1-7
今まで見たことのないカラスの色にぎょっとする。そのカラスは、夕日に染まっていた。つまりそのカラスは真っ白だったのである。プラネタリウムの「カラス座」の説話を思い出した。ギリシャ神話だったと思うが、定かではない。神の使いであったカラスは、元々白かった。しかしその使いを忘れたカラスに神は怒り、カラスの色を黒く変えてしまった。以来、カラスは皆黒く、人語を話すこともできなくなった。確か、そんな話だ。では、目の前にいるカラスは、神の使いを忘れなかったのだろうか。今でも、神の使いをしているのだろうか。日本にも八咫烏の神話があるが、そのカラスは足が三本あった。それ以外のカラスは、邪魔者や狡猾な者、不吉といったイメージがある。しかし、目の前にいる鳥は確かにカラスの形をしていて、真っ白で、足だって二本だ。泣き声もカラスのものだったから、こうも白いと逆に気味が悪かった。その白いカラスは赤い目で、窓越しに僕のことをじっと見つめ、一度だけ首を傾げるようなしぐさをして、飛び去った。その方角には、僕の家があった。それはまるで、僕の帰宅を急かすようだった。僕はしばらく、カラスがとまっていたベランダの手すりから、目が離せなかった。一瞬の微睡(まどろみ)の中にいたように、もしくは魂を持って行かれたように、僕は呆けていた。
我に返って時計を見ると、もう四時半を回っていた。急いでランドセルを背負い、僕は駆け足で学校を後にした。ランドセルが背中でポンポンと跳ねていた。黒い影が長く伸びて、僕にぴたりとついてくる。僕は白いカラスのことを忘れ、家で何を話すのかだけを考えていた。やっぱりチョコレートには外れがなかったこと。エケコ人形は女子はもちろん、男子にも受けが良かったこと。毎年のように、海外旅行を羨ましがられたこと。何からどんな風に話したら、両親は喜んでくれるだろう。以前、あまり調子に乗って自慢話を学校でしてきたことを、両親からとがめられたことがあったから、それからは思い出話くらいに調子を抑えていた。しかしやっぱり僕は、はやる気持ちを抑えきれなかった。
僕は家の前で鼻をひくひくさせた。料理上手な母は、いつもおやつや料理を手作りしてくれていた。だから僕が家に帰る頃、家からは甘い匂いや、カレーの匂いが漂ってくる。
しかし、今日はそんな臭いはしなかった。代わりに、まるで鉄棒で遊んだ後の手のような臭いが、かすかに漂っていた。何故家から錆びた臭いがするのだろうと、僕は首を傾げてそろりと玄関ドアを開けて、中をのぞきこんだ。すると、生暖かく湿った空気が顔にまとわりつき、吐き気をもよおすほどの生臭さが鼻をついた。耳鳴りがするくらい、家の中は静かだった。
玄関も、廊下も、赤茶けた絵具が大量にまかれていた。壁にも、手ででたらめに絵具を塗りたくったような跡が残っていた。僕は全身粟立つのを感じ、やはり吐き気をもよおした。そしてこらえきれずに、庭の植え込みのところで吐いた。形のなくなった給食が、酸っぱい異臭を放っている。心臓が大きな音を立て、まるで耳の中に心臓があるような錯覚を起こさせる。額からは冷たく粘り気のある嫌な汗が玉になって浮かんでいた。僕は拳を握りしめて肩で息をしていた。ぜえぜえと、喉にたんが絡んだような音がする。喘ぎの中から、涎が滴り落ちる。
(何で? どうして?)
そんな疑問しか頭の中にはなかった。そうしている内に、もしかしたら僕は自分の帰るべき家を間違えたのではないかと考えるに至った。しかし、家の外観を見る限り、そこは間違いなく僕の家だった。そして家の中の間取りも僕の家のものだった。
(何で? どうして?)
どうして家中が絵具だらけなのか、絵具から立ち上る凶暴なまでの鉄の臭いは何なのか。僕はある可能性を全力で否定して、息が苦しくなっていた。すなわち、あれが全て絵具ではなく、比較的新しい血であるという可能性である。鼻血が出た時にかいだことのある、生臭さだ。もちろん、鼻血とは比べ物にならないくらい、家の中の臭いは濃く、どこか獣の臭いも混在しているように思えた。あの大量の血は、どこから来たのだろう。一体何の血だろう。もしかしたら帰宅した母が、空き巣と鉢合わせして、どこか怪我でもしたのだろうか。僕の脳裏に、血を流しながら逃げ惑う母の姿が浮かんだ。
(僕が、母を助けなければ)
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