1-8

 そう思った僕は酸っぱい唾液を飲み込んで、再び玄関の前に立った。今度こそは逃げるものかと決意し、僕はランドセルを腹に抱えるようにして持ち、前方からの襲撃に備える。血まみれの玄関に土足のまま足を踏み入れる。廊下の血は、乾いていた。血痕の上についた足跡で、それが分かる。フローリングの廊下にも、壁の白いクロスにも、血が走っている。鼻血で見た、丸い形の血痕は一つもなかった。壁には手の痕がくっきりついている部分もある。この臭いと空気の澱みさえなかったら、遊園地のお化け屋敷を思い出しているだろう。廊下には大小の足跡がいくつも重なっていて、その上から何かを引きずった跡がある。そのせいで、廊下はフローリングの色が分からないほど、真っ赤だった。廊下で、激しいやり取りがあったことが推測される。走って逃げる相手を追いかけ、もみ合いの末、抵抗する相手を無理矢理引きずる。引きずられた相手は、壁に手で突っ張ろうとするが、引っ張る方の力が強かった。そんなところだろうか。もしかしたら、もみ合った時にどちらかの急所に当たり、力尽きた相手を引きずったとでもいうのか。それとも、逆だろうか。死んだと思った犯人が、玄関に「死体」を置いて逃げ、目覚めた相手が最後の力を振り絞って、流血しながら廊下を腹這いに進んだのか。


 廊下の突き当たりは台所である。台所のドアが、少しだけ開いていた。いつも母が料理をしている場所だが、今日は水道の音も小気味よい包丁とまな板の音もしていない。ただただ、静かである。僕の心音と荒い息づかいだけが、僕の中で響いていた。廊下側のドアノブには、血が付いていなかった。僕は生唾を飲み込んで、そのドアノブに手をかけた。キイッっと、不気味な音を立てて、ドアが開く。


 そこには、信じられない光景が広がっていた。夕日に照らし出されたのは、全面真っ赤な部屋の中で、血の海に浮かぶ両親の死体だった。天上から床まで真っ赤だった。いや、赤かったのは夕日で、赤茶けたのが血であった。父の手にも母の手にも包丁が握られていた。紅葉した葉の如く赤い手形が、あらゆる方向であらゆるところに着いていた。両親の目にはもはや生気がなく、絶命していることは明らかだった。両親は折り重なるようにして、倒れていた。首が、ぱっくりと切り裂かれている。定まらない視界は、あるはずのない日常を求めて彷徨い、膝はがくがくといって力が入らない。


「うあっ……! あああっ……、ああっ……!」


 僕は叫び声すらまともにあげることができなかった。そして、僕の揺れる視界に黒い靄のような物が映り込んだ。ぎこちなく首を回して黒い靄を目で追うと、そこには深い緑色の和服姿の女性が立っていた。山吹色の帯を締め、着物にも帯にも鱗のような模様があった。黒い靄はこの女性にまとわりついていた。僕にはこの女性に心当たりはない。女性がふと顔を上げ、僕の方を見た。その女性の瞳は人間のものではなかった。その白目の部分は黒く、瞳の色は金色だった。まるで爬虫類の目だ。着物に似合う長い黒髪が、ゆらりと揺れて僕と目が合う。女は薄く笑って、黒い靄と共に消えた。靄からは腐ったバナナのような臭いがした。



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