下
流されそうになった自分の未来を、僕は必死で引き寄せる。それは本当に力任せで、無鉄砲なものだった。
「どうして死が生者のもので、葬儀までもが生者のものなのかも、何も」
院長は僕に不可解なことを言った。死んだのは死者であるはずなのに、その死は死者本人のモノではないと。そして死者のためであるはずの葬儀までもが、死者のためのモノではないと。
「君の人生は死んだら終わり?」
院長が話し出すと、今度は両隣の二人が「また始まったよ」という顔をして溜息をつき、一方は頭を抱え、一方は書類の山を抱え、首を振りながら部屋を出て行った。あんなに互いを邪見にしていたのに、二人は同時に同じドアからすんなり出て行った。まるで今までのやり取りが芝居だったかのような慣れた様子だった。
僕は院長と二人で向かい合った。たったそれだけなのに、緊張して喉がひりついた。
「終わり、だと思います」
僕の発したたどたどしい言葉は、語尾が擦れていた。「人」が「生きる」と書いて「人生」だ。死んだらその人の人生は終わるに決まっている。死んだ人は生き返らないし、死んでからは何もできない。幽霊やゾンビなどは、所詮フィクションだ。これは僕だけの考えではなく、世間一般の常識だと思っていた。しかしそれは僕の視界に収まる狭くて小さな世界の、箱庭のような世界のみで完結するただの思い込みにすぎなかった。
「じゃあ、何で死体に儀礼なんかするのかな?」
「ギレイ?」
聞き慣れない言葉に僕は思わず首を傾げてオウム返ししていた。
「お葬式のことだよ」
こともなげに明るい口調で、院長が笑う。
「え、お葬式はお別れのため……って、あれ?」
僕はまだ小学二年生だった頃を思い出した。結婚した担任の先生の「お別れ会」をやった時のことだ。その時はクラスの皆で寄せ書きをしたり教室に飾りをつけたりした。その「お別れ会」は確かにその先生のためにしたことだ。しかし改めて考えると、そうでもないように思えてくる。寄せ書きも飾りつけも、楽しんでいたのは僕たちの方ではなかったか。
「お別れ会。でも、それってすごく変だよね」
僕の思考を読んだように、院長が言う。
「ただのお別れ会なら、火葬をした瞬間に終了しているはずだ。それなのに、死体をわざわざきれいにして、化粧までして、旅の装束を着せて、お金まで持たせる。地域によって違いはあれど、死体に対してここまで手厚くするのは何故かな? 知ってる? 死後に結婚することも珍しくはないんだ」
「け、結婚?」
僕は大げさなほど目を見開いて、大声を出していた。死後に結婚するだなんて、どうやるのか想像もできなかった。それでもありったけの想像力で、僕は「死」から骸骨の新郎新婦を連想して気分が悪くなった。
「
院長は宙に指で漢字を書くが、僕には難しくて理解できなかった。それに、死後に離婚する際には結婚届や死亡届を役所に出すのと同じで、市役所や役場に「姻族関係終了届」という書類を提出するということは、現実なのに現実味がない。しかし必死に頭を動かしている内に、昔のテレビの知識が転がり出てきた。それはエジプトのミイラの話しだった。僕はテレビをあまり見る方ではなかったが、教養番組やドキュメンタリー番組に限って父と見ていた記憶がある。父の口癖は「何でも勉強、何でも経験」だった。
「そう言えば、死者の魂は旅をして死体に戻って、生き返るって信じていたところもあったんですよね?」
「過去形ではなく、現在進行形だよ」
院長は釘を刺す。
「そう、死とは、ただの通過点に過ぎない。つまり死は、七五三や成人式、結婚などと同じく、人生のイニシエーションだと言える」
イニシエーションは日本では通過儀礼と訳される。元々所属していた集団から、他の集団に移る際に行われることが多いという。もしくは、未熟で生まれた子供が、儀礼を行うたびに成熟していく過程ともいえる。いずれにせよ、割礼や抜歯など、痛みを伴う儀礼行為が有名だ。
「死んだ人は、ただの一本道を進んでいっただけということ?」
「平たく言うと、そう言うことだ。ただ活動が見えなくなっただけだ」
死後にも、人生があるということだ。僕にも死んだあとの人生があるということだが、やはりうまく想像できなかった。
「そして、葬式とは新しい人生の始まりでもある。そしてイニシエーションと言うからには、どこかの集団への帰属の儀礼でなければならない。さて、どこの集団だと思う?」
「え? えっと、死んだ人達?」
僕は必死になって答えをひねり出す。
「そう。先人、つまり先祖たちと合流し、暮らす。まさに新生活のスタートだ。どう? 死についての意識は変わった?」
「少し、だけ」
僕はごまかすように笑った。すると院長も愉快そうに笑った。しかも声をたてて。落ち着いた雰囲気の院長だったから、意外に思った。
「死というのは、とかく誤解されやすく、そのため、いろいろな意味で衝撃的だ。それを今すぐに理解するのは難しい。ゆっくり休んで考えるといいよ」
葬儀会社を敵に回すような会話と、新興宗教のような説明をされたが、不思議と僕の心は凪いだままだった。きっと、理解を強要されたり、変に優しくされたりしなかったからだ。院長は机の引き出しを開けた。木材同士が擦れる音が微かに聞こえた。次に金属が揺れ、窓からの光に照らされて一瞬まぶしかった。それを院長は机の上に置き、僕の方に押しやった。鍵には見覚えのある人形が付いている。おじさんが万歳をしているユニークな人形だ。
「これ、君の部屋の鍵。トイレの右隣」
僕は何歩か歩いて机に近づき、ゆっくりと手を伸ばした。僕の手がもう少しで鍵に届きそうになった時、院長が不意に鍵に手で蓋をした。今度は何も起こらなかった。僕の戸惑いを察するように、院長は言った。
「君は毎日学校に通い、普通の生活を送ること。そしてここの雑用は全て君の仕事だ。今まで甘やかされてきた君にとって、けっこうハードだよ。それに加えて、僕の手伝いもしてもらう。もう、これが最後だよ。もう二度と、引き返せない。それでもこの道を進む勇気が、君にはある?」
僕は今まで本格的な家事をやったことがない。やったとしても、夏休みの宿題としてのお手伝いか学校の掃除くらいだ。全て、今まで誰かに甘えていたからだ。こんな境遇だったから、学校に行かなくてもいいと、言ってくれることを少し期待していた。しかも、ボランティアさえやったことのない僕が、得体のしれない仕事を手伝うなんて、考えもしなかった。どれもこれも、僕が自分に甘かったからだ。でも、書類の山を抱えた彼女の言うとおりだ。
『かわいそうだからといって、何でも許されるわけではないし、いくらかわいそうでも、周りが何の見返りもなく手を差し伸べてくれるわけではない』
僕は乾ききった唇で息とつばを飲み込む。そして、大きく深呼吸をして院長の緑色の瞳を見つめる。
「はい。これが僕の、イニシエーションですから」
院長はやはり薄く笑んで、うなずいた。その佇まいに、慧眼さがにじんでいた。
「よろしい」
院長は手の中にあった鍵を僕に渡した。僕の手の中に落ちて来た鍵には、風変わりな人形がキーホルダー代わりについていた。エクアドルのラッキーアイテムとして有名なエケコ人形だ。以前テレビ番組で恋愛成就の人形として紹介されて、一時期ブームになった。僕は息をのみ、その人形を手にすることを躊躇った。
「これって……」
(壊れてなかったんだ)
院長こと、ゲンゲは治療を行う前に、この人形が壊れてしまうことを示唆していた。しかしそれは杞憂に終わったのだ。
「大事なものだろう? それにその人形が家を背負っているのは、とても象徴的だ。叶うといいね。いつか、君が願うものが見つかることを願っているよ」
思いもよらぬことに、僕の胸は熱くなり、言葉に詰まった。今、エケコ人形が背負っているのは家のミニチュアだ。家が象徴するのは「家族」や「居場所」だ。もう二度と手にすることはないと諦めていた人形を、僕は握りしめていた。
「じゃあ、明日は朝七時までに朝食の準備を頼んだよ。洗濯も忘れずに干して行ってね」
「はい!」
僕は鍵と人形を握りしめ、緊張しながら返事をした。
そして僕はここで生活を始めた。地図にも載っていないこの場所で。さらに言えば、インターネットで検索すらできないこの場所で。六畳一間にベッドと机と椅子だけの簡素な部屋に最小限の荷物を運び入れると、随分生活感が出た。僕はこの部屋で勉強し、全ての部屋の家事を時間通りにこなしていった。何と言ってもここの住人達の生活は規則的だ。テレビも電波時計もなく、スマホだってないのに、一分も狂わない。これが大人なのかとも思ったが、全てを時間通りにこなせる人は少ないだろう。学校の授業ですら、チャイムが鳴るのに一、二分のずれはしょっちゅうだ。
抜群の体内時計。
その大切さを僕が知るのは、まだ先のことだった。
まずは僕が何故こんなところでこんな生活を送ることとなったのか。そのことについて話さなくてはいけない。
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