1-9

 僕の体はがたがたと震え、一歩も動くことができなかった。ようやく半歩後退りした僕は、赤い廊下に尻餅をついて危うく失禁しそうになった。目は見開かれたまま瞬きを忘れ、充血していた。過呼吸の間から、嗚咽と喘ぎ声がしていた。そして喉の奥がきゅうっと締め上げられてようになり、僕は再び吐いた。もう胃の中の物は外で吐いて来てしまったため、透明な黄色で酸味のある粘液しか出てこなかった。


(何で? どうして? あの女性がやったのか?)


 僕はそれ以上台所に足を踏み入れることができず、この家で唯一電話のある和室のふすまを開けた。そこは血で汚れた形跡が、全くなく、きれいなままだった。僕は一瞬とまどった。それはいささか異様な光景であった。廊下と台所までしか血痕がなく、和室はどこか異世界のように「現実」とはかけ離れていた。どうして真っ赤に染まった廊下のすぐ横の和室だけが何事もなかったような澄ました顔をしているのだろう。僕は和室とあの台所のどちらが現実なのか、混乱したからだ。しかし自分を守るために抱えたランドセルと、土足の自分を確認し、やっと現実に引き戻される。僕は靴を脱ぐことも忘れ、土足のまま畳を踏んだ。そして受話器を持ち上げようとしたが、手が震えて力が入らず、何度も持ち上げようとするが、硬直した指から受話器が滑り落ちるだけだった。ようやく手にした受話器を耳に当てるが、今度は番号が分からない。頭の中が真っ白で、ひどく動揺しているせいだ。しばらくして、震えた指が一一〇番を押した。


 電話口に出た相手が何か話しかけてくるが、その声はひどく遠くで聞こえ、聞き取ることができなかった。だから僕は相手の声を無視するように言った。


「し、んでるっ。家が、血で……、いっぱいで……、めちゃくちゃ、だ」


 声が、一瞬、出なかった。震えた声で、ぎこちない口調。今にも、受話器を落としそうだったから、両手で力いっぱい押さえていた。押し付けられた受話器のせいで、耳が押しつぶされそうなほど痛かった。言葉を発するたびに、涎がだらだらと顎を伝って落ちていた。しかし僕はその感覚すらなかった。ただ、静まり返って臭いがこもった暑い部屋で、足元にパタパタと涎が落ちる音がしていた。


 電話の相手が外で待つように言ったから、僕は外に出た。いつもは五月蠅い蝉の声が、やけに遠くから僕を包み込んでいるように感じた。ランドセルを抱えたまま、僕は庭先でうずくまっていた。情けない話だが、僕はまだ現実を受け止めきれていなかった。ただ、全身の震えと吐き気、悪寒がおさまらなかった。感情も情報も、頭の中で混乱していた。夢だったことにしてしまいたい。なかったことにしてしまいたい。しかしそれなら僕がさっき見た物はなんだったのか。この震えと吐き気はどこから来るのか。そして、あの黒髪の和服の女性は何者だったのか。


(あの人間じみたものは何?)



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