆえ失礼する!」

 高策は早々に背を向け、

「ああ、しっかり、

趙敞の背後に控えていながら居ないようですらあった副官──孔苑こうえんが、音も無く踏み込んで剣を抜き打ち、高策の首を落とした。

「良くやった、孔苑」

 孔苑は無言のまま趙敞の前に跪く。──鬼族男性の平均よりニ寸(約三・六センチメートル)近く小さく、やや華奢にすら見える肉体。齢は二十一になったばかり。

 趙敞はかがめて孔苑の口を三度吸い、

高策これの始末は任せた。儂は、兵を纏める」

孔苑はやはり声も発さず、ただ頭を下げた。



 終わる時は、淡淡たんたんと終わる。

 そういうこともあるのだと、よくわかった。

 昼前、玉英の幕舎に姿を見せた老将は、すがるように平伏へいふくした。

「面を上げよ」

 玉英は色を付けずに言った。

 周囲は、昨夜と同じである。

「ハハァ~ッ!」

「そなた、存念はあるか?」

「この趙敞、ご寛大かんだいな、御心みこころに、ただ、ただ! 感謝する、ばかりで、御座います」

 頭を下げる趙敞。

「趙敞、私に仕えるか?」

 趙敞は頭を下げたまま一瞬視線を上げ、また下げて、

「もったい無き、もったい無き、御言葉! されど、お許し、頂けるなら、是非とも、是非とも! この老骨を、お使い、下さいませ」

「そうか。……ではそなたには、最初から言っておこう」

「何なり、と!」

 玉英は琥珀と顔を見合わせ、少し笑ってから趙敞へ視線を戻し、

韜晦とうかいは許さぬ」

これも色は付けず、しかし明瞭めいりょう宣言せんげんした。

 趙敞は一瞬全身をふるわせ、

「ハッ!」

 ただ一言、応えた。



 寿原の戦が決着してから四日後の夕刻。

 恵北で雲鍾軍とにらいを続けていた波舵軍が、伝令を受けて降伏。

 恵陽軍と燕薊軍の戦が、終結しゅうけつした。

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