1-10
やがて警察が来て、家を調べ、僕を保護した。警察署で事情を聞かれ、第一発見者としても、いろいろと質問をされた。特に、両親の夫婦仲を中心に質問が繰り返された。まるで僕の両親が常日頃から仲たがいをして、母が父から毎日暴力を振るわれていたかのような、そう決めつけたような質問ばかりだった。つまり最近はやりのDVなるものを、警察は疑っているようなのだ。僕はここに来て現場となった家の異様さや異質さを思い出す。いつもは客室として使われていた和室には、血が全くついていなかったということ。すなわちそれは、家族が普段共有しているスペースにしか血が付着していなかったという事なのだ。
(何で? どうして?)
いくら考えても、答えが出ない。両親がいれば容易く答えを教えてはくれないが、僕が努力していることを褒めて、いずれはちゃんと答えを示してくれるはずだ。それなのに、今は父も母もいない。
「僕は」
僕はようやく小さな声を発することができた。
「僕は今日の朝、『行ってきます』と言いました」
僕の目から大粒の涙がこぼれ、頬を伝って机に落ちた。涙は表面張力に従って丸いドーム型をしていた。こんな丸い形の血痕はなかったと、今さらながらに思い出す。
「そして、お母さんが『行ってらっしゃい』と、言いました。お父さんも、『行ってきます』と言いました。お母さんは、やっぱり『行ってらっしゃい』と、言いました」
僕はここにきて、自分が泣いているのだと自覚した。鼻水を垂らし、僕の顔はぐしょぐしょになっていた。そして不意に出たしゃくりが止まらなくなった。僕の背中を、若い男の警察の人がさすってくれて、その手の温もりで、僕はようやくかぶりを振りながら大声で泣くことができた。もう両親はいないのに、早く母に抱きしめてほしかったし、早く父に頭を撫でてもらいながら、「大丈夫だ」と言ってほしかった。今僕は、こんなにも両親に飢えているのに、もう二人には会えないのだ。その寂しさと飢えと、寒さを自覚した時、僕はやっと耐え難い孤独に蝕まれていると知った。そして、これが僕を襲った現実なのだと、認めざるを得なかった。
それと同時に、僕の中で真っ黒い何かが生まれた。書道で使う墨汁が腐ったような臭くて汚い何か、だった。その墨汁は僕の腹の底からひたひたと湧きあがり、熱を帯びていた。
「どうして、お父さんと、お母さんは死んだんですか?」
泣きながら、僕はそう言った。僕の涙で、空気が一層重くなっていたのに、それがさらに重くなる。周りの大人たちからは、なかなか答えが返ってこない。僕にどう伝えればいいのか分からない、といった雰囲気だった。僕の顔も腕も、机も、涙でずぶ濡れだった。しゃくりが出てとまらない。机の無機質な冷たさが、肘を伝って僕の中の冷たくて硬いモノを変質させていくようだった。
「誰が、殺したんですか?」
僕は返答を待ちかねて、さらに踏み込んだ質問を重ねる。両親の仇を取るのは自分しかいないと思っていた。僕は胸の中に生まれた真っ黒いモノのやり場に困っていた。これを一刻も早く、誰かにぶつけたかった。誰かにぶつけて、粉々に壊したかった。もしくは、そこらじゅうにぶちまけて、真っ黒に染め上げたかった。
「それはな……」
僕と机を挟んで向かい合っていた、一番年配と見える男が重々しく口を開いた。
「ちょっと、言ったら……」
「そうですよ、
空気がざわついた。それと同時に、僕の中の黒いものもざわつく。
「マスコミの報道で知るよりましだろうが。黙ってろ」
山下は低く唸るような声で若い二人を牽制した。その様子は刑事と言うよりも、威嚇する大型犬を彷彿とさせた。空気のざわつきがおさまり、緊張感に包まれる。
「家の中で見つかった血痕は、台所と玄関、そこをつなぐ廊下だけだった。おそらくその辺で争った結果だろう」
僕は無言でうなずく。それは僕が見た光景と同じだった。
「どうやら、忘れ物を取りに戻った父親と、家にいた母親が、殺し合いをしたらしい」
僕の呼吸が一瞬止まり、しゃくりも止まった。涙だけが、一筋、頬を滑り落ちた。
僕の中にあった黒いものが一瞬にして沸騰し、ガラスが割れた時のような音と同時に弾けた。
「嘘だ!」
それは獣の咆哮だった。僕の中にいた真っ黒な獣が我慢の限界を超えたのだ。
「僕が子供だからって、嘘をつくな! お父さんとお母さんは仲が良かった。本当だ。勝手に話を作って、人を馬鹿にするな!」
僕はパイプ椅子をガタンと後方に倒して立ち上がり、山下の胸ぐらをつかんで殴りかかろうとして、他の二人に止められた。僕は物心ついた時から、一度も人に暴力を振るおうだなんて、考えたことはなかったのに、と自分に深く失望して椅子に座った。急に力が抜けて、糸が切れた操り人形のように僕は脱力した。口元にはだらしなく涎が垂れて、目は虚ろで手足は投げ出されたままになっている。僕の中にもこんなに凶暴な一面があって、こんなに荒々しい感情を飼っていることに愕然とした。しかし山下の言っていることが本当なら、警察がDVを最初から疑っていたことにも納得がいく。
「僕は見たんだ。本当に見たんだ。和服姿の女だった。あいつがきっと、何か知っているんだよ! だから調て!」
山下は鼻からため息を吐いて、腕を組んだ。
「それ、何度も聞いたが、鑑識の結果からは今のところお前以外の形跡はなかった。あまりのショックで幻覚でも見たんじゃないか?」
「げ、幻覚……?」
そう言われてみれば、人間が一瞬で消えることはできないはずだ。それなのにあの女性は僕の目の前から消えた。まさか、僕は本当に幻覚を見たとでも言うのか。
「僕をどうするの? お父さんとお母さんは、どうするの?」
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