第11話 銀泉
玉英、
季涼は自力で動けない程に消耗していたが、三日と一晩で、隊の指揮へ戻れる程になっていた。
空腹と疲労が原因だったのだ。若さもあり、回復までは早かった。
進行方向はおよそ北東。
予定としては、左へ折れて三、四日歩めば紅水ないし合流後の竜河……という位置関係を
その
更に、進路を北東へ戻して三日。
全て合わせて、二十二日。
それで、次の目標たる
紅水を出て、四日目の朝。
荒野へ横たわる山々の
その一つ目を
「次の城塞都市まで、今日を含めて十九日じゃったか」
「そうだね。順調にいけば、だけど」
一行の中心で会話するのは、琥珀と玉英。
子祐のみ、玉英
この日は文孝と黒猫族三名が前、同様に仲権隊が後ろ、梁水と茶猫族三名が左、右には残る五名──伯久と叔益、季涼、更に茶猫族と黒猫族一名ずつ──と、数の上でも指揮能力の上でも、やや右方を重視した形である。
右方、即ち南東方向は、鬼族の支配領域へ至る道。
「うむ……しかし銀泉とやら、紅水よりも大きい、というのは
玉英の視界の右半分で、琥珀の耳と尾が、表情以上に疑問を訴えている。
紅水で聞いた明華の言葉を疑っている……というより、単純に想像が付いていないのだろう。
「そのはずだよ。鎮戎公支配下の、主要な城塞都市の一つだからね」
微笑んで答える玉英。
かつて王城で教わった中にも、銀泉の名はあった。
紅水の五倍、十万の民が暮らすという。──こちらは明華による、近年の情報だ。
事実なら、根本的に民の数が多い鬼族の領域を除けば、指折りの大都市である。
他に玉英の聞き及ぶ限りでは──
銀泉は竜河からやや離れているが、その名にある通り、巨大な泉──湖を抱えており、そこから引いた水が周囲の田畑も
また、
更に、鎮戎公の支配領域、その西半分の中心、と言って良い立地。
以上により銀泉は、
──と。
対して、
それも、明華が考案した数々の方法──明華自身は「
鉄そのものがまだ研究途上の物であり、
独自と言えば、西王母の邑でもそうだった。
鉄を
──ありがとうございます。
玉英は腰の剣へ目を遣り、剣を通じて礼をするように、ゆっくりと一度、目を閉じた。
内実は異なるにせよ、紅水の、五倍の民を抱える城塞都市。
琥珀はたっぷり五つは数える程に考え込んだ末、笑って言った。
「何にせよ、楽しみじゃのう」
「うん、本当に」
玉英も、満面の笑みで答えた。
──美しい天下の全てを……周華に限らない、広い、広い天下を、一緒に見たい。
琥珀と
紅水での準備が
門限は過ぎていたが、一行の戦力であれば、旅の者や
道中同様、交代で休み、夜が明けるのを待った。
紅水からの旅の間に、この辺りの季節は春へと進んでおり、朝と夜はそれなりに冷え込むが、昼間は着物を多少薄手にしておいた方が快適だ。
翌朝、玉英等は怪しまれない程度に身なりを整え、開門を待つ長い列へと加わった。
列に並ぶ者は、犬族が多い。
そもそも鎮戎公の名が示す
犬族は総じて槍を
今となっては文化的に同化した、
小柄な猫族と比べれば全体に
大小も色も異なる
しかし、
並び始めた時に立っていた場所が、振り返ればすぐそこにある、という程だ。
「どういうことじゃ?」
玉英と並んで先頭に居る琥珀が素直に疑問を
「
背後に居た伯久が、列を外れて
その様子を見てかどうか、伯久が去ってから十も数えないうちに、列の外から、
「もし、旅のお
年の頃は三十前後。背丈は玉英と子祐の
「
琥珀が右へ向き直ると、
「はい。いずこかの高貴なお方とお見受けしました。どうかこの
犬族──豪徳は丁寧に頭を下げて静止した。耳と尾の動きすらもよく抑えて、返事を待っているらしい。
声を掛けられた段階で、琥珀を庇うように子祐が半ば
琥珀は一度背後を振り返り、玉英と頷き合ってから答えた。
「面を上げよ。話すが良い」
「はい、感謝申し上げます」
豪徳は琥珀を
「実は──」
「待つのじゃ」
琥珀が早々に止めた。
「真っ直ぐ立って話すが良かろう」
豪徳は琥珀と比べれば
「はい、失礼致しました」
ゆっくりと姿勢を変え、琥珀の承諾を得てから、
「実は──」
と改めて話し始めた。
「では結局のところ、この列はいつまで待とうが進まぬ、と?」
「はい。それもこれも全ては──」
「悪徳商賈連のせいじゃ、と」
「仰る通りでございます」
「ふむ……」
「ですから、どうかここは
そう言って、豪徳は一層深く頭を下げた。
「やや多いが、
「
豪徳は、頭を下げたままである。
琥珀は顔を左へ向け、隣に近いところまで来ていた玉英と目で会話して、
「良きに計らうのじゃ」
「ありがたき幸せ」
──どこまで下げれば気が済むのじゃ?
と思う程に下がっている、豪徳の頭を見下ろした。
豪徳の耳と尾は、相変わらず、
話し終わっても伯久は戻らなかったため、叔益以下三名の茶猫族に伝令を頼み、一行は豪徳の案内で移動した。
元居た門は南の門。それも明らかに主要な、大きなものだったが、向かった先は、北西の小さな門である。
小さな、と言っても、途中で合流した豪徳の馬車が通れない程ではなかった。──馬車には羊肉が入っているという包みが満載だった。
北西の門番には
一階は食堂、二階は宿泊客向けの部屋が並んでいる、形式としては
「ご案内させて頂けましたこと、大変光栄にございました」
部屋の前で、もう見慣れた、豪徳の深過ぎる礼を受け、
「妾達こそ感謝する。そなたの商売繁盛を祈っておくのじゃ」
「
更に礼を重ねてから去っていく豪徳を、見送った。
豪徳が去ってからしばしの
宿は北西の門から入って
「明華の勧めに従わぬことになってしまったが、これはこれで悪くなかろう?」
琥珀に
「
言い切った琥珀に、眉尻を下げつつ笑い掛けて、
「子祐」
「ハッ」
子祐に先導を頼んだ。
十万の民を
やや南西寄りの
行き交う者も多く、紅水もそうだったが、話に聞く世の乱れようとは全く異なる
「う~む、たまらんのう」
舌舐めずり、まではしないが、心では
それもそのはず。戎が遊牧民だった頃の名残りか、羊の肉が
「これにしようか」
玉英も乗り気である。
「うむ!」
身分から考えれば、通常、子祐に買わせるところだが、琥珀にとっては生まれて初めての『買い食い』である。
「そなた、これを二十本くれぬか?」
宝石のような目を輝かせて、直接声を掛けた。
しかし、声を掛けた先、じっくりと肉を焼いては
「お嬢様、
「そうじゃが……」
──何か不手際があったかや?
琥珀が目を
「結構なお値段になりやすが、よろしいんですかい?」
言われてみれば、
「ダメ……かや?」
琥珀は左隣まで来ていた玉英を見上げ、目を
玉英は柔らかい微笑みを返してから、子祐が差し出した銭の束を店の者へ渡しつつ、告げた。
「四十本貰おう。それと、話を聞きたい」
「へ、へえっ、喜んで! おい、
「あいよ
「失礼な口利くんじゃねぇ! すいやせんね、へっへっへ」
笑い方があまりにも似ていて、玉英と琥珀もつい笑ってしまった。
夕刻の、一歩手前。
宿の部屋、椅子の上。
昼頃に一度宿へ戻り、既に合流していた伯久、叔益等も含めた全員へ串焼きを渡しつつ、命じていたことがある。
その、報告を受けていた。
「よくわかった。感謝する。『頼む』と伝えてくれ」
「ハッ」
最後となった伯久の
右隣の椅子に座っている琥珀も、もう長いこと顔の各所を
「
「そうだね。見当違いなら、良かったんだけど」
「うむ。……しかし、やるとなれば、徹底的に、じゃ」
頷き合っていたところ、宿へ入ってきて大声で叫ぶ者があった。
「旅のお方! どうかお
顔を見合わせ、揃って片頬だけで笑って、今度は軽く頷き合った。
琥珀と玉英、子祐が降りて行った先に居たのは、豪徳の馬車で
「山に囚われている、じゃと?」
「へぇ、悪徳商賈の手先の山賊共に。俺だきゃあ主がどうにか逃がしてくだすったんですが、こんなことで俺が頼れるの、あんた方……あーいや、あなた方くれぇしか居ねぇんで……どうか、どうかお助け下さい!!」
地に伏せて頼み込む御者。
「良かろう、
「ありがとうございやす! そいじゃあ、こちらへ!」
琥珀と玉英は駆け出す御者の背後で視線を交わし、
御者を追うのは十四名。
伯久と、叔益以下五名の茶猫族の姿は、無かった。
銀泉の
この「南」は銀泉基準ではなく、南北に二つ連なった山同士の関係から来ているらしい。
見渡す限りでは、岩が
山の東側、
北側も、別の山と連なってこそいるものの、行き来が出来るような地形ではなかった。
「この坂の上に開けたとこがあって、
この坂の上……とは言うが、正面の坂以外にも、左右それぞれ、やや離れたところに一本ずつの小道。
更に左手奥には、
しかし、そのことについては触れず、
「うむ。そなたはここで待っておれ」
と琥珀が言うと、
「いえ、俺も行きやす。お役にゃ立てねぇかもしれやせんが、どうかお
大きく
「そうかや? ならば、梁水、文孝」
「「ハッ」」
御者の前後に梁水と文孝が付いた。
御者の体格は一般的な犬族のものであるため、完全に隠れた形になった。
「俺如きにここまでして頂かなくても……」
「気にするでない。そなたに死なれては困るのじゃ」
「ありがとう、ございやす……」
御者は、笑おうとして笑えていないような、微妙な表情で礼を言った。
「良い。では、玉英」
「
「子祐、正面。罠警戒。
「ハッ」
「仲権、四名連れて右。必要となる一歩手前で退け」
「ハッ」
「季涼は三名で後ろ。安全第一」
「ハッ」
「残る私が左……ということで
向き直って
「うむ。良きに計うのじゃ!」
満面の笑みである。
「では、
「うむ」
琥珀が季涼隊に囲まれて下がったのを確認した段階で、玉英が剣を抜き、頭上で繰り返し回した。
八か九数えた頃。左奥──南側から、何百という
夕刻である。
徐々に濃くなりつつあった影はその濃淡と形を変え、
「な、何をなさってるんで!?」
御者が慌てふためいて玉英へ詰め寄ろうとする──が、梁水と文孝に止められる。
「賊を殲滅するのだ。盛大にやらねばな」
玉英は去り際に御者の方を振り返り、笑った。
山賊とて手を
しかし、囚われているはずの豪徳が、玉英が向かった左の坂から、真っ先に駆け下りてきた。
「なんと、救出に来て下さったのですね……ありがたく存じます。この
そう言って深々と礼をし、改めて、木の
一閃。
「なっ……
豪徳が、足元に落ちた、剣を握ったままの自身の右手を見つめながら言った。
「そなたには、わかるまいな」
玉英は豪徳を冷たく見据え、その首筋へ剣を突き付けて、
「全て吐くなら、しばし生かしておいてやる」
豪徳は痛みに目元を引き
「正直な方ですね……こういう時は、『命は助けてやる』とおっしゃいませ。……いずれにせよ、申し上げることなどございませんが」
「そうか。……
再び剣が
子祐の敵になるような者は、居なかった。
木の葉がいくら打ち付けたとて、倒される巨木は無い。
雑兵が
仲権と四名の黒猫族は、正面からのぶつかり合いは避けた。
犬族は、平均で
それ以上に恵まれた身体を持つ伯久ならばまだしも、仲権
罠の有無を確認した上で
玉英達とは別方面。
南側の広い道では、犬族同士のぶつかり合いが起きていた。
とは言え、先制で
絶え間ない矢に射抜かれ、駆け下り切る前に力尽きる賊徒が
そうした
東側の様子が落ち着いたところで、仲権、季涼の隊に見張りを任せ、琥珀、玉英、子祐、梁水と文孝、彼らに
五百は数えるであろう軍の後方右側──東側が
さほど背丈があるわけではないが、真っ直ぐ伸びた背筋が印象的だ。
「銀泉を預かっております、
肌はやや焼けており、髪と耳、尾は白い。
琥珀も前へ出て、微笑みながら言った。
「妾が琥珀じゃ。こちらこそ、助かったのじゃ。妾達だけでは、
慎易が頭を上げ、大袈裟に驚いて見せた。
「なんと
「なんの、前線まで出張ってくる者を老骨呼ばわりは出来ぬじゃろう、
相手に合わせているうちに、西王母のような笑い方になっていた。
「ところで慎易、
「勿論、勿論」
幾度も頷く慎易。
その眼前へ、御者が引き出され、膝を突いた。梁水と文孝に左右の腕を捻り上げられている。
「あー、いってぇな、畜生。……無駄、ってことだよなぁ、これ」
「そうだ」
慎易は見下ろしつつ、平坦な声で言った。
「どこで
これには答えず、琥珀の顔を見て、
それを受けて、琥珀が答える。
「まずそなたら、演技が甘いのじゃ」
西王母の民ではないとは言え、鼻が利き、尾の表情を隠せないことで有名な犬族である。
本心から
「馬車に羊肉、というのもおかしかった」
城塞都市に出入りする真っ当な商賈であれば、
最近は羊肉がなかなか手に入らない、と串焼き屋が言っていたくらいなのだ。値を上げざるを得ず、生活が苦しい、とも。
店主の口利きで
「
琥珀に真っ向から
嘘が自然と排除され、誠実な商売を積み重ねることこそが、銀泉の着実な発展の
ただ、
「さて、慎易。
「はい、承りました。……おい」
慎易が部下に声を掛け、複数名で御者を連れて行かせる。
「では、しばし失礼致します」
そう言って頭を下げ、隊の後方へ戻る慎易。すぐに軍が動き出し、山を囲んでいく。一部は玉英等が担当した東側へ、別の一部は
「これで、とりあえずは皆の無事を祈るのみです」
戻ってきた慎易が言う。周りには、二十名程度が残るのみだ。護衛と伝令だろう。
「ご苦労様、じゃ」
「いえいえ、
慎易が笑みを浮かべると、
「琥珀様、とお呼びしても?」
「許す」
琥珀が頷けば、慎易は丁寧に頭を下げ、
「ありがとうございます。ところで琥珀様
「そうじゃ」
朔原は、竜河本流が最も北へ寄った部分、その
なお、竜河は朔原を取り巻くように東へ流れを変え、その後ある地点で南下し、
「でしたら、馬はご
「馬?」
「この辺りから北は、広大な荒野となだらかな山が殆どです。
「ふむ」
「朔原へは、
「妾や猫族ならば
「おそらくは」
単純な体力差である。
伯久のような例外は兎も角として、一般的には、鍛えた者同士、種族の差は如実に現れる。
「それに、旅慣れた馬ならば、水源や
見知らぬ土地を旅する上では、最重要
「
馬は貴重な戦力であり、財産である。
特に騎馬民族である熊族と
「それは無論じゃ。では──」
左の玉英と視線を交わし、微かな頷きを得て、
「頼むとしよう。……じゃが、妾も猫族も、体格が足らぬのではないかや?」
眉を
「ご安心下さい。小型の馬も居りますし、
「鐙?」
「
「ふむ。試してみようかの」
「はい。では、そのように」
慎易は微笑みながら一礼した。
「よろしく頼むのじゃ!」
周囲の玉英等が頭を下げ、琥珀は、満面の笑みで大きく頷いた。
白い尾が、火に照らされた宵闇の中で、
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