第9話 百合鶴
徒歩で十日ないし十日半。
ただしこれは、
元・
雛の『お友達』が治める
邑を出て
雪原と森、四つの山を越える道行き。
言うことを聞かない足をどうにか前へと動かし、玉英
命があった百五十名以上……正確には百五十七名居たところから、三十名減っている。
三十名の
彼女等は、比較的近くにあり交流の深い、六つの
可能ならば全員がそうしたいところではあったが、他の邑とて冬の備えに大きな余裕があるわけではない。これが限界であろうと思われた。
また、
野生の
具体的には、玉英、
大抵の場合において独力で対処出来る、と言えるのは子祐と、いくらか
正面からぶつかってしまえば
平穏な日々であれば、周華の民は一般に、一日二食
しかしこの百二十七名は、出発した段階から考えれば十四日分の食糧で二十日以上
つまり、通常二日分の食糧で、三日間過ごす――十四日分で、二十一日間を過ごすことにしたのだ。
これ以上減らせば、歩く気力すら失われる。
軍であらゆる
玉英自身、かつての旅で自らがどれだけ耐えられたか、
子祐のおかげで楽しめていた部分すらあったが、最終的には
体力の限界を超えてしまえば、あんなものだ。
もし百二十七名の半数、いや、
雛や宋林、他の民の意見も聞き、
無論、民の側も、納得の上での
計算上は、
それどころか、賊徒に襲撃されて死ぬことになるかもしれない。
皆が、
元より、何もしなければ、
それぞれが、自分達の命について、
一度は邑ごと全滅し掛けたことで、彼女等の多くは、ただの民ではなくなっていた。
その上、
栗鼠族は猫族程に劇的な反応こそしないものの、琥珀の姿を見、声を聞くことで、地面ばかり見つめていた者が、前を向いて歩けるようになった。
また、
子供達にとっては、
実のところ、両者が果たした役割は、非常に大きかった。
二十
旅程は二日遅れたが、民の疲労によるものだった。
食糧は、一度だけ『二食の日』を一食にして後へ回し、この日は水だけを口にして、ただ耐えてきた。
越えるべき最後の山――
西王母の支配領域の、
即ち、玉英等がかねてより目指していた、
その、西南の玄関口だった。
歓声が、上がった。
紅山から
紅水の上流東側に位置し、その恩恵を受けている
「なんと大きな……これでも、都ではないのかや?」
近付くことで実感が湧いたのか、琥珀が、紅水の城壁を見上げながら言った。
夕日に照らされた耳が
玉英は声には出さず、琥珀の左手を握って、微笑みかける。
どうにか間に合いそうだ、というところで、琥珀は栗鼠族達の最後方から順に声を掛けつつ、
門番と話をするのであれば、今のところ身分を隠すべき玉英よりも、琥珀の方が適任である。
少なくとも、西王母の民を率いてやって来た存在として、玉英や子祐、文孝、梁水等よりも
その点では同じ、あるいは今回に限ってはより相応しいだろう雛も、
雛は何も狙っていない様子だが、門番への心理的圧力としては、
――これ以上無い程に有用だろうな。
と玉英は思った。
何しろ、数が、数だ。
全員が
――紅水には、
玉英は一瞬別のことへ意識をやりながらも、道中
順番待ちを終えて、琥珀が門番へ話しかけようとした瞬間、
「お待ちしておりました、雛様、それに皆様。どうぞ
と、
背丈は子祐に
肩から
京洛には遠く及ばないが、
邑とはまるで規模の異なる、高さ
紅水の場合はそのいくらか外側へ、
それらに囲まれた防備十分な
「頼れるお友達、でしょう?」
としたり顔の雛が胸を張っている。名指しで呼ばれてもいたのだから、既に
視線で問う琥珀へ頷いて返し、共に先頭で
すぐ後ろで「褒めて下さいませ、お姉様!」と子祐の腰へ
丹行と名乗った門番は、鬼族からすれば腕の
城門を抜け、様々な高さの家々に囲まれた大通りを真っ直ぐ北へ。
「お尋ねしてもよろしいですか」
歩きながら玉英が問うと、丹行は首から上だけで振り返り、微笑んだ。首の可動域の広さは、鳥翼族の特徴だ。
「なんなりと」
「この城塞都市には、どれだけの者が?」
「おおよそですが、二万というところかと存じます」
「そうですか……ありがとうございます」
「いえ、他には何かございますか?」
「今は、結構です」
「いつでもご遠慮なく」
「ありがとうございます」
玉英が頭を下げると、丹行も一礼を返し、
雛の話では「元の蘭より何十倍も多い」とのことだったが、二万。
西王母の支配領域の邑々とは、文字通りに桁が違う。
住民の数に見合った広く長い通りを、しばしば後ろの民を確認しながら歩いた。
――早く、休ませてやりたい。何より、食糧と水を。
焦る気持ちは、どうにか抑えた。
大通りには、丹行と彼に付いて行く一団以外、誰も居ない。
これ程の状況を作れる者が、『お友達』の民に対する用意を、
事実、道中の五箇所で、後ろの民を誘導する役目の者を丹行から紹介された。
各箇所の一組は二十五名から三十名ずつ、とのことだったため、
宋林は「お嬢様に付いて行くよ」と言い張ったが、娘達と共に休むよう、皆で説得した。限界が近いことは、明らかだったのだ。
念の為、各組へ猫族を二名ずつ、最初の組に伯久、
先を歩む丹行が一言二言話した程度で、あとは妨げられずに
「助けられんで、すまんかったのう、雛」
「いいえ、今、助けてくれているでしょう? ありがとうございます、
大きな机の前で雛と抱き合っている少女は、明華、というらしい。丹行と似た鳥翼族だ。同じ
雛より
すらりと伸びた白い
玉英や琥珀と同じくらいの年頃と思われるが、落ち着いた雰囲気だ。しかし、
「母上や
琥珀が
「え、あ、キャラ被り? それはまずいなぁ、まずいよ。しかも猫……いや待って、白虎耳の超絶美少女!? 絶対被せちゃダメな奴だよコレ! どう見てもヒロインじゃん!! うん、やめやめ。やめ」
凄まじく早口な大きい独り言の意味はよくわからなかったが、
「と、いうわけで、こんな感じでーす! よろしくね!」
勢いよく首を
「うんうん、明華は変な喋り方しない方が良いよ」
雛が明華の顔を下から覗き込みながら言えば、
「それは妾の話し方がおかしいと言いたいのかや?」
琥珀に飛び火する。
「え、いや、そんな、琥珀様は似合ってらっしゃいますから!」
「変な喋り方が似合っておる、と」
「その、変なというのは、いつもとは違う、という意味でして、その、どちらかというと明華のいつもの喋り方の方が本当は変なんです」
「ちょっと雛それどういうこと!?」
しばらく、少女達の三つ巴の言い合い……らしきものが続いた。
玉英からすれば、少なくとも琥珀の
元・蘭からの
――こういう時間も、必要だろう。
そう、思った。
部屋を、移した。
散々言い合った末、とりあえず皆座ろう、ということになった……が、執務室には椅子が
移った先の部屋には、
出入りするのがやっとの
明華はそれぞれの椅子の上にも置いてあった数十巻を
それに甘え、明華から見て左から順に、玉英、琥珀、雛と、椅子の位置を若干整えて、座った。
子祐と文孝は、先の部屋でもそうだったが、いつも通り控え、文孝は部屋の外に立った。他の者の姿は、見えなかった。
明華はやや
「えー、で、琥珀様が琥珀様なのはわかったんだけどさ、あなたはどなた?」
先程はすぐに
「玉英、とお呼び下さい」
「はい、玉英ね。私は明華。よろしくね! ってさっきも言ったか。……で、どんな人?」
「ヒト?」
――あの刺客も、使っていた言葉だ。
「あ、ごめんごめん、どんな方?」
思索に入りかけた心を引き戻し、
「琥珀の、婚約者です」
「えっ」
数瞬、明華が止まった。
その後、玉英と琥珀を交互に見つめるようになり、いくつ数えた頃合いか。
「キッ」
「「き?」」
玉英と琥珀が首を傾げ、
「キマシタワー!!!!」
明華がはためきながら叫んだ。
更に数瞬後。
「あ、ごめんねー、つい古いオタクの血が。今はなんて言うのかな。尊い? 寿命が伸びる? 整う? エモい? それとも全部死語?」
「「……?」」
「まあなんでもいいや。百合ップルか~、それなりに上背のある黒髪赤目の格好良い
「すみませんが、駆け落ちではありません」
やはり凄まじい早口な上、半ば以上何を言いたいのかわからなかったが、訂正すべきところは、訂正する。
「あれ? そうなの?」
「はい。
「それはっ! それでっ!!」
明華は両の翼をニ度動かした。
「えっ、ってことはもしかしてもしかして、玉英って実は周華の王女様だったりとかしないの? それで大変なことになって逃げ出して西王母様に拾われてどうにか耐え忍んで今は愛しいヒロインや頼れる仲間達と共に復讐と天下取りの旅とか~って、え?」
音も無く明華の首筋に突き付けられた、剣。
子祐が、動いていた。
文孝は周囲を素早く確認した上で、そのまま警戒。
雛は息を
「子祐、やめよ」
「ハッ」
子祐を
「玉座に就くのは兄上のはずだが、復讐、まではほぼその通りだ」
「あ、ははは~、
口角こそ上げたままだが、明華も流石に
「それで、その、私、っていうか私と雛、どうなっちゃうの?」
雛の様子を横目に見て、知らなかったのだ、と理解したらしい。
「どうも、しない。一瞬気が漏れてしまってな。子祐はそれに反応しただけだ。すまない」
普段は閉じている、心の
奥底に眠る、
「私達を害する、あるいは敵を利するようなことをしないのであれば、そなた
「そっか~、はは、良かった~。ねえ雛、良かったね~あはは」
「あ、はは、はは」
「むしろ、手伝ってはくれぬか」
「「え?」」
明華達の声が重なる。
玉英は立ち上がり、それぞれに向き合って続ける。
「明華、そなたの手腕は見た。紅水は、この乱れた世で、あまりにも立派に治められている。我等をここまで受け容れる際の動きも、尋常ではなかった」
「いやあ、そんなそんな、えっへっへ」
「雛。そなたは民によく慕われ、それでいて民のために戦う気概がある。得難い資質だ」
「えっと、その、ありがとうございます……?」
「私は、そなた等が、欲しい」
双方を交互に真っ直ぐ見つめて、言い切った。
「おおっとぉ、これはまさか正妻の前で同時に愛の告白」「あの、
「そうではない。助力を頼む、と言っているのだ」
「ですよねー」
「あ、その、すみません……」
これだけ異なる反応をする者同士が、『お友達』というのは面白いな、と玉英は思った。
「今すぐでなくても良い。
「んー、いいよー。むしろ落ち着いたら付いて行くー」「その、私は、はっきりとは……ええっ!?」
明華の軽い答えに、同時に答えていた雛の方が驚いている。
「でも、明華、田舎でのんびりしていたいって……」
「そうだけどさ~、これはこれで、面白そうじゃん? せっかく
「感謝する」
「いーよいーよ、鬼の王女様
「では、そなたには今後もこうしよう。雛は、どうだ?」
「その、お姉様……子祐様も、ずっと……?」
「子祐は私の
子祐ならば、
命すら超越した、信頼だった。
「で、でしたら私も、私も付いて行きますっ!!」
「それは、今すぐにでも、ということか?」
「はい、
「そなたの民は、まだ落ち着いてすらおらぬ。……ただの雛、ではあるまい?」
「それは……そう、なのですが……」
「いずれ、で良いのだ。いずれ、
――蘭の、雛として。
「……はいっ、頑張り゛ま゛す゛っ! お゛姉゛様゛、と゛う゛か゛、待゛っ゛て゛い゛て゛下さ゛い゛っ!!」
もう、玉英の方は向いておらず、それどころか子祐の方へ走っていき、抱きついていた。
子祐は玉英に視線で許可を求め、頷きを受けて、子祐なりに誠実な答えを返した。
「私は殿下の……玉英様のものですから、雛様が何を求められても、お
「そ゛っ、そ゛れ゛て゛も゛い゛い゛ん゛て゛す゛! い゛つ゛か゛ま゛た゛、笑゛い゛か゛け゛て゛下゛さ゛る゛な゛ら゛」
「でしたら、はい。……その日が来ることを、心待ちにしておきます」
「あ゛り゛か゛と゛う゛、こ゛さ゛い゛ま゛す゛」
子祐は雛の小さな頭を支え、背をさすり続けた。
それを尻目に、
「んじゃ、私はすぐにでも付いて行こっかな」
明華が毎度の如く軽く言い放つ。「落ち着いたら」と言ったことは、既に忘れたかのように。だが、
「それは、通るまい」
玉英は軽く
「うわっ、怖っ、そんな目も出来ちゃうんだね玉英」
「ではこの目に免じて、雛と民の面倒を見てやってくれ」
「はー、わかったよ。そりゃあ元々そのつもりだったけどさ。でもどうせ私の力も必要だ、ってなると思うよ、絶対」
不満を口調と台詞でしっかり表す明華だが、
「雛達を、導いてやってくれ。そなたにしか、出来ぬ」
玉英に、真剣に見つめられ、
「そりゃー、まあね? そうなんだけどさー。はー、仕方ないなー」
満更でもない表情で了承した。
「でも、ちゃんと動ける状況を作ったら追い駆けるからね」
「それならば、歓迎しよう」
眉尻を下げた玉英と、目を細めた明華が、声を上げて笑い合う。
そのまま五つ数えた頃、
この騒がしさがいつか日常になるのだとしたら、それも悪くないな、と玉英は思った。
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