終末のエデン ~姫騎士様の仰せの通り~

七沢ななせ

第0話 魔法暦889年 最後の希望

「迎撃準備! 左翼からの敵に注意!」

「はっ!」

「私が血路を開く! 皆、ついてきなさい!」


 緊迫した陣営から巨大な雄たけびが上がった。騎馬もなしで先陣を切るのは、細身の女である。足場の悪い地面を軽やかに蹴り上げながら、彼女は走る。風になびくプラチナブロンドの髪の隙間で、ルビーの瞳が強い光を放った。


◇◇◇


 周囲からは立て続けに爆音が響いている。上空には赤黒い靄が重く立ち込め、息もできないような熱気が充満している。常に地響きが鳴り、胸の悪くなるような唸り声や悲鳴がこだまする。常人ならば、五分もここにいられないだろう。常日頃気持ちの良い場所ではないのに、今日は特に酷い。


 岩の地面に転がった無数の死体は、体のどこかを欠損しているか原形をとどめていないかのどちらかである。腹部に突き刺さった血濡れの剣。首を貫通する鉄の矢。物言わぬ躯の顔に浮かんでいるのは、絶望と苦悶の表情。


 世界では、魔法大戦と呼ばれる人類と魔族との決戦が繰り広げられている。一世紀にもわたる魔法大戦は、泥沼化していた。圧倒的な魔力と残忍さを持つ魔族側の攻撃に、人類は疲弊していた。徐々に尽きていく戦力。膨張した税収に、国民の怨嗟の声も増していく。もう、ここで終わらせなければならない。


 最後の砦であるツラーナ要塞を突破されてしまった後では、もう負けられない。ここが正念場だ。


 人間側は魔王城側に陣営を置く魔族たちと、500メートルほどの距離を置いて、人間たちの陣営が広がっていた。


「今日も地獄も、いい天気ですわ!」


 人間側の陣営――エル=アリアナ王国陸軍――の遊撃部隊の先頭で、女が一人、大きく伸びをした。


「随分特殊な感性をお持ちのようだね? 隊長」


 プラチナブロンドの巻き毛を振って、炎の輝きを放つ瞳を猫のように細める彼女の隣で、長身の男が望遠鏡を片目にあてながら静かに言った。


「ん? 私を変人と言いたいのかしら、ライナー君」


 ローズ色のルージュが引かれた形の良い唇を曲げ、彼女は微笑んだ。


「何を言っているのかな、ミア? 君は生まれた時から変人だろう」

「まあ、失礼ね。それが淑女に対する物言いかしら?」


 今から殺し合いを始めるとは思えない、和やかな時間が流れる。


 彼女の名前は、アルテミシア・ボーリガード。長い名前を略してミアと呼ぶのは、家族とライナーだけである。彼とは幼いころからの付き合いで、上司、部下、という関係になったのは、つい最近のことである。


 ふいと目をそらし、傍らに置かれた巨大な戦斧に指を滑らせている。漆黒の柄は身長ほどもあろうかという長さ。金の石突には金の突起がつけられており、それで殴られれば肉くらいは簡単にえぐれるだろう。斧は両刃で、片方は一般的な刃。そしてもう片方は下方に向かって急激な曲線を描く、細身の刃となっている。珍しい形状の武器だ。これだけ巨大な戦斧となれば、重量も相当なものになる。まさに、彼女にしか扱えない武器である。


「……よろしく頼むわね」


 赤い唇をかすかに動かして、彼女は小さくつぶやいた。その声は、ライナーにも聞こえないほど。柄にはめ込まれた巨大なルビーの輝きを、同じ色をした目に焼き付ける。


 覚悟はできている。


 彼女はただまっすぐに敵陣営の方を見つめた。


 ライナーは望遠鏡から目を離し、小さく嘆息して圧倒的な存在感を放ちながら隣に立つ主人を見つめた。すっきりとした鼻梁や、長いまつ毛。恐ろしいほどの美貌を持つ彼女は一見、人類最後の希望と謳われるほどの実力があるようには見えない。ほっそりしたあの身体が、どのように戦場を舞うのか。そして、どれだけの精神力と根性を持っているか。


「ライナー、ちゃんと私についてくるのよ。私がいる限り、もうだれも傷つけさせないから」


「……わかったよ」


 戦場では不可能な誓いを、彼女はいつも口にする。その度に、彼女は傷を負っていく。ライナーは何も言わずに頷く。


 死と絶望の匂いが立ち込める中で、一人の人間の女だけが、清涼な命の輝きを放っていた。


 人類最後の戦いが、今、始まる。


◇◇◇


「っ……!」


 鋭い魔獣の爪が左頬を切り裂き、血が溢れる。アルテミシアは一瞬目を閉じた。後退する勢いのまま、戦斧を横なぎにして魔獣の目を潰す。耳が割れるような悲鳴が響き渡り、攻撃が緩んだ。少しの暇も与えず戦斧を一回転させ、石突を繰り出して魔獣の腹をえぐった。


「ギャアアッッ!!」


 血しぶきが飛び、アルテミシアの戦闘服を汚す。ぽたぽたと血の滴る頬の傷をぐいっと拭い、アルテミシアは倒れた獣を見もせずに次の敵に取り掛かる。


「邪魔よっ!」


 アルテミシアが斧を振るたびに、敵が減っていく。刃でなぎ倒し、曲がった刃で喉や腹を正確に抉り上げる。長い柄で敵を制止し、石突で頭を殴打する。その繰り返しだ。目指すは東にあるツラーナ要塞。ここで敵を押し戻せば、活路が開ける。


(ここで勝つの、絶対に‼)


 束になってかかってきた敵を一気に薙ぎ払い、部隊長のいる方向へ駆けだしたその瞬間。


「ぐああっ……!」


 ぼたぼたと血が落ちる音。砲撃や悲鳴、怒声が響き渡る戦場の中で、その音が嫌にくっきりとアルテミシアの耳に届いた。


「ライナーー――!」


 全身の血が凍る。すぐにライナーの方へ向かおうと、走る向きを変えようとしたその時。


「隊長! 後ろです!」


 不意に仲間の怒声が響き、アルテミシアははっと振り返った。油断した。警戒を怠ってしまった。歯を食いしばり、戦斧を横にして突き出すと、勢いよく振り下ろされた魔族の刀が嫌な音を立てて柄にめり込んだ。


「死ねえっ!」


 アルテミシアに切りかかっているのは、まだ年端も行かない少年だった。魔族の鎧を身に着けているが、その容貌は人間と何も変わらない。甲冑はぶかぶかで、これでは何も防げないだろう。言葉を失ったアルテミシアに、少年はさらに強く刀を押し付けてくる。その目は必死だった。


 まぎれもない殺意だけが、彼の目にあった。


「……っ!」


 アルテミシアは頬をゆがめ、浅く息を吸う。殺したくない。こんな子供を。けれど、殺さなくては。殺さなくては進めない。食うか食われるか。戦場はそういうところだ。一片の情けも、ためらいも命取りになる。殺すか殺されるか。それは競争であり、甘えを許さない過酷な必然である。


 誰も、選ぶことは許されない。


 アルテミシアは軽々と少年の刀を振り払い、 歯を食いしばって戦斧を振り下ろす。少年の首を落とした時、アルテミシアの胸は痛まなかった。噴き上がる血のしぶきを斧に、鎧に、髪に浴びながら、アルテミシアは息を吸う。


 ぶんっと斧を振って、血を落とした。刃を見やると、早くも血と脂でぬめり始めている。それを見ても、アルテミシアの頭にあるのは斧の切れ味の心配であり、殺した数を省みるものではなかった。


 次から次に敵がやってくる。進めない。前に進めない。その先にいる仲間を思い、アルテミシアはさらに強く斧を振る。荒い息を吐きながら、血を拭う。


「どけええっ!」


 アルテミシアは叫ぶ。死なないで。まだ――。


 死なないで。


 お願い。


 襲い掛かってきた敵の頭に石突を振り下ろし、頭蓋を陥没させる。深く切り裂いた腹部から、内臓がこぼれるのを見た。首を斬り落とす寸前の、絶望に歪んだ顔を見た。


 それでも進まなければ。


 守るために。助けるために。


 でも、それを阻む壁は高い。超えられるか? 可能不可能ではない。何が何でも可能にしなければならない。すべて実力だ。自分の力で。


 戦場とは、そういうところだ。

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