第16話 玲、擬戦、夕照
翌朝。
空が
身体の下にあるのは、
騎乗の旅にもいくらかは慣れたが、
いくら馬の方で
なるべく休ませてやりたかった。
玉英は半ば身体を起こし、腕を突いて琥珀の方へ
雪よりも白い耳が数度、何かを確かめるように
五感に
ただ、悪意が無ければ反応しない。ましてや玉英に対しては油断すら見せる。
だから玉英は、その油断に乗じて左手を琥珀に向ける。
少しでも力を入れたら壊れてしまう。──そう信じ切っているかのような手付きで、ゆっくりと琥珀の頬へ触れ、親指だけで
琥珀がニ回鼻を鳴らし、玉英の左手へ顔を押し付けてくる。
琥珀は満足したかのように身体を丸め、深い寝息を立て始める。
小さな右手で隠された
「オマエが
朝の静寂を吹き飛ばすような、天幕への
「女だったか! でもいいぞ。玲は強き者なら誰でも受け
天幕の入口で胸を張る熊族の少女。玉英や琥珀と大差無い年頃……一つ二つ下か。
声量とは
熊族は鬼族と同等以上の体格を誇ると
少女の背丈は熊族女性の平均をニ
玉英は、万が一に備え、いつでも琥珀を護れるよう
「私は玉英。そな──」
「玲は玲だ! 玉英! 勝負だ!」
初めて出会う類の相手だ。
敵意も悪意も無く、話を聞かないだけ、と思えた。
──あるいは一つずつならば、聞いてくれるか?
気を取り直して
「私はそなたの婿ではない」
「ならそっちのちっこいのか? 弱そうだ。でもなんだか強そうだ。なんでだ?」
玲は首を
はっきりわかっているわけではないようだが、もし琥珀の
「彼女もそなたの婿ではない」
「そうか。残念だ」
唇を
どうやら、真っ直ぐ
「そなたの婿になるべき男は、別に居る。これか──」
「そうか! どこだ!」
「……これから、会いに行こう」
「うん! 玉英は良い奴だ! 友達だな!」
「そうだな、友達だ」
満面の笑みを見せる玲に、玉英もやや眉尻を下げつつ、笑顔になる。
手の掛かる妹が出来た。そんな気がした。
玲に「外で少し待て」と言い渡し──「わかった玉英! 外で少し待つ! でも少しだぞ!」──琥珀を起こした。
「ごめんね琥珀」
「ん……むぅ……」
琥珀の不均等に伸ばした前髪を撫でながら、手短に事情を説明し、共に着替えてから外へ出る。
「玲、待たせた」
「玲、待った。偉いだろ!」
天幕の外、すぐ左で胸を張る玲。
「ああ、偉い。では、行こう」
「
返事を聞くと、
正確には、家畜を囲う区画がしばらく続き、その先に雲儼の天幕……という具合だった。──なお、子祐の天幕は反対側。こちらは本当にすぐ隣にあったため、玉英等が移動し始める際、子祐は既に後ろへ控えていた。
着いてみれば、雲儼は既に天幕の外、鍛錬には
「お
戟を置き、丁寧に礼をする雲儼。
それなりの日数共に過ごしたはずだが、呼び方や態度を適宜切り替えるのは案外難しいようだ。
「おはようございます、雲儼殿」
玉英も適切と思われる言葉と態度で返したが、話を始める前に、
「オマエが玲の婿か!」
玲が問いを
「……はい。雲儼と申します」
硬い表情で答え、頭を下げる雲儼。
昨夜既に話は聞いていたのだ。こちらに関しては、素早く切り替えられていた。
「良し! 勝負だ雲儼!」
「はい。今すぐにで──」
「すぐだ!」
「待て玲。玲の兄上達を呼ぶ」
玉英が割って入った。
「なんでだ?」
首を傾げる玲。玉英の瞳に答えが書いてあるはずだ、というような見上げ方をしている。
「玲の勇姿を観たいと言って──」
「そうか! じゃあ待つ!」
「いい子だ」
満面の笑みを見せる玲に玉英が微笑みを返す。
主君の意を受けて子祐が走った。
「玲、俺を相手にしていると思ってやってみると良い」
「雲儼、本気でやれよな!」
それぞれに声を掛けた。
玲は強者を
墨全や突雨に
ともあれ、やらざるを得ない。
「始めっ!」
わざわざ
玲の細長い双剣が、二本揃って雲儼の
体格でも
大戟を逆さにする形で受けた雲儼はさほど力を
もう一度二本同時に斬り掛かって同様に弾かれ、左から、右からと順に振ってどちらも弾かれ、上下で揺さぶっても
玲があまりにも
相手をする雲儼が、天賦の才に恵まれているのだ。
五十
玲の
「強いな雲儼! なんで攻撃しないんだ!?」
不満……ではない。純粋な疑問だ。
「自身の妻を傷付けたいと思う男は居ません」
予定ではありますが……と付け足して雲儼は答えた。
「そうか! 強い男だな!」
玲の、幾度目かの満面の笑み。
「なら次は、
声こそ明るいが、表情は一転。
騎兵五百同士。多少の端数は「実戦では自然あること」として互いに許容。
緑野から
二つある緩やかな小高い丘を陣地に見立て、その奪い合い、もしくは相手の
剣、槍、戟、矢等あらゆる武器を、調練用の適当な長さの棒や
違反すれば首を
東の丘に雲儼軍、西の丘に玲軍。
配置は
既に陽は高く昇り、北西からの風が強まって、双方の丘で旗がはためいている。
玉英等は、近い方からでも
「始めっ!」
再び、玉英の合図で開始。──正しくは、玉英の合図で振られた巨大な旗に応じて、だ。
雲儼軍の数十騎が隊列を抜け、
玲軍の
熊族の騎射は通常、数本の矢を手に持ち、次々に
用いる弓は熊族の体格に合わせて長さ
その強力な弓で散散に矢を放ってから一旦離れる。あるいは
なお、お互い同じことが出来る熊族軍
無論
こうした根本的な軍の性質の差──
とは言え、今回は勝利条件が存在する。
玲軍が再度浴びせ掛けた騎射を、雲儼軍は自慢の
三手に分かれ、更に極力散開して、玲軍陣地を目指して駆け出したのだ。
雲儼軍が一度陣を確保すれば、玲軍による
雲儼軍が
弓の射程分だけ元々離れていたため、即座に
瞬時に覚悟を決めたのだろう。玲軍は
馬の頭を
中央の玲が右手の剣を天高く
途端、
左右に二隊ずつ。うち中央寄りの隊が先行し、一つに
先に抜けた二隊による
雲儼軍
初めて熊族と戦ったような若手もある程度含むとは言え、仮にも鎮戎公麾下だった精鋭である。
小さな
歩兵が固めているところへ突っ込めば騎兵も無事では済まない。
その上、ここ百年程で導入された
孤立させられた雲儼と周囲の四十騎余りは活路を前に見い出し、玲軍陣地へ足を踏み入れ、旗を奪ったが、その頃には味方が壊滅していた。
四十一対三百六十五。
雲儼や
「殿下、申し訳御座いません」
玉英と琥珀の天幕にて、雲儼が地に
玉英、琥珀の他、周囲には子祐のみである。
「そなたは良くやった。相手を褒めよう」
不利な条件の中、あと一歩のところまで
玲軍には地の利があり、両軍の騎兵としての根本的な差もあった。
しかも、提示された条件を
本来ならば田額に
三手に分けた場面では二名の副将格に左右を任せたが、白兵戦の際には合流していた。結局
「
条件からすれば、
「今回は致し方ない。墨全殿や突雨殿とならば、別の方法も話し合えよう」
そもそも和平と親善の促進、安定化が目的であり、この組み合わせ、この婚姻でなければならないわけではない。──
「立て、雲儼。共に墨全殿達のところへ行こう」
名目上は、雲儼が
「呼ぼうと思っていたところだ」
天幕へ入った玉英
「まあ座れよ」
突雨も、左頬だけを上げて苦笑している。
各々、昨夜と同じ席に着いた。
「うし。いいぞ、玲」
促された瞬間──
「雲儼! 玲の
全員の目が、墨全の──玉英等から見て──左に立っていた、玲に向いた。
「
言うべきことは言った、としたり顔の玲。
「私は、良いと思う」
玉英が許可を出し、
「私は、勿論、是非とも」
雲儼が受ける。
「良し、
無邪気に笑う玲を、
「ただ、聞かせて頂きたい。何故、負けた私でも良いと?」
雲儼が止めた。玲はすぐさま答える。
「雲儼は強い男だ! 玲じゃ勝てない。玲を大事にする。群れでも
一対一での武芸。玲を傷付けないようにしたこと。敗勢からの粘り。──雲儼の
「
突雨が補足すると──
「
玲は雲儼の背後へ回り込んで抱き着き、亀甲族特有の
雲儼は擬戦の最終局面ですら、突撃してきた玲の攻撃を受け止めるだけで、自ら玲を攻撃することは無かった。
見ようによっては
「雲儼、玲を大事にする。玲、雲儼を大事にする。良いな?」
再び囁く玲。
雲儼は振り向き、
「はい、喜んで」
満面の笑みを返した。
婚姻が決まってからは、早かった。
忙しかった、と言うべきか。
熊族流に盛大に
雲儼が玉英に仕える立場であることの玲への説明と、玲軍五百十四騎の
騎乗並びに騎射の修練。突雨や玲の指導が的確だったおかげで、玉英もかなりの精度で射ることが出来るようになった。他の者達も恩恵に与ったが、特に元々弓を
移民第一陣となることを希望した三万の民達との顔合わせ。──雲儼と玲が
また、日付は前後するが、玉英等の今後を左右するかもしれない、極めて重大な
擬戦の翌日、夕刻に入ろうかという頃合い。
空は晴れ渡り、徐々に強くなってきた北西の風が、草原に
いずれの牧にも、玉英
「好きに選べ」
突雨が口角を思い切り上げた。「どいつもこいつも名馬だ」と言うが、真意は別のところにある。
馬に
『馬上に生まれ馬上に死す』……熊族は、馬と共に生を送る。そこには、自らが選ぶだけではない、相手からも選ばれてこその
無論、一頭には限らない。馬の生は短く、何頭も乗り
ただ、その中でも、特別な一頭は存在し得る。
生涯の中でそうした一頭に出逢うことが、熊族にとっての
玉英は一方の牧へ入り、辺りを
百頭は居るだろうか。
どの馬も大きく、疾い。
熊族の
玉英は、寄ってきた馬の首筋を撫でたり話し掛けたりしつつ、馬達を
牧の西側、やや南寄り。一頭だけ離れて
強まってきた風へ逆らうように頭を上げ、知性の光を宿した黒い瞳で、草原の果てを眺めている。──そう見せておいて、本当は玉英を意識している。何故か、はっきりとわかった。
玉英はこれまでよりも一層速度を落とし、
すぐ横へ
しばらく、黙って見つめ合う。
「私は玉英。そなたを、
「っ! ははっ、くすぐったいよ、夕照」
瞬間、少女の顔が
夕照と共に歩み出た玉英を迎えて、突雨が
「
夕照は玉英の背丈とほぼ変わらない
『駿馬は駿馬から生まれる』──名馬の
夕照は、そのうちの
「子祐も、最高の一頭に選ばれたようだがな」
墨全も
子祐は玉英と交代で牧へ入ったが、早々に出てきた。
「
突雨は笑って認めた。
子祐の後ろには、額の流れるような白模様だけが
「名を付けて頂ければ幸いです」
子祐が玉英に頭を下げた。
「貴様の相棒だ。貴様が付けるべきだろう──」
玉英の言葉で、下げたままの子祐の頭がほんの
「──が、わかった。一字出せ」
玉英は苦笑しつつ言う。
「
「では、
「
子祐が改めて頭を下げる。
名付けられたばかりの飛影も、何を思ってか、一緒に頭を下げた。
もう一方の牧では、どこかで見たような光景が数段
全ての馬が
琥珀が
全身が雪のように白い、神秘的な馬だ。
雪
周華の馬ですら本来持て余す琥珀からすれば、明らかに大き過ぎる馬体ではあったが、銀泉で出逢い、緑野まで共に歩んでくれた馬と同様、この白馬も自ら頭を垂れ、
何しろ
能力に疑いは無かった。
その後、玉英、琥珀、子祐が熊族流に替え馬を選び出した上で、雲儼、田額、
当然、残る雲儼軍にも
緑野へ着いた日から数えて十三日目の朝。
雲儼、玲の婚姻に対する祝いはまだまだ続くはずだったが、待っていては何十日掛かるかわからない……とのことで、切り上げた。
墨全は緑野へ残るため、大きな問題は無かった。
犬族の青年
玉英等は三万に及ぶ移民達を連れて出たため、一行は大いに
元の玉英一行、雲儼軍と玲軍合わせて一千余、謹直そのものの輜重隊、突雨の麾下ニ千、兵として動ける者達を含む移民三万。
ここに、八万以上の馬と、十二万に及ぶ他の家畜が加わる。
これでも
最終的には、財産を持たない移民すら受け容れられるような、豊かな邑を築き上げることが目標だが、第一陣はあらゆる活動が手探りになる。
これまでの生活を完全に捨て去るのは無謀であり、一定の担保として家畜を導入する
熊族は土地ではなく、
移動の準備も実践も
無論、大量の家畜を
一日目にしてわかったことだが、
そうして先んじて登った丘から後ろを振り返り、琥珀は大きく目を見開いた。
「これ程とはのう」
真昼の太陽を背にして
十二万頭の
一定の集団を作り、荷運びに従事しているものも多い。
家畜は主に熊族達が管理しており、いずれの家畜にも
遊牧民の生活を
「
玉英の胸から、何か熱いものが全身へ広がった。
緑野を出てから十七日後、長城を通過。
一晩休み、三日掛けて
移民達は鎮戎公領域の
その間、元の玉英一行に雲儼軍と玲軍、輜重隊、空馬一千五百余だけで、朔原を目指す。……雲儼と玲の婚姻の儀を、
馬が多いせいもあって渡渉には二日
南岸の津から朔原まで三日で辿り着き、その夜から綿密に雲理と打ち合わせた上、翌日、翌々日まで使って主に玲軍への
玲軍の大半には
儀を終えた、夜。
王族専用区画にある部屋。寝台の上、玉英の右腕の中で、
「
と琥珀が
玉英と琥珀は、
本当に
言葉にして約束したわけではないが、幼い頃に婚約して以来、玉英はそういうつもりで過ごして来た。
西王母はお見通しだっただろうし、琥珀も、わかっているからこそ「いつかは……」と言っているのだ。
互いに
二度に
だが、琥珀を単なる
自分に出来る限りのことをし尽くして、堂々と胸を張り、自分自身が信じられる言葉で伝えたいのだ。
だから今は──
「いつか、必ずね」
──そう言って、雪よりも白い耳に、柔らかく口付けた。
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